君はまだ、本当の自分を知らない

 その時間の電車は、拓真がいつも乗っていたものだった。朝のホームは、通勤と通学の人で溢れている。私は、その中に立っていた。

 冬の終わりの空気は、少しだけ冷たく、吐く息が白く滲む。電光掲示板の光が、まだ目に刺さるほど眩しい。

 足音。改札の電子音。アナウンスの無機質な声。

 全部、以前と同じ。でも、私だけが違う。

 電車に乗り、わざと、少しだけ改札寄りの位置に立つ。前なら、自然と隣に並んでいた場所。

 あの頃は、何も考えずに立っていた。隣に彼が来ることを、疑いもしなかった。けれど、今は違う。

 計算している。立ち位置も、距離も、視線の角度も。偶然を装うための、必死な演出。

 私は、スマートフォンを見ているふりをしながら、何度も、視線だけで時間を確認する。

 画面はほとんど見ていない。指先が、わずかに汗ばんでいる。

(……来る)

 胸の奥が、きゅっと縮む。

 人の流れが、一瞬だけざわついた気がした。その中に、見慣れた背中があった。

 少し猫背で、リュックの紐を片方だけ肩にかけている。

 心臓が早鐘(はやがね)を打った。

(……拓真)

 呼びそうになった名前を、喉の奥で、必死に噛み殺した。

 今ここで呼んだら、すべてが崩れる。

 扉が開くと同時に、風が吹き込み、スカートの裾が揺れる。

 扉が開き、人が流れ込んだ。

 押されるまま、私も足を踏み出す。

 私は、拓真のすぐ後ろに立った。車内は、少し混んでいた。

 以前より、少しだけ距離がある。それが、こんなにも遠い。つり革に掴まる指が、震えていた。白いプラスチックの輪が、やけに冷たく感じた。

 拓真は、何気なく振り返った。人の流れを確認するための、ただの動作。そこで視線がぶつかる。

 その瞬間、胸がぎゅっと潰れた。

──知っている目。

 黒目の奥に、ほんの少しだけ光があるところ。笑う前に、わずかに細くなる形。

 全部、覚えている。でも、そこにあるのは、"初対面の距離"だった。記憶を持たない、透明な瞳。

 私は、自分から一歩、踏み出した。足が、重い。

「あの……」

 声が、ちゃんと出たことに、少し驚いた。

 喉が乾いているはずなのに、不思議と音は震えなかった。

「突然すみません」

 拓真は、少し戸惑った顔をしてから、笑った。

「いえ……」

 その笑い方も、変わらない。でも、その笑顔は、私を知らない。

 そして、首を傾げる。

「あれ、僕たち……会ったこと、ありましたっけ?」

 心臓が、強く跳ねた。背中に冷たいものが走る。

「なんか、すごく懐かしい感じがして」

 その言葉が、胸に刺さる。

(やめて。それ以上、思い出さないで)

 研究所の男の声が、脳裏をよぎる。

 ──絶対に気付かせてはいけません。

 私は、唇に力を入れて、出来るだけ笑顔を作った。

「いいえ」

 声は、少しだけ高くなった。

「初めまして、です」

 一瞬だけ、沈黙が落ちる。電車の揺れが、大きく感じる。

 拓真は、驚いたように目を瞬かせた。

「そう、なんですね…なんかごめんなさい。変なこと言っちゃって。気にしないでください」

 彼は、困ったように笑う。その仕草も、知っている。謝る必要なんてないのに、すぐ謝るところ。

 私は、軽く肩をすくめる。

「もしかしたら、運命かもしれませんね」

 冗談めかして、笑ってみた。本当は、運命なんかじゃない。これは、契約だ。実験だ。それでも、そう言うしかなかった。

 拓真も、つられて笑った。

「そんなことあるんですかね」

 その笑顔が、昔と同じで。胸の奥が、音を立てて崩れた。

(知ってるよ。それ全部、一度失った笑顔だよ)

 あの日、装置の光の中で終わった笑顔。それが、今ここにある。でも、私の存在は、その中にない。

 電車が揺れる。誰かの肩が、私に当たった。その衝撃で、少しだけ現実に戻る。

 吊り革が、揺れている。

 誰かのイヤホンから盛れる音が、小さく流れている。

 世界は、何も知らない顔をして、動いている。

 私は(うつむ)いた。涙が落ちないように、必死だった。

(苦しい。でもここで泣いたら、全部終わる)

 泣くのは、契約違反じゃない。でも、怪しまれる。不自然になる。ほんの小さな違和感が、彼の記憶を揺らすかもしれない。

 私は、もう一度顔を上げた。笑顔を、張り付けて。

「……私、緋依って言います」

 名前を名乗るのが、こんなに怖いなんて思わなかった。

 以前は、当たり前のように呼ばれていた名前。今は、ただの音として。

 拓真は、少し間を置いてから、言った。

「拓真です」

 その一拍。わずかな間。

 まるで、どこかで聞いたことがあるように考えているような、ほんの一瞬の空白。

 でも、すぐに消える。それは、私が二度目に聞いた、彼の名前だった。あの日、初めて名乗ってくれたときと同じ響き。

 でも、彼は知らない。それで、よかった。知らないから、生きている。

 電車は、次の駅へと滑り込む。扉が開き、人が降りる。

 拓真は、少し迷ったように私を見る。

「えっと……同じ駅で降ります?」

 私は、頷いた。

「はい」

 本当は、ずっと前から一緒だったのに。

 同じ駅で降りて、同じ道を歩いて、同じ時間を過ごしてきた。

 でも今は。今日が、最初の日。彼は、少しだけ歩幅を合わせてくれる。その優しさも、覚えている。

 それでも私は、初対面の距離を守った。

(大丈夫)

 自分に言い聞かせる。

(これは、やり直しじゃない)

(これは、二回目の恋)

 ホームに降りた瞬間、朝の光が差し込む。その眩しさに、私は一瞬だけ目を細めた。

 隣を歩く彼の横顔を、そっと盗み見る。知らないはずの人。それなのに、誰よりも知っている人。

 私は、心の中で静かに誓った。

(今度は、絶対に壊さない)

 彼が、私を知らなくてもいい。また好きになってくれなくてもいい。それでも。彼が、笑って生きているなら。それだけで、いい。

 それだけで――

 私は、歩き出せる。