横顔。

 長い長い夏休みが終わった。


 学校は九月になる直前からが登校日で、通学路を歩いているだけでも汗が滴り落ちてきた。


 学校に着くと、夏休みの課題を提出している1人のクラスメイトの姿が目に入った。


「あ」


 クラスメイトの正体は、蒼さんだった。


「なんでいるの?」


「なんでと言われても。いちゃダメだった?」


「別に。やけに早いなと思って」


 夏休み前と変わらない話をして席にカバンを置く。


「ねえ、そろそろ翠って読んでいい?さん付けするの、なんか距離あっていや」


 唐突に彼がそんなことを言った。


「なんで?別に良くない?」


 私は彼の方を見ずに答える。


「逆に、だめ?」


 彼の顔を見なくても、表情がわかる気がした。


「別に、呼びたいなら、好きにして」


 さん付けから呼び捨てにするのを許可をあげてからされるのは初めてだったので、少し戸惑いながら返事をした。


 ここで変に拒否をして、彼との間に溝ができるのは防ぎたかった。


「…じゃあさ、翠も俺のこと、蒼って読んでよ。」


 急な呼び捨てと急なお願いに私は思わず振り返った。


「今、なんて?」


 気のせいであることを願いながら、聞き返す。


「だから、呼び捨てして欲しいの!」


 彼は怒ったように言い返してくる。


「…呼び捨て、すればいいの?」


 私はちょっと戸惑った。


 なぜ、特別仲が良いわけでもないのに、こんなふうに呼び捨てを要求してくるのか。


「だって、距離あるみたいで」


 彼は少し俯きながら話す。


「じゃあ、苗字でいい?」


 そういうと、彼は顔を上げて嬉しそうに返事をした。


 はぁと息をついてから、また鞄を片付け始める。


 蒼さん…いや、如月がどうしてここまで呼び捨てにこだわって来るのかもわからないまま、私はいつもの生活に戻って行った。


「あお…如月。結局勉強何時間したの?」


 私は自分の勉強時間の合計である二百時間を自慢しようと、昼休みに席を立った。


「え、多分俺勝ったよ。四百時間」


 自慢げに彼が放った言葉は、私の不意をついた。


「え」


 私の口からこぼれた一言だった。


 なんで、如月は。


 去年まで勉強なんか嫌いで、ゲームばっかりしてたらしいのに。


 もしかしたらあの話は嘘だったのかもしれないと思う。


「今年は、ゲームとSNS系封印したんよね。偉すぎん、俺」


 そんなことを呑気に言っている彼に、さらに疑問が湧く。


 なんで急に努力できるんだ、と。


「まあ、本気出せば私もそれぐらいできるし。」


 強がりのつもりで言ったが、如月はそれを真に受けたらしく、


「そりゃそうか」


 と1人で納得していた。


 だが、それがどうにも私の胸に引っかかった。


 もっと努力できたんじゃないか。


 私の努力なんてちっぽけだったんだじゃないか。


 結果にも繋がらなかったらどうしよう。


 でも、そんなことは帰る頃にはすっかり忘れてしまっていた。


 帰り道、テストのことをふと思い出した。


 怖くなった。


 昼の如月の話も思い出して。


 帰宅後もその焦りに駆られて、勉強机に向かって二時間勉強した。


 そんなとき、如月から一件のメールが来ていた。


「勉強がんばれ!」


 エクスクラメーションマークが赤色の特殊な文字に変わっている。


 男子にしては可愛いメールを送ってくるものだなと思い、クスッと笑ってしまった。


「ありがと。如月は、なんで勉強してるの?」


 そこまでメールを打って、少しだけ送るか迷った。


 もしも私に言えないような理由だったらどうしよう。


 夏休みに何かあったのかもしれない。


 そんなことを考え始めたらキリがなかった。


 そして、もう一つの心配は、勘違いされないかだ。


 この学年の男子はどうせ、思わせぶりとやらを気にする時期なんだろう。


 私が言えることではないが、少なくとも如月をがっかりさせるような真似はしたくない。


 メールを最初の一言だけにして返信する。


 すぐに返信が返ってきた。


「翠はなんで勉強してるの?」


 私がしようとしていた質問が、自分に送られてきたのでびっくりした。


 私は特に理由もなく勉強しているため、答えられない。


 強いていうなら、順位に応じてお小遣いがもらえるので、そのためだとも言えるのだろうか。


「お小遣いのため」


 短く返すと、またすぐに返信が返ってきた。


 フリック入力のはずなのに、とんでもなく返信が早い。


 去年どれだけスマホを触っていたのかがわかる。


「お小遣いか!俺も欲しい!」


 やっぱり男子にしては可愛すぎると言っても過言ではないほどの文面だ。


「親にねだれば?」


 ちょっと冷たかっただろうか。


 心配をしていたが、そんな私の思いをスルーして明るい返事が返ってくる。


「おっけ!また今度ねだってみる!」


 続けて返信が来る。


「俺は、スポーツ辞めたいから、かわりの勉強がんばることにした!」


 私が聞こうと思って辞めておいた回答がすんなりと返ってきた。


 こんなにすんなり返ってくるのなら、あんなに躊躇することなかったなと小さく落ち込む。


「がんば」


 短く返して電源を切る。


 彼が頑張っているのなら、私も頑張らなければ。


 ふと、私は不思議に思った。


 私は今まで、塾のレベルが同じぐらいの生徒たちと競争してきて恵まれた環境にいてやる気も湧いてくるはずの環境にいたのに、なぜ今になってレベルも考え方も性格も全然違う如月と競うとやる気が湧いて来るんだろう。


 その謎は、翌週には解けていた。


 答えは、思っていたよりも、難しかった。