夜の画廊は、音が沈む。
昼間は柔らかく見えた白壁が、照明を落とすと冷たい面になる。足音は吸われ、声は短く切れる。
機械警備は作動中。入口脇の操作盤で、赤いランプが一定間隔で点滅している。
センサーはバイパス済み。管理者立会いのもと、閉館後点検の記録が残る。
「手続き上は問題ないです」
村木は言った。
言葉は整っている。
だが足は、展示番号七番の前で止まった。
菜々緒は黙って手袋をはめる。ニトリル製。パウダーフリー。繊維残留なし。
「コンディションレポート、もう一回」
村木はファイルを開く。
開梱時損傷なし。
支持体歪みなし。
絵具層剥離なし。
裏面ラベル写真添付。
受入時重量、三・八キログラム。
「問題は確認されておりません」
「昼はね」
菜々緒は額縁下部を持ち上げる。
村木も反対側に手を添える。
二十号油彩。
キャンバス、木枠、額装込みで三・五から四キロ前後。
体感は範囲内。
だが、持ち上げた瞬間に分かる。
重心が、中央より数センチ右に寄っている。
「……裏、見る」
「管理者の許可範囲を超えます」
「立会い、してるでしょ」
管理者は展示室端で電話中だ。
背中を向け、用件だけを短く伝えている。
形式上は、立会い。
壁際に、萬屋マイクが立っている。
煙草は吸わない。ただ、全体を見ている。
「支持体の目視確認のみです。解体はいたしません」
村木はそう言い、額縁を慎重に外した。
裏面のキャンバス張りは整っている。
タックスの間隔も均等。
木枠の反りもない。
だが。
裏貼り紙が新しい。
紙色が白い。
経年で生じる黄変がない。
糊の滲みが、まだ硬い。
村木はレポート写真を拡大する。
サイズは一致。
位置も同じ。
だが、写真では紙縁に繊維の毛羽立ちがある。
今は、断裁面が鋭い。
「輸送中に補修された可能性は」
「開梱時写真と一致してる?」
村木は頷く。
「一致しています」
ならば、受入後。
だが画廊の記録に補修申請はない。
「再梱包センター」
菜々緒が低く言う。
「どこの」
「都内の共同保管施設。保税区から出た後、一時保管される」
「契約書に記載は」
村木は輸送契約書を開く。
発地:都内保税倉庫
着地:浦和画廊
直送扱い。
中継地の明記はない。
「……空白です」
「直送は便利だね」
菜々緒の声に温度はない。
マイクが初めて口を開く。
「再梱包は、誰の指示だ」
「記録上は、ありません」
「空白は便利だ」
それ以上、言わない。
菜々緒が裏面を指でなぞる。
キャンバス縁に、微細な針穴。
タックスではない。
ホチキス留めの痕。
幅は六ミリ。一般的な事務用より狭い。
輸送用保護紙固定で使われるサイズだ。
「一度、外されてる」
村木の喉が乾く。
「開梱立会者は」
「物流会社社員と、画廊副代表です」
「副代表、今日いないよね」
「出張中と聞いております」
夜の展示室は静まり返っている。
温湿度は安定。
警備は作動。
保険は有効。
だが、責任の所在だけが曖昧だ。
村木は額縁を戻す。
「現時点で、不正を断定することはできません」
「でも、違和感はある」
一拍。
「はい」
マイクがドアへ向かう。
菜々緒がわずかに口角を上げる。
「固い子が燃えると、厄介だよ」
村木は答えない。
展示番号七番を、もう一度だけ見る。
ラベルは正しい。
来歴は正しい。
記録は正しい。
だが、作品は。
「再確認を、継続いたします」
静かな声だった。
それは、確認ではなく――
選択だった。
昼間は柔らかく見えた白壁が、照明を落とすと冷たい面になる。足音は吸われ、声は短く切れる。
機械警備は作動中。入口脇の操作盤で、赤いランプが一定間隔で点滅している。
センサーはバイパス済み。管理者立会いのもと、閉館後点検の記録が残る。
「手続き上は問題ないです」
村木は言った。
言葉は整っている。
だが足は、展示番号七番の前で止まった。
菜々緒は黙って手袋をはめる。ニトリル製。パウダーフリー。繊維残留なし。
「コンディションレポート、もう一回」
村木はファイルを開く。
開梱時損傷なし。
支持体歪みなし。
絵具層剥離なし。
裏面ラベル写真添付。
受入時重量、三・八キログラム。
「問題は確認されておりません」
「昼はね」
菜々緒は額縁下部を持ち上げる。
村木も反対側に手を添える。
二十号油彩。
キャンバス、木枠、額装込みで三・五から四キロ前後。
体感は範囲内。
だが、持ち上げた瞬間に分かる。
重心が、中央より数センチ右に寄っている。
「……裏、見る」
「管理者の許可範囲を超えます」
「立会い、してるでしょ」
管理者は展示室端で電話中だ。
背中を向け、用件だけを短く伝えている。
形式上は、立会い。
壁際に、萬屋マイクが立っている。
煙草は吸わない。ただ、全体を見ている。
「支持体の目視確認のみです。解体はいたしません」
村木はそう言い、額縁を慎重に外した。
裏面のキャンバス張りは整っている。
タックスの間隔も均等。
木枠の反りもない。
だが。
裏貼り紙が新しい。
紙色が白い。
経年で生じる黄変がない。
糊の滲みが、まだ硬い。
村木はレポート写真を拡大する。
サイズは一致。
位置も同じ。
だが、写真では紙縁に繊維の毛羽立ちがある。
今は、断裁面が鋭い。
「輸送中に補修された可能性は」
「開梱時写真と一致してる?」
村木は頷く。
「一致しています」
ならば、受入後。
だが画廊の記録に補修申請はない。
「再梱包センター」
菜々緒が低く言う。
「どこの」
「都内の共同保管施設。保税区から出た後、一時保管される」
「契約書に記載は」
村木は輸送契約書を開く。
発地:都内保税倉庫
着地:浦和画廊
直送扱い。
中継地の明記はない。
「……空白です」
「直送は便利だね」
菜々緒の声に温度はない。
マイクが初めて口を開く。
「再梱包は、誰の指示だ」
「記録上は、ありません」
「空白は便利だ」
それ以上、言わない。
菜々緒が裏面を指でなぞる。
キャンバス縁に、微細な針穴。
タックスではない。
ホチキス留めの痕。
幅は六ミリ。一般的な事務用より狭い。
輸送用保護紙固定で使われるサイズだ。
「一度、外されてる」
村木の喉が乾く。
「開梱立会者は」
「物流会社社員と、画廊副代表です」
「副代表、今日いないよね」
「出張中と聞いております」
夜の展示室は静まり返っている。
温湿度は安定。
警備は作動。
保険は有効。
だが、責任の所在だけが曖昧だ。
村木は額縁を戻す。
「現時点で、不正を断定することはできません」
「でも、違和感はある」
一拍。
「はい」
マイクがドアへ向かう。
菜々緒がわずかに口角を上げる。
「固い子が燃えると、厄介だよ」
村木は答えない。
展示番号七番を、もう一度だけ見る。
ラベルは正しい。
来歴は正しい。
記録は正しい。
だが、作品は。
「再確認を、継続いたします」
静かな声だった。
それは、確認ではなく――
選択だった。


