村木は、書類を閉じた。
浦和駅から徒歩七分。白壁の画廊は、午前の光を均等に受けている。展示室の空気は乾いていた。
湿度四十五パーセント。温度二十一度。壁面裏のデータロガーは正常値を示している。
記録表は前日分まで連続し、欠測はない。
入口脇のラックには、作品ごとのコンディションレポートが並ぶ。支持体の状態、絵具層の浮き、クラックの進行度、修復歴。紙の角は揃い、差し替え痕も見当たらない。
「委託販売契約書は、こちらで間違いございません」
画廊の担当者が、両手で書類を差し出す。
村木は受け取り、一枚ずつ視線を走らせた。
展示期間。
販売手数料三十パーセント。
動産総合保険、壁掛け展示特約付き。
付保額は評価額の九十パーセント。免責十万円。
来歴――プロヴェナンス。
一次所有者は欧州の個人コレクター。
二次はニューヨークのディーラー。
三次で国内に流入。
海外オークション会社の落札証明書写し。ロット番号とハンマープライスは一致している。
形式上、破綻はない。
「輸送はどちらが担当されましたか」
「都内のファインアート専門業者です。温湿度管理車両。開梱時の立会記録、パッキング写真もございます」
村木はうなずいた。
書類は揃っている。
数値は整い、記録は連続している。
展示計画書と配置図を照合する。
壁面番号。照明角度三十五度。照度二百ルクス以下。
紫外線カットフィルター装着済み。
すべて申請通りだ。
村木の指先が、展示番号七番で止まった。
油彩、二十号。キャンバス。
評価額が、相場より三割ほど高い。
「こちらの評価額は、どちらの鑑定書に基づいていますか」
「海外提携の私設鑑定団体です。Certificate of Authenticityも添付しております」
担当者の声に淀みはない。
村木は証明書を見る。
団体名は聞き覚えがある。
業界では使われることのある団体だ。
署名はデジタル登録済み。登録番号は有効期間内。
公的機関ではないが、否定もされていない。
「形式上は、問題ございません」
そう口にしながら、胸の奥に薄い引っかかりが残る。
説明できるほどではない。
ただ、プロヴェナンスの移転間隔が、少し短い。
価格の上昇曲線が、綺麗すぎる。
背後で、靴音がした。
振り向くと、黒い服の女が壁にもたれている。展示室の光の中で、影の濃さだけが目立つ。
「終わった?」
菜々緒だった。
「一通り、確認は済みました」
「重さ、触った?」
理由は言わない。
村木は展示番号七番の額縁に手をかけ、慎重に持ち上げる。
二十号油彩。
通常であれば三・五から四キロ前後。
手の感触は規定内だ。
だが、裏桟に触れた指先がわずかに止まる。
杉材ではない。
ラワン系。密度が僅かに違う。
「……規定値内です」
「誤差ね」
菜々緒は照明の角度を変える。
斜光が表面を走る。
マチエールの盛り上がりはある。
だが、乾燥収縮の割れが、年代にしては均一だ。
「光下では通る」
検査官としての言葉だった。
自然光下では鑑別困難。
蛍光灯では影が柔らかすぎる。
赤外線反射や蛍光X線までは、ここでは行えない。
村木は理解していた。
理解したまま、口に出さない。
展示室の奥から男が現れる。
ジャガーのキーを、指先で軽く回しながら。
「終わったか」
萬屋マイクだった。
声は低い。余計な言葉はない。
「はい。書類上は適正です」
「上はな」
マイクは作品を一瞥するだけで、それ以上近づかない。
村木は姿勢を正す。
「再確認の必要はないと判断いたしました」
そう判断したのは、今日が昼だからだ。
自然光では決定打が出ない。
自分の声が、わずかに硬いことを自覚する。
菜々緒が視線だけを向ける。
「夜、来る?」
「規定では、閉館後の作業は管理者立会いが必要です。照度変更も事前申請になります」
「固いね」
彼女は笑わない。
マイクが窓の外を見る。
通りは明るい。人の流れは穏やかだ。
「お前の仕事だ」
短い言葉だった。
村木はうなずく。
「はい。責任は、私が負います」
展示室は静かだった。
白い壁。均整の取れた照明。整った契約。
温湿度は安定し、保険は有効で、鑑定書は整っている。
すべて、正しい。
村木はファイルを抱え直す。
その日、浦和は穏やかだった。
――少なくとも、光の届くあいだは。
