君はまだ、本当の自分を知らない

 次の日、私は研究所に来ていた。

 昨日と同じ道を歩いたはずなのに、足取りは重かった。駅から続く人通りの少ない歩道。風に揺れる街路樹。遠くの車の走行音。

 すべてが、現実感を失っている。研究所の自動ドアは、相変わらず無機質な音を立てて開いた。

 白い。

 何度来ても、この白さには慣れない。

 壁も、床も、天井も、白。感情を拒絶する色。ここでは、悲しみも、怒りも、愛も、測定対象になる。

 受付を通され、奥の会議室へ案内される。廊下を歩くたび、靴音がやけに響く。

 机の向こうに座っていたのは、あの日と同じ男だった。姿勢も、視線も、何も変わらない。

「……報告に来ました」

 声が、思ったよりも冷静だった。昨夜はほとんど眠れなかったのに。

「彼がファイルを読みました」

 男の表情は、わずかにだけ動いた。ほんの数ミリ、眉が上がる。

「そうですか」

 それだけ。それだけなのに、胸の奥がざわつく。その一言で、すべてが「予定通り」に処理された。

「症状は?」

「まだ明確ではありません。でも……欠損が、始まっています」

 言いながら、自分の声が遠くなる。彼が言葉を思い出せなかった瞬間。怒っていた理由を忘れた瞬間。

 あれが、始まりだった。

 男は指先でタブレットを操作しながら、淡々と言った。

「予測どおりですね」

 予測。分かっていたこと。契約書にも、説明資料にも、明記されていた。でも、分かっているのと、起きるのは違う。

「これからは研究所で保護観察します」

「え?」

 反射的に声が出る。

「被験体──T-03は、こちらで管理します」

 その呼び方。番号。心臓が跳ねた。

「それは、どういう……」

「記憶が完全に消失するまでの経過を、正確に観察する必要があります。貴重なデータです」

 データ。その言葉が、耳鳴りみたいに響く。

 拓真が、データ。笑った顔も、怒った声も、全部。

「だめです」

 思わず、声が出た。

 椅子がわずかに軋む。

 男がゆっくりと顔を上げた。初めて、私を「感情のある存在」として見たような視線。

「彼は、実験材料じゃない」

 声が震える。

「契約時に同意されています」

「それは、私が──」

 言葉が詰まる。私が選んだ。私が望んだ。私が、署名した。彼の命を繋ぐ代わりに、すべてを差し出した。

 それでも。

「最後まで、一緒にいたいんです」

 机に、両手をつく。震えが止まらない。

「彼が全部忘れる、その瞬間まで」

 自分でも残酷だと思う。"その瞬間"を見届けたいなんて。でも、誰にも奪われたくなかった。

 彼が消える瞬間を。男は、しばらく無言だった。

 画面に視線を落とし、何かを考えている。やがて、小さく息を吐く。

「……条件があります」

 私は顔を上げた。

「あなたが、記録を取ること」

「記録?」

「彼が何を忘れたか。どの順番で欠落したか。言動の変化。感情の揺れ。すべて」

 冷たい声で続ける。

「それをノートに詳細に記す。そして、記憶が完全消失した時点で、そのノートを研究所へ提出する」

 提出。寄付。彼の崩れていく記憶を、差し出す。愛した時間を、研究資料に変える。

「それが条件です」

「……もし、断ったら?」

「その時点で、我々が強制的に保護します」

 淡々とした宣告。逃げ場はない。選択肢も、ない。私は、目を閉じた。

 彼が笑っていた日々を思い出す。

 水族館で、クラゲを見上げながら言った言葉。

「前から知ってる感じしない?」って、照れた顔。

 初めて手を繋いだときの、少し汗ばんだ掌。

 全部、消える。それを、私が、記録する。"愛の記録"じゃない。

 "欠損の記録"。

 喉の奥が、熱くなる。

「……分かりました」

 声が、(かす)れた。

「書きます。一つ残らず」

 私が最後の証人になる。男は小さく(うなず)く。

「では、本日から観察を開始します」

 引き出しから取り出された、紙のノート。

 装飾のない、真っ白な表紙。研究所のロゴだけが、小さく刻まれている。まだ、何も書かれていない。

 これから、彼の"失われていくもの"で埋まる。私はそれを、両手で受け取った。

 重い。何も書かれていないのに、重い。

「後悔は?」

 男が、不意に聞いた。視線は真っ直ぐだ。

 試すようでもあり、確認するようでもある。私は少しだけ考えて、首を振る。

「……後悔する記憶も、いつかなくなりますから」

 言ってから胸が痛んだ。

 それは、彼のことか。それとも、私のことか。

 研究所を出ると、外は夕暮れだった。空が、薄い橙色に染まっている。こんなにも普通の景色なのに、世界は静かすぎる。

 その時、スマホが震える。

 画面に表示された名前に、息が止まる。

 拓真からメールが来ていた。

『今日、何時に帰る?』

 その文字を見た瞬間、涙が落ちた。画面に、ぽたりと雫が広がる。まだ、私を覚えている。

 まだ、「帰る」という言葉の先に、私がいる。

 でも、少しずつ消えていく。やがて、「帰る場所」も分からなくなる。

 私は、ノートを開いた。白い一ページ目。ペンを持つ手が、震える。何から書けばいいのか、分からない。でも、書かなければ。

 私は、ゆっくりと文字を刻んだ。

──

一日目。

まだ、私の名前を呼べる。

 呼び方は、いつもと同じ。

 少しだけ照れたみたいに、「緋依」と言った。

 その声は、ちゃんと、私を見ていた。

 どうか。

 明日も、呼べますように。