君はまだ、本当の自分を知らない

 これは僕が初めて緋依と会った日のことだ。

 その時間の電車は、僕がいつも乗っているものだった。朝のホームは、通勤と通学の人で溢れている。

 僕は、三番目の柱の前。階段に一番近い、いつもの位置に立つ。

 決まった時間。決まった場所。

 この一年、ほとんど同じ朝を繰り返してきた。

 イヤホンから流れる音楽も、だいたい同じ。プレイリストの一曲目が終わるころ、電車が滑り込んでくる。

 生活は単調だ。でも、それでいいと思っていた。

 電光掲示板をちらりと確認してから、イヤホンを外す。電車が滑り込んできた。扉が開くと同時に、人が流れ込む。

 僕は三両目の前寄りのドアから乗った。空いていれば、右側の吊り革の下。そこが僕の定位置だ。

 その日も、自然とその場所に立った。

 その時、ふと、前に立っている女性と目が合う。

 社会人だろうか。落ち着いた服装。淡い色のブラウスに、黒のスカート。派手じゃないのに、なぜか視線を引かれる。

 けれど一番印象に残ったのは、目だった。どこか、必死に何かを探しているような目。なぜか、視線を外せなかった。

 電車が揺れる。

 吊り革を掴む指先が、少しだけ白くなっているのが見えた。

「あの……」

 彼女が、先に声をかけてきた。

「突然すみません」

「いえ……」

 僕は少し戸惑いながら答える。

 見覚えはない。ないはずなのに。胸の奥が、妙にざわつく。心臓が一拍だけ、変な跳ね方をした。

「あれ、僕たち……会ったこと、ありましたっけ?」

 気づけば、そう口にしていた。自分でも不思議だった。初対面の人に言う台詞じゃない。

「なんか、すごく懐かしい感じがして」

 彼女の表情が、一瞬だけ崩れた。ほんのわずかに、息を呑む音。それから、ゆっくりと微笑む。

「いいえ」

 少しだけ声が高い。

「初めまして、です」

 その"初めまして"が、妙に丁寧だった。まるで、言い聞かせるみたいに。ああ、やっぱり。僕の勘違いか。

「そう、なんですね……なんかごめんなさい。変なこと言っちゃって。気にしないでください」

 僕は軽く肩をすくめた。

 すると、彼女は少しだけ視線を落としてから言った。

「……気に、しません」

 その言い方が、なぜか胸に残る。

「もしかしたら、運命かもしれませんね」

 冗談みたいに笑う彼女に、僕もつられて笑った。

「そんなこと、あるんですかね」

 けれど、彼女の目は笑っていなかった。何かをこらえるように、強く瞬きをする。

 その時、電車が揺れる。誰かが彼女の肩にぶつかる。その瞬間、彼女は少し俯いた。

 ……泣いてる?

 一瞬、そう思った。

 でも、次に顔を上げた時には、ちゃんと笑っていた。

「……私、緋依って言います」

 その名前を聞いたとき、なぜか胸の奥が少し痛んだ。

「拓真です」

 名乗ると、彼女はほんのわずかに息を詰めた気がした。僕の名前を、心の中で繰り返しているみたいに、唇がわずかに動く。

「……拓真」

 小さな声だった。電車の音に紛れるほどの。けれど、はっきりと聞こえた。

 初対面のはずなのに、彼女の前だと、なぜか落ち着かない。

 嫌な感じじゃない。ただ、どこか懐かしくて。理由のない安心感があった。電車は次の駅に滑り込む。

 降りる人の波に押されながら、僕はふと思う。

 もし、今ここで別れたら、もう二度と会わない可能性の方が高い。それなのに。

「……あの」

 気づけば、僕の方から声をかけていた。

「また、会えますか」

 自分でも驚くほど自然に出た言葉だった。

 彼女は、ほんの一瞬だけ目を見開く。

 それから、静かに頷いた。

「……はい」

 その返事が、どこか安堵を含んでいるように聞こえたのは、気のせいだろうか。

 電車が止まった。扉が開く。

 僕は、緋依という名前を頭の中で繰り返していた。

 初めて会ったはずなのに、どうしてだろう。

 胸の奥が、少しだけ痛かった。