冷たい寝台に身を横たえ、シェイルはまんじりともせず夜が明けるのを待っていた。
目を閉じると途端に色鮮やかな記憶が、しなだれかかるように甘やかな腕を伸ばしてくる。
底無しの沼へ沈み込んでいきそうな思考と、遣る瀬無い思いが交じり合い、息苦しさから胸に手を押し当てた。
あの日、サルスェまで足を伸ばしたのは、気まぐれからだった。
サーシャがサルスェ司教区に移動になってから、初めてのことだと思う。
ゼリアス山脈からパリエス湾に注ぐ、もうひとつの大河。ゼレス同様に幾つかの支流が本流へと交差しているエイネの堤を視察し、なんとなく立ち寄ったのだ。
サルスェは療養地としても名高いが、自由都市ゼイレンからも程近い距離に立地している為、隊商の出入りが多い。間もなく社交の場にも顔を出す妹姫に何か目新しい物を、と、言い訳に言い訳を重ね訪れたのだ。だが、その羽安めは彼に安寧ではなく仄かな希望と曖昧な絶望を同時に与えた。
手が届いたのかと思った。
それなのに
記憶は、シェイルをあざ笑うかのように、掌からさりさりと零れていく。崩れた姿は亡羊としていて、現とも夢ともつかない。揺らぐ視界の中、最後に見えたのは何だったのだろう。
冴え冴えとした月光の冷たさは、絶対的な支配を持って、王宮の奥深くまで忍び込んでいた。
昨晩の宴の余韻はもはや跡形もなく掻き消され、今はしんとした静寂が広がっている。
今此処に暖かな体があれば、なんの躊躇いも無く抱き寄せていたはずだ。
誰でもいい。
孤独な闇を埋めてくれるのなら。
そこまで考え、彼は己を自嘲する。
諫言に耳を傾けるな。そして甘言に。
彼が、この国の王族として生を受けた時より、纏ろう運命と対峙すべく、学習した手段だ。
保身では無く自身を保つために。そう、王族であるからこそ、権力を私欲のために動かしてはいけない。己の有する力は、民の為に在るべきものなのだ。
◇◇◇
「今日はクァルツの街まで行くよ。クァルツからガーラントまでは、馬車で一日」
凛子がここ一週間ほど居候させてもらっているのは、学術都市クァルツの東に広がる酪農地帯にある、とある家。
「バシャ、ガーラント? いく?」
理解できたのは、エイゼルが言っていたガーラントの単語と、ここで覚えた馬車や行く。
「今日行くのはクァルツって所だよ。うちの義娘も一昨年から、あそこにある学舎に通ってるんだ」
「クァルツ? いく?」
「そうだよ。ニルが帰ってきたら、出かけよう。もう一杯お茶を淹れてくれるかい?」
男の声に、凛子は目を瞬かせた後「ハい、オチャ、いレル」と答え立ち上がった。
細かい模様が掘り込まれている石台の上に薬缶を置く。
台に設置されてある板の手前には窪みがあり、そこに瑪瑙のような石を嵌めこむと、板は熱を持ったように熱くなる。恐らくこれも魔術というものなのだろう。
凛子はほのかに温まった薬缶にそっと手を近づけ感嘆する。
一時はどうなる事やらと思っていたのだが、白い犬とベレーの群れに誘われてたどり着いた先は、酪農家のようだった。どことなく祖父を思い起こさせる老人――ロサと、少年――ニルの二人暮し。言葉も通じない自分を置いてくれ、あまつさえ一部屋を提供してくれた。
アゼリアスの治安がどれほどの物かは判らないのだが、最初に辿りついたリラの店にしても、あの街にしてもそれほど危険そうな雰囲気は無かった。平和な国――なのだろうか。といっても凛子の知るこの世界は、聞きかじった知識と、自分が見たものだけだ。
……エイゼルの例もあるのだから、そう簡単に心を預けない方が良いとは思う。
なにせ、結果的に、荷物を奪われ身一つで放り出された。
凛子の財産といえば、身に付けていた衣類と、コートのポケットに入れていたスマートフォンのみ。どうせ役に立たないのだから、今は電源を落としている。最後に見た日付は土曜日だった。とっくに週明け。すっぽかした打ち合わせはどうなってしまったのだろうと、今更ながらに思い出し青褪める。
