住み慣れた屋敷を出て、一人馬車に乗り込む。
積み込んだ荷物は、最低限。
同行するのは護衛の騎士三人と、雇われ御者のみ。
伯爵家の令嬢とは思えぬ、質素な旅。
目指すは、聖国との国境にある修道院。
途中、途中で宿を取りながら、長い旅路を揺られていた。
思えば、いつからだろう。
政略結婚の相手だったカルヴィン様を、これほど大事に思うようになったのは。
幼い頃のカルヴィン様は、英雄と呼ばれるようになるとは思えないほど、気弱な少年だった。
二人で領都の視察に歩いた時なんかは、大きな犬に怯えて、私の背に隠れていた。
だから──、
『大丈夫、私が守ってあげる!』
『本当?』
なんて、幼い約束を交わしたものだ。
私も犬が苦手だとカルヴィン様が知ったのは、屋敷に帰ってからのことだった。
あの時は、何度も頭を下げられたっけ。
ヘザー伯爵様に『男のくせに情けない』と叱られ、泣きながら謝っていた。
『ごめん、僕、もっと強くなるから……君に守られるんじゃなくて、僕が守れるように……!』
そう言って泣いていた幼い少年が、いつの間にか竜を倒すほどに強くなったなんて。
嘘みたいな、本当の話だ。
約束通り、彼は強くなった。
でも──今、私の隣に、彼の姿はない。
揺れる馬車の中には、私一人。
あと半日もすれば修道院に辿り着き、神に仕える身となるのだ。
「──あっ」
不意に、馬車が大きく跳ね上がった。
石の上にでも乗り上げたのかと思ったが、どうも外の様子がおかしい。
「魔獣だぁ!!」
「どうしてこんなところに、こんな大量に!?」
騎士達の、緊張した声が聞こえてきた。
……魔獣?
確かに修道院へは森の近くを通るけれど、街道にまで魔獣が現れるなんて、滅多にないはずなのに。
馬車の外で、獣のような唸り声が響く。
騎士達の必死な声と、ぶつかり合うような音。
ガラガラと車輪が激しく回り、馬車は勢いを増す。
「一体、どうなって──」
御者台を覗き込めば、雇い入れたはずの御者の姿は、そこにはない。
慌てて外の様子を確認しようと、窓に顔を寄せた瞬間──、
「──!!」
何かがぶつかって、ガラスが甲高い音を立てて割れた。
咄嗟に目を閉じる。
顔中に降り注ぐ破片を払うのだけで、精一杯だ。
「──お嬢様!!」
騎士の悲痛な叫び声が聞こえる。
先ほど窓ガラスにぶつかったのは、魔獣の牙を受けた騎士の身体だった。
彼は、大丈夫だろうか。
衝撃を受けたことで、馬車はますます加速している。
もはや、制する御者もいない。
「あ……」
突然の浮遊感。
一瞬の間を置いて、馬車は落ちていった。
暗闇の中、目を開けることさえ出来ず、光は感じられない。
あるのは、ただ痛みだけ。
まるで地獄の淵で足を滑らせた気分だ。
暗い闇に飲み込まれるように、私の意識はゆっくりと沈み込んでいった──。
気付いた時も、変わらぬ暗闇だった。
自分が微睡みの中に居るのか、それとも目覚めているのか……それすら定かではない。
ただ、身体が酷く痛んだ。
身を起こそうとして、誰かの腕に阻まれる。
「あ……」
寝ていろとばかりにベッドに横たえられ、布団をかけられる。
私は、魔獣に襲われて──馬車の事故に遭ったのではなかったか。
「あの、誰かが私を助けてくれたのでしょうか……?」
問いかける声は、酷く掠れていた。
しかし、起き上がるのを制してくれた人からは、返事はない。
代わりに歩く音と、扉を開く音が聞こえた。
「大丈夫でしたか?」
暫くして、優しそうな女性の声が聞こえてきた。
扉が閉まり、女性が傍に来てくれたらしい。
細い、柔らかな手指が私の頬を撫でる。
「良かった、三日も目を覚まさないから、心配していたの」
「三日……」
あの事故から、もう三日も経つのか。
いや、すぐに救出してもらえたとは限らないから、あるいはもっと日が経っているのかもしれない。
