拝啓、竜殺しの英雄様──この婚約、破棄してください。

そしてついに、筆頭聖女様が修道院を訪れる日が来た。
国境の修道院は、前とは比べものにならないほどの緊張感に包まれていた。

「旅程がかなり短縮されましたね。年寄りの身には、助かります」

馬車から降りたらしい筆頭聖女様が、苦笑混じりに零した言葉。
……旅程が短縮?
彼女はこのまま、王都に向かうのではないのだろうか。

不思議に思う私の元に、ゆっくりと足音が近付いてくる。
足音は、真っ直ぐこちらに向かっていた。
……まさか、筆頭聖女様が私の元に?

「可哀想に、目が見えないのね」

耳に響いた声は、慈愛に満ちていた。
そっと、頬に触れる指先。
温かな手。

「あ……」

指先から、じんわりと熱が広がっていく。
目元全体を覆う熱は、それまで残っていた違和感も、僅かな異物感も──全てを消し去っていた。

「……さぁ、包帯を外してごらんなさい」

言われるままに、後頭部の結び目を解いて、包帯を外す。
身体を綺麗にする時以外、ずっと包帯を付けたままだったから、外気がやけにひんやりして感じられた。

そっと、目を開く。
目の前には、目元に優しげな皺を刻んだ、老婆の顔。
──この方が、筆頭聖女様だろうか。

「よく、頑張りましたね」
「……はい」

世界中の光が一気に押し寄せてきたみたいで、とても眩しい。
眩しくて、筆頭聖女様の顔もまともに見ていられない。
そうしているうちに、視界が歪んできて──いや、違う。
これは私の目が涙で濡れているんだ。

「ありがとう、ござい、ます……!」

筆頭聖女様は、そんな私を優しく抱きしめてくれた。

「……さぁ、癒やさなければならない方が、もう一人」

そう言って、私の身体から離れた筆頭聖女様は、私の背後に立つ人物を見上げた。

「え──?」

……信じられなかった。
どうして、彼がここに?
先ほどまで目が見えなかった私の背後には、婚約者であるカルヴィン様が立っていたのだ。

いや、違う。
彼との関係は、私から終わらせたんだ。
私はもう、彼の婚約者ではない。

おかしい、こんなことは有り得ない。
だって、私のすぐ後ろには、ずっとこの修道院での生活を支えてくれたあの人(・・・)が立っていたはず。
なのに、どうしてカルヴィン様がここに……?

「呪いは、傷を癒やすより時間がかかります。暫しお待ちを」

筆頭聖女様の言葉が、耳を打つ。
呪い? カルヴィン様は、一体どのような呪いに罹っていたというのか。

……そこで、はたと思い出した。
そうだ、彼は竜殺しの英雄だ。
竜は、死の間際に呪いを残すと言う。
自らを殺した相手を、生涯苦しめる為の呪い。
彼は、今までそんな呪いに冒されていたというの──?

筆頭聖女様が、手を伸ばす。
その前に立つカルヴィン様は、目を閉じ、拳を握りしめていた。
……太く、大きな手。
彼がここに居るのなら──今まで私を世話してくれていた、あの人(・・・)はどこに居るのだろう。

柔らかな光が、カルヴィン様を包み込む。
周囲から、ほぅ……と感嘆の息が漏れた。
私が治療して貰った時も、このような感じだったのだろうか。

全てを癒やす、心まで温かくなるような、神聖な光。
その光が、全てカルヴィン様の身体に吸い込まれていって──全てが収まった時、彼の碧眼がゆっくりと見開かれた。

その瞳が数度瞬いた後、ゆっくりと動く。
視線が向けられた先は──私の元だ。

「──オーガスタ!!」
「え……」

彼が──カルヴィン様が、私の名を呼んだ。
もう、とうに忘れ去られたものだとばかり思っていたのに。

真っ直ぐこちらに駆けてくる姿。
靡く髪。
どれも昔のように懐かしく感じられて……ズキリと、胸が痛む。

ああ、私はまだ彼のことが──。

「──っ」

突然、全身に熱を感じる。
強く抱きしめられ、心臓がうるさく鳴り響く。
どうして……どうして、私はカルヴィン様に抱きしめられているの?

