ハンナは焦っていた。
ハネムーンから帰った次の日、届いたボルドーのドレスを見たヘンリクは、今まで見た事のない顔をハンナに向けた。
ヘンリクは、ハネムーン中は元より、学園時代からずっとハンナのいうことは何でも聞いてくれたし、その瞳には、常にハンナを求めて止まない懇願のような熱が籠っていた。
その熱が、その日以来感じられなくなってしまったのだ。
愛情がなくなってしまったわけではない。しかし、それは穏やかで優しく、家族に向けるようなものに変わったのを感じた。
そして、あの焦がれるような熱に変わって、瞳の奥に浮かんでいるのは困惑だった。
ハンナが涙を浮かべて懇願すれば、どんなわがままも受け入れてくれたヘンリクが始めて見せた抵抗だった。拗ねて見せても、体を寄せて甘えても、ボルドーのドレスだけはどうしてもだめだと繰り返すばかりだった。
その夜、ヘンリクはすすり泣くハンナを抱きしめて慰めるだけで何もしなかった。
一夜明け、傷心のハンナを置いて邸を後にしたヘンリクの態度に、ハンナの自尊心はひどく傷つけられたのだ。
その瞬間、ハンナのヘンリクへの愛情が、思い通りに動かない相手への怒りと執着に変わった。
それから数日後、ハンナの邸を訪れた「親友」たちから、ヘンリクの妻の噂を教えられた。それは、バルテス前公爵のエスコートで、美術館のオープンレセプションに現れた絶世の美女という、思いもよらないものだった。
ハンナの驚きの反応を見た「親友」たちは、いつものように優しく慰めの言葉を掛けた。
「でも、着ていたドレスはボルドーではなく、ターコイズブルーだったそうよ。妻として認められていないというのは本当だったのね。それに引き換え、夜会でのハンナのボルドーのドレス、楽しみにしているわね」
ボルドーのドレスを着る事は禁じられている。
「夫に相手にされないからって、高齢の男性に手を出して気を引こうだなんて、聞いていて笑ってしまったわ。ヘンリク様は毎晩ハンナと過ごしているのでしょう? それなら子供もすぐに授かるわよね。そうしたらあんな女、追い出してしまえば良いのよ」
ハネムーンから帰って以来、ヘンリクは夜を共に過ごしても手を出してこない。
「そうそう、美術館の館長とこれ見よがしに美術史なんかを語っていたそうよ。その話を聞きたいというサロンや茶会に招待されているそうだけど、高位貴族しか相手にしていないんですって。学園も出ていない愚かな女が見栄を張るなんて、きっとすぐに化けの皮が剥がれて社交界中の笑いものになるわ。その前に、ハンナが真のヴィッセル侯爵夫人だと知らしめてヘンリク様と侯爵家を救わなきゃね」
ヘンリクの口から、第二夫人という言葉が出る事はなくなった。
「親友」たちの言葉がハンナの焦りを煽って行く。
さらに数日後、ヘンリクのエスコートで夜会に現れた美しい彼の妻を見て、激しい嫉妬の炎が燃え上がった。しかし、それはあの女の容姿に対してではない。顔や体なら自分だって自信がある。
その時、ハンナはヘンリクの目の奥に微かに灯る、とある光を見つけてしまったのだ。
それは、学園時代に自分を取り巻いていた多くの令息たちが自分に向けていた瞳と同じ、手に入らないと分かっていても、諦めきれない切ない思い。
自分の男が他の女にそんな瞳を向けるなど許さない。ハンナは屈辱に震えた。
どんな手を使っても、あの女にヘンリクは絶対に渡さない。
ハンナは相変わらず邸を訪れても手を出す事のないヘンリクに苛々を募らせ、邸に来ない夜はあの女の所に居ると思うだけで一睡もできない日々を過ごしていた。
そんなある日、ハンナを心配した「親友」たちから、秘密の夜会へ招待された。
身分や名前を隠して、貴族の礼儀なども必要なく、ただ楽しく夜を過ごす「仮面舞踏会」だという。
目元を隠して参加したその夜会で、多くの男性たちに囲まれ、かつての自信を取り戻したハンナは、ヘンリクの訪問のない夜はその夜会で夜を明かすようになっていた。
何度目かの夜会で、綺麗な金髪をふんわりと優雅にセットし、高貴な雰囲気を漂わせた人好きのする紳士に声を掛けられ、勧められるままシャンペンを飲みながらヘンリクの愚痴を聞いてもらっていた。
「そんな不実な恋人の事など、俺が忘れさせてやろう」
朦朧とした意識のまま頷き、その人物と一夜を明かしてしまったのだ。
空が白みはじめ、寝台の隣に眠るあの紳士の存在で過ちに気付いたハンナだったが、こうさせたのもヘンリクのせいだと言い聞かせ、その紳士が目を覚ます前に夜会の会場を後にしたのだった。
その日を境に、流石にあの夜会に足を運ばなくなったハンナだったが、ヘンリクの友人の誕生日のパーティーで、その紳士に声を掛けられた。
「あの日の熱い夜が忘れられなくてね。これからも仲良くしたいんだよ、ヴィッセル侯爵第二夫人」
それ以来、その紳士は「親友」と共に頻繁に邸を訪れるようになった。ハンナは二人に求められるまま、宝石やドレスを譲っている。独身時代に多くの令息から愛の証として贈られた宝石やドレスはもう渡してしまった。
侯爵家の財産として目録にある宝石とドレスを返した今、手元に残っているのは、ここへ来る前にヘンリクから贈られた思い出の品ばかりだ。これもすべてなくなってしまった時、彼らはどんなことを要求してくるだろう。
暗澹たる思いに沈む中、ハンナはいつしか、ヘンリクの訪れがない知らせに安堵するようになっていった。