そっと目元に触れようとした手を、誰かが握りしめた。
まるで“触るな”とでも言うように。
大きく、逞しい掌──耳に聞こえる女性の声とは、とてもそぐわない手だった。
「手当はしたのだけれど、目の損傷が激しくて……もう少し、包帯はそのままにしておいた方がいいわ」
「そう、ですか」
包帯……なるほど、視界が闇に包まれているのは、包帯を巻かれているからなのか。
確かに、あの時割れたガラスを浴びてしまった。
眼球が傷付いていても、仕方が無い。
「あの、護衛は……騎士達は、どうなりましたか?」
私を守って、戦ってくれていたオールダム伯爵家の騎士達。
彼等は、無事に魔獣から逃げ延びただろうか。
「……一名は、どうにかこの修道院に助けを求めに来てくださいました」
「……一名は?」
それっきり、重苦しい沈黙が流れた。
護衛は、確か三人居たはず。
残る二人がどうなったか──私には言えないのだろうか。
それは、つまり──。
「……ごめ、なさ……」
「え?」
私の小さな声に、女性の声が重なる。
「ごめ、んなさい……私なんかを、守る為に……」
じんわりと、目元が熱くなる。
……目を閉じたままでも、涙って次々と溢れてくるんだ。
そんなこと、知りたくもなかった。
「……貴女が謝る必要はないわ。全ては魔獣の仕業と、不幸な事故だもの」
「でも、でも……っ」
ぽんぽんと、優しい手が肩を叩く。
ぎゅっと、抱きしめてくれる。
……温かい。
こんな風に誰かに優しくされたのは、いつぶりだろう。
「不幸な出来事が重なって、今はきっと、心が疲れているのね。暫くの間、ゆっくり休むといいわ」
「はい……」
女性の言葉に、小さく頷く。
「ほら、涙で包帯が濡れてしまったじゃない。すぐに取り替えないと、気持ち悪いわよ」
茶化すように笑ってくれる、女性の優しさが、有難かった。
こうして、予想していなかった形で、私の修道院生活が始まった。
暫くの間は治療中の客人扱いということで、修道女としての活動は免除された。
何かしようにも、目の見えない私が手伝おうとすれば、余計に場を混乱させてしまうだけだ。
手を伸ばしても、そこにあるはずのものに触れられない。
その事実が、胸の奥に重く沈んでいた。
そんな私を慰めてくれたのは、言葉を持たない彼とのやりとりだった。
積み込んだ荷物は、最低限。
同行するのは護衛の騎士三人と、雇われ御者のみ。
伯爵家の令嬢とは思えぬ、質素な旅。
目指すは、聖国との国境にある修道院。
途中、途中で宿を取りながら、長い旅路を揺られていた。
思えば、いつからだろう。
政略結婚の相手だったカルヴィン様を、これほど大事に思うようになったのは。
幼い頃のカルヴィン様は、英雄と呼ばれるようになるとは思えないほど、気弱な少年だった。
二人で領都の視察に歩いた時なんかは、大きな犬に怯えて、私の背に隠れていた。
だから──、
『大丈夫、私が守ってあげる!』
『本当?』
なんて、幼い約束を交わしたものだ。
私も犬が苦手だとカルヴィン様が知ったのは、屋敷に帰ってからのことだった。
あの時は、何度も頭を下げられたっけ。
ヘザー伯爵様に『男のくせに情けない』と叱られ、泣きながら謝っていた。
『ごめん、僕、もっと強くなるから……君に守られるんじゃなくて、僕が守れるように……!』
そう言って泣いていた幼い少年が、いつの間にか竜を倒すほどに強くなったなんて。
嘘みたいな、本当の話だ。
約束通り、彼は強くなった。
でも──今、私の隣に、彼の姿はない。
揺れる馬車の中には、私一人。
あと半日もすれば修道院に辿り着き、神に仕える身となるのだ。
「──あっ」
不意に、馬車が大きく跳ね上がった。
石の上にでも乗り上げたのかと思ったが、どうも外の様子がおかしい。
「魔獣だぁ!!」
「どうしてこんなところに、こんな大量に!?」
騎士達の、緊張した声が聞こえてきた。
……魔獣?