二連休どころの話ではなかった。連続した無駄欠勤から家族に連絡が行っている事は間違いない。ゴミ部屋はいつもの事……だけれど、何らかの事件に巻き込まれて、失踪。なんて。都会ではよくありそうな構図ができあがる。
ただ、どうする事も出来ない。
ここは、自分の知るあの世界ではないのだ。
薬缶が柔らかな湯気をたてはじめたのを確認し、戸棚から茶葉の入った小瓶を取り出した。オレガノに似た形状の葉をティカップに折り入れ熱い湯を注ぐと、やがて薄紅色に染まる。
随分変わった飲み方だとは思うが、ここではこれが当たり前。茶一つ淹れる事も出来なかった一週間前が信じられない程の手際の良さである。
少しずつ、こちらの――シャールの居るであろう――世界に触れ始め、馴染みつつあるのもまた事実だった。この先どうなってしまうのかは全く想像がつかない。安寧、もしくは隠居。という単語がよく似合いそうな酪農家の老人と少年の厚意に甘え、仕事を手伝う。
言葉を少しずつ覚え、こちらの常識や風習を覚え、兎も角、シャールにどうにかして会って、事情を説明し帰らなければ。と云っても手がかりを掴める気配は今のところなく。結局同じ答えに行き着いた。
今すぐどうにかなる問題じゃない。
「ただいまー! お義父さん! リィン!」
少年が騒々しく駆け込んでくる。
「おかえりなさい、ニル」
続けて飛び込んできた白い犬が室内をぐるりと回って、床に伏せる。
「ゼレスの堤もなんとかなったらしいって村の人たちが言ってたよ! 予定通り今日街に行けるよね?」
「華宵祭の買出しもしておかないといけないしね。リィンの物も必要だろう。いつまでもリリゼのお古じゃかわいそうだ」
「姉ちゃんにも早くリィンを会わせたいな! オレ着替えてくるー!」
ばたばたと自室に向かう小さな背中を見送って、凛子と老人は顔を見合わせて笑った。
どうやら今日も、平和な一日がはじまりそうだ。
いつもと違うのは、家事と家畜の世話を手伝うのではなく、クァルツという所に出掛ける。
馬車で行くと行っているのだから少なくとも村では無いのだろう。
それだけを理解し、凛子もまた外出する為に準備を始めた。
目を閉じると途端に色鮮やかな記憶が、しなだれかかるように甘やかな腕を伸ばしてくる。
底無しの沼へ沈み込んでいきそうな思考と、遣る瀬無い思いが交じり合い、息苦しさから胸に手を押し当てた。
あの日、サルスェまで足を伸ばしたのは、気まぐれからだった。
サーシャがサルスェ司教区に移動になってから、初めてのことだと思う。
ゼリアス山脈からパリエス湾に注ぐ、もうひとつの大河。ゼレス同様に幾つかの支流が本流へと交差しているエイネの堤を視察し、なんとなく立ち寄ったのだ。
サルスェは療養地としても名高いが、自由都市ゼイレンからも程近い距離に立地している為、隊商の出入りが多い。間もなく社交の場にも顔を出す妹姫に何か目新しい物を、と、言い訳に言い訳を重ね訪れたのだ。だが、その羽安めは彼に安寧ではなく仄かな希望と曖昧な絶望を同時に与えた。
手が届いたのかと思った。
それなのに
記憶は、シェイルをあざ笑うかのように、掌からさりさりと零れていく。崩れた姿は亡羊としていて、現とも夢ともつかない。揺らぐ視界の中、最後に見えたのは何だったのだろう。
冴え冴えとした月光の冷たさは、絶対的な支配を持って、王宮の奥深くまで忍び込んでいた。
昨晩の宴の余韻はもはや跡形もなく掻き消され、今はしんとした静寂が広がっている。
今此処に暖かな体があれば、なんの躊躇いも無く抱き寄せていたはずだ。
誰でもいい。
孤独な闇を埋めてくれるのなら。
そこまで考え、彼は己を自嘲する。
諫言に耳を傾けるな。そして甘言に。
彼が、この国の王族として生を受けた時より、纏ろう運命と対峙すべく、学習した手段だ。
保身では無く自身を保つために。そう、王族であるからこそ、権力を私欲のために動かしてはいけない。己の有する力は、民の為に在るべきものなのだ。
◇◇◇
「今日はクァルツの街まで行くよ。クァルツからガーラントまでは、馬車で一日」
凛子がここ一週間ほど居候させてもらっているのは、学術都市クァルツの東に広がる酪農地帯にある、とある家。
