君はまだ、本当の自分を知らない

 次にその日が来たのは、思ったより早かった。

 水曜日の朝、緋依は、いつもより少しだけ早く起きた。

 目覚ましが鳴る前に、静かに布団から抜け出す。カーテンを開ける手つきも、どこか慎重だった。

 支度を終えたあと、鏡の前に立つ。そして、しばらく自分の顔を見つめてから、深く息を吸った。

 吐くとき、ほんのわずかに肩が震えた。

 それだけで、分かった。

(……今日だ)

 理由はない。ただ、それは確信に近い直感だった。



 駅までの道。ホーム。電車。すべて、前回と同じだった。

 緋依は前回と同じ位置に立ち、同じドアから乗る。吊り革に手をかける角度まで、同じに見えた。

 僕は二両後ろに乗る。視界に入らない距離。でも、見失わない距離。心臓の鼓動が、やけに速い。

 言い訳はいくらでもできた。

 偶然だとか、心配だったとか。

 でも、本当は違う。確かめたいだけだ。彼女を疑いたいんじゃない。自分を、疑いたくないだけだ。



 例の駅に着いた。

 改札を抜ける人は、やはり少ない。駅員の姿も見当たらない。カメラだけが、天井からこちらを見下ろしている。

 外に出ると、昼間なのに光が弱い。建物の色が、空をくすませている。あの建物は、昼間に見てもやっぱり無機質だった。

 緋依は迷いなくカードをかざし、扉の向こうへ消える。電子音。閉まる音。その短い音が、胸の奥に重く沈む。

 ──今しかない。



 周囲を確認する。誰も見ていない。

 それでも、どこかに監視されている気がする。僕は建物の裏へ回った。

 配管と室外機の並ぶ、生活感のない裏側。

 通用口らしき扉があった。小さなプレートには、何も書いていない。

 押してみると、静かに、開いた。鍵は、かかっていなかった。

(……こんなに簡単でいいのか)

 罠みたいだ、と思った。



 中は、白かった。壁も、床も、天井も。光が均等に回っているため、影がほとんどできない。

 匂いがない。音も、ない。まるで世界のボリュームが下げられているみたいだった。

 足を踏み出す。コツ、と音が鳴る。それだけで、心臓が跳ねる。廊下の両脇には、番号や用途の書かれた扉が並んでいる。

 【解析室】

 【管理区画】

 【資料室】

 その文字を見た瞬間、胸の奥がざわついた。

 理由は分からない。

 でも、"そこにあるべきではない何か"が、そこにある気がした。

 僕は咄嗟(とっさ)にノブに手をかけた。冷たい。金属の冷たさじゃない。もっと、体温を奪う冷たさ。

 ほんの一瞬、戻ろうかと思った。今なら、まだ間に合う。何も知らないまま、日常に戻れる。

 でも。

 ここまで来て、何も知らずに帰れる気がしなかった。

 覚悟を決めて扉を開ける。



 中には棚とファイルが整然と並んでいた。背表紙はすべて同じ色。同じフォント。同じ厚み。埃はない。床に足跡もない。それだけで、人が、頻繁に出入りしている場所だと分かった。

 適当に一冊、引き抜く。紙の感触が、妙に重い。専門用語ばかりで、意味は分からない。

 それでも、いくつかの単語が、視界に引っかかる。

 被験体。経過観察。記憶安定率。情動反応。

(……研究、なのか?)

 何の?誰の?



 奥の棚には、個別管理用らしいファイルが並んでいた。

 番号だけが書かれた、無機質な背表紙だ。

 01。

 02。

 03。

 整然と並ぶ中で、一つだけ目を引くものがあった。

 『T-03』

 アルファベットが混じっている。その時、急に心臓が一度、強く鳴る。

 なぜか、それは最初から知っている気がした。触れてはいけないものを、知っている気がした。

 気になって手に取ってみる。重い。紙の重さ以上の、何かがある。掌に、じわりと汗が滲む。

 中を開いた瞬間、思考が止まった。最初のページの上部に貼ってあった写真のせいだ。

 その写真は自分の写真だった。

 真正面からで、表情は無表情。背景は白。

 証明写真のようで、どこか監視映像の切り抜きにも見える。

 撮られた記憶がない。一瞬、理解が追いつかない。

 そのままページをめくる。

 身長。体重。血液型。既往歴。家族構成。学歴。交友関係。全部、僕のものだった。事細かく書いてあるその情報には、一つとして間違ったものは含まれていなかった。

 誤差が、ない。喉が、ひくっと鳴る。呼吸が浅くなる。



 さらにページを捲る。

 【外部関係者:緋依(ひより)

 その文字だけ、はっきりしていた。

 【精神安定に大きく寄与】

 世界が、一瞬だけ遠のく。

(……なんで、彼女の名前が)

 僕の存在説明の中に、彼女が"要素"として書かれている。

 関係者。寄与。緋依が、僕の構成要素みたいに書いてある。僕は、目の前に広がる光景を、夢だと思うしか無かった。



 そのときだった。

 廊下から足音が聞こえた。規則正しい音。こちらへ近づいてくる。

 僕は、反射的にファイルを抱えたまま、棚の影へ滑り込む。

 心臓が、耳元で鳴っているような気がする。じっと呼吸を止める。

 誰かが資料室の前で立ち止まる。そしてすぐに、ドアノブに、手がかかる音が鳴る。金属が、わずかに軋む。

 一瞬、終わったと思った。ここで見つかる。説明できない。言い訳もできない。

 でも、扉は開かなかった。足音が、再び遠ざかる。規則正しく。感情のない歩幅で。

 僕はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。背中に、汗が流れる。

「ここにいたら、いつか必ずバレる。」

 直感じゃない。確信だった。

 僕はT-03のファイルを見下ろす。これを戻す、という選択肢はなかった。戻した瞬間、何も知らなかった自分に戻る気がした。

 震える手で、それを鞄に入れる。重い。まるで、罪の重さみたいだった。



 資料室を出るとき、自分が犯罪者みたいに感じた。

 廊下の白さが、やけに眩しい。

 監視カメラがあるかもしれない。誰かが見ているかもしれない。でも、誰とも目が合わない。

 来た道を通り、通用口を抜ける。外の空気を吸った瞬間、膝がわずかに笑った。

 空気に匂いがある。音がある。世界が戻ってくる。でも、自分はもう戻れない。それだけは、確かだった。



 家に帰り着くまで、ほとんど記憶がない。

 気付いたら、玄関の前だった。

 鍵を閉め、カーテンを引く。テレビもつけずに、ようやく床に座り込む。

 呼吸が荒い。手が、震えている。慎重に鞄からファイルを取り出す。

 『T-03』

 その文字を見るだけで、胸の奥が軋む。

(……見るべきじゃない)

 本能が、警告する。でも、指は勝手に動く。その指がページをめくる。紙が擦れる音が、やけに大きい。

 ここから先は、もう元には戻れない。

 そんな予感だけが、やけにはっきりしていた。