2Kの君~終電帰りの限界OL、自室のドアを開けたら異世界騎士の部屋と繋がっていました

 白い空間。
 白い天井、白い壁、床石も滑らかな白色。
 白い手が差し伸べられ、まどろみの中で、凛子はぼんやりと夢の続きかと思う。

 慈しむように指先は額に触れ、髪に触れ、肩から腕をなぞり、傷ついた中指へとたどり着く。ほんわりとした暖かさを感じたが、その程度では完全なる覚醒に至らない。もう起きたくない。心がそう言っている。

 ふわり、と花の香が流れてくる。
 現実から逃避しかかっていた彼女は、だがしかし、次の瞬間強制的に覚醒させられた。
 唇に触れる柔らかな感触。
 視界を占領しているのはプラチナ。さらりと落ちる髪が頬を擽る。

「誰って――シャール!? ……じゃない!」

 飛び起きた彼女は、目の前の男を凝視した。
 凛子の射るような視線を受け止めた男は、ゆっくりと体を起こして、ゆるゆると口の端に微笑を湛える。

 甘やかな雰囲気を漂わせる大人の男性だ。

 純白の長衣はきちんと襞がとられ、腰下あたりを淡い金色の飾り帯で締めている。
 くすくすとした忍び笑いは不愉快では無い。

 こんなに色気を纏わりつかせている男と面識があっただろうか。あったとしたら忘れている筈が無いだろう。記憶を探り、それから首を横に振った。

 記憶の中にある配色とは似ていて比なるもの。
 彼ではない。

「おや、判る?」

「ワカル、ワカラナい」

「放浪の一週間で少しは言葉を覚えたのだね」

「ホウロ……ワカラナい」

「ああ、良い。僕は急いでいないから」

「…………ワカラナいッ」

 上品に微笑む男は、柔らかな声で続ける。

「お腹はすいているかな?」

「…………」

「何か飲み物は? お茶はどうだろう?」

 問いながら男が片手をあげる。
 それが合図だったのか、窓辺の卓に、銀食器が並べられた。

 こういった場面では、給仕をするのにメイドか何かが登場しそうだ、とぼんやり思っていた凛子の期待は裏切られ、こざっぱりとした白い巻頭衣姿の青年が二人、手際良く湯を沸かし、茶葉をカップに割り入れる。ほうじ茶に似た芳香は、こちらに来てから初めての物だ。

 黙り込んでしまった凛子を眺めていた男は、自然な所作で女の背中に右手をあてて寝台から立ち上がらせた。左手は凛子の右手をとり、しっかりとエスコートの体制だ。流されるまま、円卓へと案内され、凛子は給仕の青年が無言で勧めた陶磁器のカップを手にする。

 一口飲んで、ぶっと吹いてしまう。今度こそはっきりと目が覚めた。カップの中で揺れるのは濃い飴色。

「おやおや、お気に召さなかったかな?」

 いつの間にか、目の前の椅子をひき座っていた男が、面白げに首を傾げる。相変わらず言っている事が理解できないが、凛子は改めてカップに口をつけ、液体を一気に嚥下した。ほうじ茶の匂いがするチョコレート味のお茶を。