「バシャ、ガーラント? いく?」
理解できたのは、エイゼルが言っていたガーラントの単語と、ここで覚えた馬車や行く。
「今日行くのはクァルツって所だよ。うちの義娘も一昨年から、あそこにある学舎に通ってるんだ」
「クァルツ? いく?」
「そうだよ。ニルが帰ってきたら、出かけよう。もう一杯お茶を淹れてくれるかい?」
男の声に、凛子は目を瞬かせた後「ハい、オチャ、いレル」と答え立ち上がった。
細かい模様が掘り込まれている石台の上に薬缶を置く。
台に設置されてある板の手前には窪みがあり、そこに瑪瑙のような石を嵌めこむと、板は熱を持ったように熱くなる。恐らくこれも魔術というものなのだろう。
凛子はほのかに温まった薬缶にそっと手を近づけ感嘆する。
一時はどうなる事やらと思っていたのだが、白い犬とベレーの群れに誘われてたどり着いた先は、酪農家のようだった。どことなく祖父を思い起こさせる老人――ロサと、少年――ニルの二人暮し。言葉も通じない自分を置いてくれ、あまつさえ一部屋を提供してくれた。
アゼリアスの治安がどれほどの物かは判らないのだが、最初に辿りついたリラの店にしても、あの街にしてもそれほど危険そうな雰囲気は無かった。平和な国――なのだろうか。といっても凛子の知るこの世界は、聞きかじった知識と、自分が見たものだけだ。
……エイゼルの例もあるのだから、そう簡単に心を預けない方が良いとは思う。
なにせ、結果的に、荷物を奪われ身一つで放り出された。
凛子の財産といえば、身に付けていた衣類と、コートのポケットに入れていたスマートフォンのみ。どうせ役に立たないのだから、今は電源を落としている。最後に見た日付は土曜日だった。とっくに週明け。すっぽかした打ち合わせはどうなってしまったのだろうと、今更ながらに思い出し青褪める。
二連休どころの話ではなかった。連続した無駄欠勤から家族に連絡が行っている事は間違いない。ゴミ部屋はいつもの事……だけれど、何らかの事件に巻き込まれて、失踪。なんて。都会ではよくありそうな構図ができあがる。
ただ、どうする事も出来ない。
ここは、自分の知るあの世界ではないのだ。
薬缶が柔らかな湯気をたてはじめたのを確認し、戸棚から茶葉の入った小瓶を取り出した。オレガノに似た形状の葉をティカップに折り入れ熱い湯を注ぐと、やがて薄紅色に染まる。
随分変わった飲み方だとは思うが、ここではこれが当たり前。茶一つ淹れる事も出来なかった一週間前が信じられない程の手際の良さである。
少しずつ、こちらの――シャールの居るであろう――世界に触れ始め、馴染みつつあるのもまた事実だった。この先どうなってしまうのかは全く想像がつかない。安寧、もしくは隠居。という単語がよく似合いそうな酪農家の老人と少年の厚意に甘え、仕事を手伝う。
言葉を少しずつ覚え、こちらの常識や風習を覚え、兎も角、シャールにどうにかして会って、事情を説明し帰らなければ。と云っても手がかりを掴める気配は今のところなく。結局同じ答えに行き着いた。
今すぐどうにかなる問題じゃない。
「ただいまー! お義父さん! リィン!」
少年が騒々しく駆け込んでくる。
「おかえりなさい、ニル」
続けて飛び込んできた白い犬が室内をぐるりと回って、床に伏せる。
「ゼレスの堤もなんとかなったらしいって村の人たちが言ってたよ! 予定通り今日街に行けるよね?」
「華宵祭の買出しもしておかないといけないしね。リィンの物も必要だろう。いつまでもリリゼのお古じゃかわいそうだ」
「姉ちゃんにも早くリィンを会わせたいな! オレ着替えてくるー!」
ばたばたと自室に向かう小さな背中を見送って、凛子と老人は顔を見合わせて笑った。
どうやら今日も、平和な一日がはじまりそうだ。
いつもと違うのは、家事と家畜の世話を手伝うのではなく、クァルツという所に出掛ける。
馬車で行くと行っているのだから少なくとも村では無いのだろう。
それだけを理解し、凛子もまた外出する為に準備を始めた。

