君はまだ、本当の自分を知らない

 大学一年生の時に緋依(ひより)と付き合って、もうすぐ一年になる。

 特別に劇的な出会いがあったわけじゃない。大学の通学で、同じ電車に乗るようになって、気づいたら隣に座るのが当たり前になっていただけだ。

 彼女は高校を卒業してすぐ働き始めた。大学生の僕とは普段の生活環境は少し違う。けれど、年齢も同じで、朝起きる時間もだいたい一緒。

 だから僕は、普通の恋愛だと思っていた。

 少なくとも、その日までは。

───

「はい、誕生日おめでとう」

 そう言って緋依が差し出してきたのは、小さな紙袋だった。

 部屋で二人、ケーキを分け合ったあと。タイミングも、言い方も、あまりに自然だった。

「ありがとう」

 中身を見た瞬間、思わず声が止まった。限定モデルの万年筆だった。黒地に銀の装飾が入った、少し高そうなやつ。

「……これ」

「うん?」

「俺、こういう万年筆好きだけど」

 ペン先を指でなぞりながら言う。

「言ったこと、あったっけ?」

 一瞬だけ、緋依の瞬きが遅れた。それは、ほんの一瞬。気にしなければ、気づかない程度の遅れだった。

「……え? あれ、前に言ってなかった?」

「いや、少なくとも俺の記憶にはない」

 そう言うと、彼女はすぐに笑った。

「あ、ごめん。たぶん私の勘」

──勘。

 その言葉に、少し引っかかりを覚えたけど、深くは考えなかった。好みが当たることなんて、恋人同士ならよくある。そう思うことにした。



 次の違和感は、その一週間後だった。

 緋依の部屋で、テレビを流しながらだらだらしていたときのこと。

「そういえばさ」

 彼女がスマホをいじりながら言った。

拓真(たくま)のお兄さん、結局仕事見つかったんだっけ?」

 手に持っていたマグカップが、止まる。

「……え?」

「え?」

 今度は、緋依(ひより)がこちらを見る番だった。

「俺、兄弟の話したことあったっけ?」

 空気がほんの少しだけ張りつめた。

「あ、あるでしょ。前に」

「いや、してないと思う」

 はっきり言うと、緋依(ひより)は口を閉じた。考え込むみたいに視線を落とし、数秒後にまた笑う。

「あれ? 私の勘違いかも」

「勘違い?」

「うん。なんか、いる気がしてた」

 "いる気がしてた"。

 その言い方が、妙に引っかかった。でも、それ以上突っ込むほどのことでもない。家族構成なんて、会話の流れで話していそうなものだ。

 そう、自分に言い聞かせた。



 三つ目は、もっと些細で、でも決定的だった。

 二人で外を歩いていたとき、ふと空を見上げて緋依(ひより)が言った。

「今日、頭痛くならなかった?」

「……なんで?」

「雨降る前、いつもなるでしょ?偏頭痛」

 足が止まった。

「いやそれ、誰にも言ってないけど」

 偏頭痛。天気が崩れる前に来るやつ。別に治るわけでもないから病院にも行っていないし、誰かに相談した覚えもない。

「え……?」

 緋依の顔が、明らかに固まった。

「今の、冗談」

 そう言って、彼女は早口で続けた。

「天気アプリにそう書いてあっただけ」

「天気アプリに、俺の体調は載ってないだろ」

 沈黙。風の音だけが、二人の間を通り抜けた。

「……ごめん」

 緋依(ひより)は、視線を逸らしたまま言った。否定もしない。説明もしない。ただ、「ごめん」。



 その夜、ベッドに横になりながら、頭の中で違和感が何度も再生された。誕生日プレゼント。兄の存在。頭痛のこと。

 偶然。勘。勘違い。

 そう片付けようとすればできる。でも、積み重なりすぎていた。

 (緋依(ひより)は、俺の何を知ってる?)

 考えが勝手に広がっていく。

 預言者?元カノが知り合いだった?それとも、俺のことを調べてる?

 最悪の想像が頭をよぎる。

 ──ストーカー。

 その言葉が浮かんだ瞬間、胸の奥が冷えた。

 次の日、意を決して聞いた。

「なあ、緋依」

「なに?」

「俺に、何か隠してる?」

 彼女は答えなかった。ただ、困ったように眉を下げて、微笑(わら)った。

「……ごめんね」

 それだけだった。その笑顔が、今までで一番、遠く見えた。

(やっぱり、何かある)

疑いは確信に変わっていた。よし。調べよう。彼女が、何を隠しているのかを。

 そう心に決めた瞬間、僕はまだ知らなかった。

 《《本当》》に調べてはいけないものが、この先に待っていることを。