浦和駅から徒歩七分。白壁の画廊は、午前の光を均等に受けている。展示室の空気は乾いていた。
湿度四十五パーセント。温度二十一度。壁面裏のデータロガーは正常値を示している。
記録表は前日分まで連続し、欠測はない。
入口脇のラックには、作品ごとのコンディションレポートが並ぶ。支持体の状態、絵具層の浮き、クラックの進行度、修復歴。紙の角は揃い、差し替え痕も見当たらない。
「委託販売契約書は、こちらで間違いございません」
画廊の担当者が、両手で書類を差し出す。
村木は受け取り、一枚ずつ視線を走らせた。
展示期間。
販売手数料三十パーセント。
動産総合保険、壁掛け展示特約付き。
付保額は評価額の九十パーセント。免責十万円。
来歴――プロヴェナンス。
一次所有者は欧州の個人コレクター。
二次はニューヨークのディーラー。
三次で国内に流入。
海外オークション会社の落札証明書写し。ロット番号とハンマープライスは一致している。
形式上、破綻はない。
「輸送はどちらが担当されましたか」
「都内のファインアート専門業者です。温湿度管理車両。開梱時の立会記録、パッキング写真もございます」
村木はうなずいた。
書類は揃っている。
数値は整い、記録は連続している。
展示計画書と配置図を照合する。
壁面番号。照明角度三十五度。照度二百ルクス以下。
紫外線カットフィルター装着済み。
すべて申請通りだ。
村木の指先が、展示番号七番で止まった。
油彩、二十号。キャンバス。
評価額が、相場より三割ほど高い。
「こちらの評価額は、どちらの鑑定書に基づいていますか」
「海外提携の私設鑑定団体です。Certificate of Authenticityも添付しております」
担当者の声に淀みはない。
村木は証明書を見る。
団体名は聞き覚えがある。
業界では使われることのある団体だ。
署名はデジタル登録済み。登録番号は有効期間内。
公的機関ではないが、否定もされていない。
「形式上は、問題ございません」
そう口にしながら、胸の奥に薄い引っかかりが残る。
説明できるほどではない。
ただ、プロヴェナンスの移転間隔が、少し短い。
価格の上昇曲線が、綺麗すぎる。
背後で、靴音がした。
振り向くと、黒い服の女が壁にもたれている。展示室の光の中で、影の濃さだけが目立つ。
「終わった?」
菜々緒だった。
「一通り、確認は済みました」
「重さ、触った?」
理由は言わない。
村木は展示番号七番の額縁に手をかけ、慎重に持ち上げる。
二十号油彩。
通常であれば三・五から四キロ前後。
手の感触は規定内だ。
だが、裏桟に触れた指先がわずかに止まる。
杉材ではない。
ラワン系。密度が僅かに違う。
「……規定値内です」
「誤差ね」
菜々緒は照明の角度を変える。
斜光が表面を走る。
マチエールの盛り上がりはある。
だが、乾燥収縮の割れが、年代にしては均一だ。
「光下では通る」
検査官としての言葉だった。
自然光下では鑑別困難。
蛍光灯では影が柔らかすぎる。
赤外線反射や蛍光X線までは、ここでは行えない。
村木は理解していた。
理解したまま、口に出さない。
展示室の奥から男が現れる。
ジャガーのキーを、指先で軽く回しながら。
「終わったか」
萬屋マイクだった。
声は低い。余計な言葉はない。
「はい。書類上は適正です」
「上はな」
マイクは作品を一瞥するだけで、それ以上近づかない。
村木は姿勢を正す。
「再確認の必要はないと判断いたしました」
そう判断したのは、今日が昼だからだ。
自然光では決定打が出ない。
自分の声が、わずかに硬いことを自覚する。
菜々緒が視線だけを向ける。
「夜、来る?」
「規定では、閉館後の作業は管理者立会いが必要です。照度変更も事前申請になります」
「固いね」
彼女は笑わない。
マイクが窓の外を見る。
通りは明るい。人の流れは穏やかだ。
「お前の仕事だ」
短い言葉だった。
村木はうなずく。
「はい。責任は、私が負います」
展示室は静かだった。
白い壁。均整の取れた照明。整った契約。
温湿度は安定し、保険は有効で、鑑定書は整っている。
すべて、正しい。
村木はファイルを抱え直す。
その日、浦和は穏やかだった。
――少なくとも、光の届くあいだは。


