君はまだ、本当の自分を知らない

 緋依を調べようと決めた、その翌週の月曜日。最初から大げさなことをするつもりはなかった。

 同じ時間に家を出て、少し後ろを歩いて、彼女が何をしているのかを見るだけ。

 ただ、それだけ。

 それなのに、家のドアを閉めた瞬間、胸がやけに重かった。



月曜日

 朝の駅前は、いつも通りの騒がしさだった。

 緋依は改札を抜けると、スマホを見ながら歩き、
いつも乗る電車に、いつも通り乗った。向かう方向も、降りる駅も、見慣れたもの。

 車内で吊り革を握る姿も、イヤホンを片耳だけ外す癖も、何も変わらない。

(……普通だな)

 会社に行って、仕事をして、昼休みにコンビニでコーヒーを買って、夕方にはまた同じ電車で帰ってくる。

 コンビニでは、ホットコーヒーのボタンを押す前に、必ず一瞬だけ手を止める。

 たぶん、砂糖を入れるか迷っている。そんな些細な仕草まで、知っている自分がいる。

 誰かと会う様子もない。電話もしていない。

 正直、拍子抜けだった。

 同時に、ほっとしている自分がいた。



火曜日

 この日も、特に変わったことはなかった。

 昼休み、彼女は同僚らしき女性と並んで歩いていた。笑いながら、仕事の愚痴を言っているように見える。

 笑うとき、少しだけ目尻が下がる。それは、僕といるときと同じだった。

(……やっぱり、考えすぎか)

 疑う理由より、疑っている自分の方が、少し嫌になってきた。

 こんなことをしているのが、ばれたらどう思うだろう。

 たぶん、悲しむ。それでも、やめられなかった。



水曜日

 この日は、仕事終わりに寄り道をしていた。

 雑貨屋。文房具。アクセサリーショップ。店の前で立ち止まり、中に入っては出て、また次の店を覗く。

 ショーケースの前で腕を組み、真剣な顔で悩んでいる。

(……ああ)

 すぐに分かった。

(プレゼントか)

 自分のためだと思うと、胸の奥が、少しあたたかくなった。

 あんなふうに悩んでくれているのを見て、疑っていた自分が、急に情けなくなった。

 その横顔を、しばらく見てしまった。もし、今声をかけたら。きっと驚いて、怒って、それでも最後には笑うんだろう。

 そう想像できることが、嬉しかった。



木曜日

 この日は、いつもより早く帰宅していた。

 駅前のスーパーで買い物をして、袋いっぱいの食材を抱えて家に戻る。献立を考えているのか、スマホでレシピを見ながら歩いていた。

 途中で立ち止まり、玉ねぎを袋越しに指で押して確かめる。

 生活の音がする。

(……完全に、日常だ)

 特別なことなんて、何もない。

 今まで感じた些細な違和感が、ただの思い込みだった気がしてくる。

(もしかしたら、本当に俺の勘違いだったのかもしれない)

 そう思い始めていた。



金曜日

 この日は、尾行なんてできなかった。

「水族館、行こう!」

 緋依にそう言われて、二人で休日みたいな時間を過ごした。

 水槽の前で、同じ魚を見て、同じところで笑う。

 光が揺れて、彼女の横顔も揺れる。

「クラゲ、好き?」

「うん。見てると落ち着く」

 クラゲは、ただ漂っているだけなのに、なぜか目が離せなかった。

 緋依も、同じ顔でそれを見ていた。

 ──そこから昼ごはんを食べた。

「んー!このオムライス美味しい!やっぱりケチャップは星の模様が一番だよね」

 唇にケチャップを付けながら笑う顔が、凄く愛しい。

 指で拭おうとして、途中でやめる。

 代わりに、紙ナプキンを差し出す。

「緋依は本当にオムライスが好きだよな。今度練習して作ってみようかな」

「え、楽しみ」

 その言い方が、未来を当然の様に含んでいた。

 楽しかった。本当に。

(俺、何を疑ってたんだろう)

 彼女は、ただの恋人だ。

 秘密なんてない。そう、思いたかった。



土曜日

 問題は、ここからだった。

「明日、仕事なんだ」

 前日の夜、緋依はそう言っていた。

 そのとき、ほんの一瞬だけ視線が泳いだ気がした。

「珍しいね、土曜なのに」

「うん、ちょっとだけ」

 その言葉を、信じていた。

 信じたいと思っていた。

 けれど、彼女が家を出たあと、念のため、と思って後を追った。

 駅のホーム。緋依は、いつもとは反対側のホームに立っていた。

(……あれ?)

 乗る電車も、違う。行き先も、見覚えがない。彼女は、迷いなく乗り込んだ。その迷いのなさが、胸を刺した。

(やっぱり……)

 頭の中で、また嫌な想像が膨らみ始める。

 浮気。隠し事。知らない誰か。

 でも、それよりも怖かったのは、知らない緋依がいる、という事実だった。

 電車のドアが閉まる。その向こうで、緋依は一度も、振り返らなかった。確信した。

──これは、勘違いじゃない。

 彼女は、僕に言えない場所へ行っている。

 だからこそ、僕はその電車に、乗った。

 彼女の"秘密"を、知るために。