君はまだ、本当の自分を知らない

 研究所を出たあの日から、数日が過ぎた。拓真は、静かだった。

 いや、もともと静かな人だった、という言い方もできる。けれど今の静けさは、音が吸い込まれるみたいな静けさだった。

 話しかければ、こちらを見る。手を引けば、歩く。食事を出せば、口に運ぶ。それだけ。

 名前を呼んでも、反応はない。笑わない。困らない。怒らない。ただ、生きている。

 朝、カーテンを開ける。冬の光が細く差し込む。埃が、光の中でゆっくり回る。

「おはよう」

 返事はない。

 それでも緋依は、毎日声をかけた。

 服を選んであげる。ボタンを留める。靴紐を結ぶ。
 隣に座ってテレビを見る。

 拓真は、画面の中の芸人が大声で笑っても、動物番組で赤ちゃんが生まれても、表情を変えない。光が瞳に映るだけ。

 夜になると、ベッドに横たわる。

 寝息は穏やかで、胸は規則正しく上下する。そのたびに緋依は、"生きている"という事実だけを抱きしめる。

 何も戻らない。

 それでも、何も変わらない日々を重ねる。

 まるで、乾いた土に、毎日一滴ずつ水を落とすみたいに。

 吸い込まれて、消えていく。それでも、やめない。

 

 そして、とある日。

「今日は、出かけよっか」

 拓真は反応しない。それでも緋依はコートを着せ、マフラーを巻き、その手を引いた。

 外気は冷たく、吐く息が白い。駅までの道で、彼は信号の変わる音に一瞬だけ顔を向けた。微細な反応。それだけで、胸が少し温かくなる。

 

 向かったのは、水族館だった。

 ガラス張りの建物。入り口には大きなマンボウのオブジェ。チケット売り場の上には、青い波を模した装飾が揺れている。

 付き合っていた頃に来た場所。

 何度も笑った場所。

 自動ドアが開いた瞬間、湿った空気が頬に触れる。

 塩と水の匂い。

 遠くで水が落ちる音。

 子どもの歓声が反響して、少し遅れて耳に届く。

 館内は薄暗く、天井近くのスポットライトが水面を照らしている。床には、揺れる波紋の光が映っている。歩くたび、青い影が足元を流れる。

 最初の水槽には、色とりどりの熱帯魚。

 黄色と青の小さな魚が群れを成して、一斉に向きを変える。銀色の鱗がフラッシュみたいに光る。

 拓真は立ち止まる。

 視線が、水の動きに合わせてゆっくりと動く。

 指先が、わずかに揺れる。

「きれいだね」

 返事はない。

 けれど、目は追っている。

 

 次のエリアはペンギン。

 水中を弾丸みたいに滑る黒と白の影。陸に上がると、よちよちとぎこちなく歩く。

 子どもがガラスを叩く。係員が注意する。

 拓真は、音のほうへ顔を向ける。一瞬だけ、まばたきが増える。刺激は、届いている。

 

 さらに進む。

 巨大な回遊水槽。エイが頭上をゆっくり横切る。腹側が白く、口が笑っているみたいに見える。

 サメが、静かに円を描いて泳ぐ。水の重みが、ガラス越しに伝わってくる。

 青い。深い。音が、低くなる。緋依は、その奥へと歩いた。
 

 クラゲの展示室。そこは他の部屋と違って一段と暗い。

 壁も床も黒に近く、中央に円筒形の大水槽がある。上から落ちる光が、ゆっくり色を変える。青、紫、淡い白。

 無数のクラゲが、静かに漂っていた。

 半透明の傘。細い触手。

 ふわり。ほどける。また、まとまる。

 鼓動のように、ゆっくり収縮する。

 形は一定じゃない。

 崩れ、伸び、丸まり、そして戻る。

 水の流れに乗って、上へ、横へ、下へ。衝突しそうで、触れない。

 光が内部を透過して、体の奥がほのかに光る。まるで、小さな宇宙船。あるいは、星雲。

 

 緋依は隣に立つ。

「覚えてる?」

 もちろん、返事はない。

「宇宙みたいだって、言ってたよ」

 水槽の光が、拓真の横顔を照らす。

 頬のライン。まつげの影。あの頃と同じ、横顔。変わらない、穏やかな無表情。

 けれど、視線は、確かにクラゲを追っている。

 ひとつの個体が上昇し、傘を縮める。その動きに合わせて、彼の瞳がわずかに動く。

 ゆっくりと、手を伸ばす。ガラス越しに、浮かぶ光をなぞる。

 指先が、青く染まる。

 

 ──そのとき。

 ほんのわずかに、目の奥が揺れた。本当に微細な変化。

 焦点が、奥へと沈む。

「……きれい」

 はっきりした声だった。緋依は息を止める。

 拓真は、まだ水槽を見ている。

「……うちゅう、みたい」

 拙く、途切れながら。でも確かに、あの頃の言葉。

 クラゲの光が、彼の瞳の奥で反射する。緋依の喉が震える。

「うん。宇宙みたいだよね」

 声を壊さないように、ゆっくり言う。

 

 彼が、こちらを向く。

 一瞬だけ。本当に、一瞬だけ。焦点が合う。

 青い光の中で、懐かしい光が灯る。迷いでも、空白でもない、"理解"の光。

「……ひい…ろ?」

 名前。

 かすれた、壊れそうな音。でも、呼んだ。確かに。

 彼が、呼んだ。

 

 次の瞬間。それは消えた。

 水面に浮かんだ泡みたいに、静かに弾ける。

 瞳は、また穏やかな空白へ戻る。

「……どなたですか」

 小さく、丁寧な声。

 

 緋依は泣かなかった。

 だって、見たから。確かに、そこにいた。ほんの一秒。

 でも、いた。 

 クラゲは、形を崩しながらも、完全には消えない。

 ほどけても、また集まる。崩れても、また、ゆっくりと戻る。

 水の流れに押されても、光を失わない。

 記憶も、きっと同じだ。

 今は深い海の底に沈んでいるだけで、どこかで揺れている。

 完全な空白なんて、本当は存在しないのかもしれない。

 

 緋依は、そっと彼の手を握る。

 冷たくない。温かい。脈が、ある。確かに、ここにいる。

「大丈夫」

 彼に向けてなのか、自分に向けてなのか、分からないまま、そう呟く。

 クラゲの光が、二人を包む。

 青。紫。淡い白。形を変えながら、それでも存在し続けるもの。揺れながら、消えないもの。

 緋依は、静かに微笑んだ。

 未来に向かって、確信を込めて。

 ──君はまだ、本当の自分を知らない。