「……ナニ?」

 自分の言葉は果たして通じているのだろうか。不安になり凛子は男をじっとみつめる。

「気に入った? ピエヌ茶だよ」

「ピエヌ」

「そう、ピエヌ。君はそれが好きなのだろう? 違う?」

 見れば見るほど、彼女の知る男の面影を残している。
 泣き黒子なんてあったかなと、記憶を手繰り寄せ、やっぱり違うと首を振る。

 仕事柄、フィルムのチェックは日常茶飯事。モデルを使用した写真の場合、色合いから表情まで、事務所の許諾や編集部の意見の足並みが揃うまで、繰り返し行っていた。

 仮初の同居人と、目の前に居る男は別人だ。もしも目の前の男が彼ならば、もっと感動的な再会場面があっても良いだろう。

「表情がくるくる変わるね」
 それに――
「僕をそんなに見つめる女性は居なかったな。今まで」

 歌うように男は言う。

「さてと、エイゼルもおいで」

 名を呼ばれるまで、完全に扉の外で空気となっていたエイゼルは、背筋を伝う嫌な汗を感じた。恐る恐る室内を覗き込んだ瞬間、黒い瞳がこれでもか、という位見開かれる。

 かしゃんと、陶器のカップを凛子が落とした。

「――――、エイゼルっ!!」

 怒気をはらんだ声が、室内に響く。

「駄目だよ子猫ちゃん」

 立ち上がりかけた凛子の腕を、男が掴む。そしてそのまま引き寄せた。
 自分を制する腕の強さに、凛子が目を白黒させているうちに、抱え込まれる。

「やれやれ子猫ちゃんはご機嫌斜めなのかな」

 耳音に落とされる声音はどこまでも優しい。囁きとともに耳朶を噛まれ、今度こそぎょっとして身を竦ませた。

 瞬間的に沸き起こった怒りも吹き飛ばされる。

「……ナニ?」

「僕はディエ……そうだなディル。が良いかな」

 横抱きにされ、凛子の視界には言葉を紡ぐ男の唇しか見えない。距離が近すぎるのだ。

「僕の名前はディル。判るかな? リィン」

 名前を呼ばれて、瞬きをする。

「ディル。そう呼んで? リィン」

「ディ、ディル」

「そうだよ宜しくリィン。愛らしい子猫。ようこそ僕の箱庭へ」

 流れるような音節の組み合わせが流れたのを最期に、凛子の意識がぷつりと遮断された。

◇◇◇

 なんの記憶も無い空白の時間を過ごし、凛子が再び目覚めた時、やはりと言って良いのか、先ほどの白い空間に設置されてある寝台の上だった。

 胡乱げに頭をふるう。
 自分の意思で抗うことの出来ぬ睡眠というのは、まったくもって不愉快だ。

 こめかみをもんで身を起こす。
 空間はひっそりと静かで、人間が生活している気配が無い。調度品の少ない白い室内は、まるで病室を喚起させる。

 いつの間にか着替えさせられたのか、今朝着ていた服――借りた紺色の膝丈ワンピースといつもの黒いコート黒いブーツ――ではなく、踝まであるすとんとした生成りの衣服を身に着けている。足は裸足だ。

 暫くの間寝台に腰掛けて足をぶらぶらさせていたが、立ち上がり室内をぺたぺたと歩き始める。
 壁から壁まで歩いてみたら凛子の歩幅で凡そ十三歩あった。十三歩掛ける十三歩の正方形の空間。 

 片側の壁際に寝台。寝台から見て左手に窓。その手前に円卓。窓にかかるカーテンは生成りで金糸の縁取りがされてある。寝台から見て右手に両開きの扉がひとつ。出入り口はそこだけだ。

 恐ろしく広いという部屋では無さそうだが、家具らしきものが寝台と円卓しか無いため、居心地が非常に悪い。せめて壁に絵画のひとつでも飾れば良いのにと一人ごちる。室内をうろうろして、扉を開けてみようかと思いつくが、僅かな勇気が出なかった為、反対側の窓辺へ歩み寄る。

 部屋は建物の二階にあるらしい。窓は難なく開いたが角部屋なのか左手には何も無く右手に同じ色の壁が続いている。正面の視界は木立に遮られて判然としない。合間から灯りが見え隠れするが、それが何の灯りなのか検討もつかなかった。空は茜色から藍色へと変化していく。

 夜が、訪れようとしていた。

 クァルツでエイゼルを見かけた。
 それを追う内に、群青の制服を着た青年等に囲まれ、まるで拉致されるよう石牢へ閉じ込められた。かと思えば、眠り姫の覚醒を促すようなキスを受け、目覚めたらここにいた。彼の面影を持つ男が、エイゼルを呼び付け……。

 面倒ごとに巻き込まれているような気がする。
 仮にエイゼルが犯罪者だとして、ディルと名乗った男がその主ならば。

 世界を飛び越えた犯罪劇に、凛子は額に手をあてる。
 スケールが壮大すぎる。ありえない。
 否、ありえないことはありえない。
 不可思議体験は空想のものでなく、実体験として既に凛子に刻み込まれている。

 ふらふらと窓から離れ、寝台に体を投げ出した。視界に移りこむ枕もシーツも白。

 枕を抱き寄せようとして、気がついた。はがれた爪が元に戻っている。
 ジェルネイルはついていなかったが、形のよい爪は以前のままだ。

 今更ながら、捻ったはずの足首がまったく痛くないことにも気がついた。誰かが怪我を治してくれたのだろうか。怪我というよりか再生。魔術のある世界なのだから、そういう事も可能なのかもしれない。治療を施され、白い服を身に着け――これでは本当に、入院患者のようではないか。

 目まぐるしく変わっていく環境に、頭の螺子が飛んでしまったのではないかと疑ってみる。
 雪の街。リラの店。エイゼルの裏切り。ロサとニルと過ごしたあの日々も夢だったと云うのか。

 けれど、一週間以上経過しても、夢は覚めない。ところどころにキィワードを残して。盤上の駒はアウトポストさえ程遠い。

「シャール……会いたいな……」

 返事をするかのようなタイミングで扉がノックされた。

 どきりと跳ねた心臓を押さえ、凛子は扉をみつめる。
 しかし扉は開かない。寝台の上で身を固くしたまま動けないで居ると、もう一度扉がノックされた。ややして遠慮がちに開かれる。入室してきたのは、先ほど給仕していた二人の青年だった。

 寝台の隅に居る凛子に労わる様な視線をよこし、青年達は運んできたものを円卓に並べていく。チーズの盛り合わせ。野菜スティックと小豆色のディップ。果実の盛り合わせ。ナッツらしきもの。最期にグラスに注がれた琥珀色の泡立つ液体に、凛子の視線は釘付けになった。

 夕食を飛び越え、酒席が整えられようとしている。

 どういう意味?
 もてなされているのか?
 それとも何かの罠?

「サケとツマミをご用意いたしました」

 かけられた言葉に、おもわず身を起こしてしまった自分が少し情けない。