「どれだけ……どれだけ、この日を待ちわびていたことか……」
「カルヴィン、様……?」

ふと、頬に熱い物が滴って、上を向く。
見上げた彼の顔は、涙に濡れていた。

「オーガスタ、ごめん……ずっと、君に何て言っていいか分からなくて……どうにかして呪いを解こうと、そればかり考えていた」
「呪い……」

彼が受けたという、竜の呪い。
それは一体、どのようなものだったのだろう。

「それが、君を傷付ける結果になってしまって……俺は、馬鹿だったんだ。最初から、ああやって君とコミュニケーションを取れば良かったんだな……」

彼の言っていることが、よく分からない。
私とのコミュニケーション?
コミュニケーションも何も、竜討伐から帰ってきた時から──彼は一度も、私と向き合ってはくれなかったではないか。

「俺は、俺は……」

溢れる涙は嗚咽となり、カルヴィン様は無言のまま私を強く抱きしめた。
どうして……状況が理解出来ず、疑問符ばかりが浮かんでしまう。

「彼は、竜の呪いで……大事な人との時間を奪われたの」

カルヴィン様の背中越しにかけられた、筆頭聖女様の声。

「え……?」

大事な人との時間とは、どういうことだろう。

「彼は……一番大切な人にだけ、言葉が届かなくなっていたの」
「言葉が……?」

全てが驚きに満ちていた。
言葉が、届かない──しかも、一番大切な人に?
ならば、彼に今まで避けられていると感じていたのは……。

「私は、嫌われているのだとばかり……」
「──そんな訳ない!!」

大きな声と共に、抱きしめる腕に力が籠もる。

「だって、私はお飾りの婚約者で……カルヴィン様にとっては、風除けの存在で……」
「そんなのは、社交界の連中が勝手に言っていることだ」

カルヴィン様の手が、頬を撫でる。
大きくて、無骨な手……ああ、私はこの手を知っている。

「君のことが一番大事だからこそ、君とだけは、話をすることが出来なくなっていたんだ……」

優しい指先。
私のことを慈しむように頬を撫で、髪を梳く。

「ここで、私と筆談を交わしていたのは……」

カルヴィン様が、ゆっくりと頷く。
彼は、私を見限った訳ではなかったんだ。
婚約破棄の申し出をして、家を出た私を追って──この修道院で、一緒に居てくれたんだ。

「婚約破棄の申し出は、家に留め置いてある。確かに、俺の行いは、婚約を破棄されるに十分な物だった──だが、俺は、君との将来を諦めたくはない」
「でも、貴方には、大事な人が──」

そうだ、彼は聖女様と思いを通じ合わせたはず。
身を強張らせた私の上で、小さな舌打ちが響いた。

「あいつら……同僚から聞いたんだろう? 面白おかしく好き勝手なことばかり……」

舌打ちの次は、大きなため息が零れた。

「ごめんなさい、私のせいで誤解させてしまいましたね……」

カルヴィン様の腕から抜け出すようにして振り返ると、聖女アンジェリア様が深々と頭を垂れていた。

「聖女様!? そのような──」
「いいえ、いくら解呪に挑戦する為とはいえ、婚約者の居る方を一晩拘束するなど、配慮に欠けた行いでした」

……解呪に挑戦?
では、あの日──聖女様とカルヴィン様は、呪いを解く為に一緒に居たというのか。

「しかも、力不足で呪いを解くには至らず、こうして筆頭聖女様にご足労願うことになってしまって……」
「まったくですよ、アンジェリア。まだまだ修行が足りません」

筆頭聖女様の笑い声が響く。
全ては、私の誤解だったということだろうか。

「聖女様にお越しいただき、解呪をお願いすることを条件に、王女殿下のエスコート役を引き受けたんだ」
「え……」

なんと、聖女様方は彼の呪いを解く為に、この国に来られたとは。

「俺は……怖かったんだ。君に何も言えない自分が。君の前で黙るしかない自分が」

カルヴィン様の声には、悔しさが滲んでいる。

「もっと、ちゃんと君と向き合うべきだったのに……俺は、なんて馬鹿だったんだ……」

再び私を抱きしめ、肩口に顔を埋めるカルヴィン様。
彼の話が真実ならば──まだ婚約破棄の手続きは進んではいないということで……。

「私は……まだ、貴方の婚約者でいられるのですか……?」

問いかける声は、酷く震えていた。

彼は、答えるより先に、私の手を強く握った。
小刻みに震える手が、何より雄弁に語っていた。

「当たり前だ!! ……いや、これは俺の方から聞くべきだな」

彼の手が、私の手を取る。
私の前に膝を着いたカルヴィン様が、手の甲にそっと唇を押し当てた。

「俺と結婚してくれないか、オーガスタ。俺には、君しかいないんだ」
「カルヴィン様……」

涙で、視界が霞んでくる。
一度は、諦めた恋だった。
ここで身を引いた方が、彼の為だと思っていた。
だというのに……彼は、私の為に奔走してくれていたなんて。

「勿論です、喜んで」
「──ありがとう!!」

再び強い腕に抱かれると同時に、歓声が沸き起こる。
修道院の人々が、温かな拍手を送ってくれていた。