ハネムーンから帰った次の日、届いたボルドーのドレスを見たヘンリクは、今まで見た事のない顔をハンナに向けた。
ヘンリクは、ハネムーン中は元より、学園時代からずっとハンナのいうことは何でも聞いてくれたし、その瞳には、常にハンナを求めて止まない懇願のような熱が籠っていた。
その熱が、その日以来感じられなくなってしまったのだ。
愛情がなくなってしまったわけではない。しかし、それは穏やかで優しく、家族に向けるようなものに変わったのを感じた。
そして、あの焦がれるような熱に変わって、瞳の奥に浮かんでいるのは困惑だった。
ハンナが涙を浮かべて懇願すれば、どんなわがままも受け入れてくれたヘンリクが始めて見せた抵抗だった。拗ねて見せても、体を寄せて甘えても、ボルドーのドレスだけはどうしてもだめだと繰り返すばかりだった。
その夜、ヘンリクはすすり泣くハンナを抱きしめて慰めるだけで何もしなかった。
一夜明け、傷心のハンナを置いて邸を後にしたヘンリクの態度に、ハンナの自尊心はひどく傷つけられたのだ。
その瞬間、ハンナのヘンリクへの愛情が、思い通りに動かない相手への怒りと執着に変わった。
それから数日後、ハンナの邸を訪れた「親友」たちから、ヘンリクの妻の噂を教えられた。それは、バルテス前公爵のエスコートで、美術館のオープンレセプションに現れた絶世の美女という、思いもよらないものだった。
ハンナの驚きの反応を見た「親友」たちは、いつものように優しく慰めの言葉を掛けた。
「でも、着ていたドレスはボルドーではなく、ターコイズブルーだったそうよ。妻として認められていないというのは本当だったのね。それに引き換え、夜会でのハンナのボルドーのドレス、楽しみにしているわね」
ボルドーのドレスを着る事は禁じられている。
「夫に相手にされないからって、高齢の男性に手を出して気を引こうだなんて、聞いていて笑ってしまったわ。ヘンリク様は毎晩ハンナと過ごしているのでしょう? それなら子供もすぐに授かるわよね。そうしたらあんな女、追い出してしまえば良いのよ」
ハネムーンから帰って以来、ヘンリクは夜を共に過ごしても手を出してこない。
「そうそう、美術館の館長とこれ見よがしに美術史なんかを語っていたそうよ。その話を聞きたいというサロンや茶会に招待されているそうだけど、高位貴族しか相手にしていないんですって。学園も出ていない愚かな女が見栄を張るなんて、きっとすぐに化けの皮が剥がれて社交界中の笑いものになるわ。その前に、ハンナが真のヴィッセル侯爵夫人だと知らしめてヘンリク様と侯爵家を救わなきゃね」
ヘンリクの口から、第二夫人という言葉が出る事はなくなった。
「親友」たちの言葉がハンナの焦りを煽って行く。
さらに数日後、ヘンリクのエスコートで夜会に現れた美しい彼の妻を見て、激しい嫉妬の炎が燃え上がった。しかし、それはあの女の容姿に対してではない。顔や体なら自分だって自信がある。
その時、ハンナはヘンリクの目の奥に微かに灯る、とある光を見つけてしまったのだ。
それは、学園時代に自分を取り巻いていた多くの令息たちが自分に向けていた瞳と同じ、手に入らないと分かっていても、諦めきれない切ない思い。
自分の男が他の女にそんな瞳を向けるなど許さない。ハンナは屈辱に震えた。
どんな手を使っても、あの女にヘンリクは絶対に渡さない。
ハンナは相変わらず邸を訪れても手を出す事のないヘンリクに苛々を募らせ、邸に来ない夜はあの女の所に居ると思うだけで一睡もできない日々を過ごしていた。
そんなある日、ハンナを心配した「親友」たちから、秘密の夜会へ招待された。
身分や名前を隠して、貴族の礼儀なども必要なく、ただ楽しく夜を過ごす「仮面舞踏会」だという。
目元を隠して参加したその夜会で、多くの男性たちに囲まれ、かつての自信を取り戻したハンナは、ヘンリクの訪問のない夜はその夜会で夜を明かすようになっていた。
何度目かの夜会で、綺麗な金髪をふんわりと優雅にセットし、高貴な雰囲気を漂わせた人好きのする紳士に声を掛けられ、勧められるままシャンペンを飲みながらヘンリクの愚痴を聞いてもらっていた。
「そんな不実な恋人の事など、俺が忘れさせてやろう」
朦朧とした意識のまま頷き、その人物と一夜を明かしてしまったのだ。
空が白みはじめ、寝台の隣に眠るあの紳士の存在で過ちに気付いたハンナだったが、こうさせたのもヘンリクのせいだと言い聞かせ、その紳士が目を覚ます前に夜会の会場を後にしたのだった。
その日を境に、流石にあの夜会に足を運ばなくなったハンナだったが、ヘンリクの友人の誕生日のパーティーで、その紳士に声を掛けられた。
「あの日の熱い夜が忘れられなくてね。これからも仲良くしたいんだよ、ヴィッセル侯爵第二夫人」
それ以来、その紳士は「親友」と共に頻繁に邸を訪れるようになった。ハンナは二人に求められるまま、宝石やドレスを譲っている。独身時代に多くの令息から愛の証として贈られた宝石やドレスはもう渡してしまった。
侯爵家の財産として目録にある宝石とドレスを返した今、手元に残っているのは、ここへ来る前にヘンリクから贈られた思い出の品ばかりだ。これもすべてなくなってしまった時、彼らはどんなことを要求してくるだろう。
暗澹たる思いに沈む中、ハンナはいつしか、ヘンリクの訪れがない知らせに安堵するようになっていった。