確かに修道院へは森の近くを通るけれど、街道にまで魔獣が現れるなんて、滅多にないはずなのに。
馬車の外で、獣のような唸り声が響く。
騎士達の必死な声と、ぶつかり合うような音。
ガラガラと車輪が激しく回り、馬車は勢いを増す。
「一体、どうなって──」
御者台を覗き込めば、雇い入れたはずの御者の姿は、そこにはない。
慌てて外の様子を確認しようと、窓に顔を寄せた瞬間──、
「──!!」
何かがぶつかって、ガラスが甲高い音を立てて割れた。
咄嗟に目を閉じる。
顔中に降り注ぐ破片を払うのだけで、精一杯だ。
「──お嬢様!!」
騎士の悲痛な叫び声が聞こえる。
先ほど窓ガラスにぶつかったのは、魔獣の牙を受けた騎士の身体だった。
彼は、大丈夫だろうか。
衝撃を受けたことで、馬車はますます加速している。
もはや、制する御者もいない。
「あ……」
突然の浮遊感。
一瞬の間を置いて、馬車は落ちていった。
暗闇の中、目を開けることさえ出来ず、光は感じられない。
あるのは、ただ痛みだけ。
まるで地獄の淵で足を滑らせた気分だ。
暗い闇に飲み込まれるように、私の意識はゆっくりと沈み込んでいった──。
気付いた時も、変わらぬ暗闇だった。
自分が微睡みの中に居るのか、それとも目覚めているのか……それすら定かではない。
ただ、身体が酷く痛んだ。
身を起こそうとして、誰かの腕に阻まれる。
「あ……」
寝ていろとばかりにベッドに横たえられ、布団をかけられる。
私は、魔獣に襲われて──馬車の事故に遭ったのではなかったか。
「あの、誰かが私を助けてくれたのでしょうか……?」
問いかける声は、酷く掠れていた。
しかし、起き上がるのを制してくれた人からは、返事はない。
代わりに歩く音と、扉を開く音が聞こえた。
「大丈夫でしたか?」
暫くして、優しそうな女性の声が聞こえてきた。
扉が閉まり、女性が傍に来てくれたらしい。
細い、柔らかな手指が私の頬を撫でる。
「良かった、三日も目を覚まさないから、心配していたの」
「三日……」
あの事故から、もう三日も経つのか。
いや、すぐに救出してもらえたとは限らないから、あるいはもっと日が経っているのかもしれない。
そっと目元に触れようとした手を、誰かが握りしめた。
まるで“触るな”とでも言うように。
大きく、逞しい掌──耳に聞こえる女性の声とは、とてもそぐわない手だった。
「手当はしたのだけれど、目の損傷が激しくて……もう少し、包帯はそのままにしておいた方がいいわ」
「そう、ですか」
包帯……なるほど、視界が闇に包まれているのは、包帯を巻かれているからなのか。
確かに、あの時割れたガラスを浴びてしまった。
眼球が傷付いていても、仕方が無い。
「あの、護衛は……騎士達は、どうなりましたか?」
私を守って、戦ってくれていたオールダム伯爵家の騎士達。
彼等は、無事に魔獣から逃げ延びただろうか。
「……一名は、どうにかこの修道院に助けを求めに来てくださいました」
「……一名は?」
それっきり、重苦しい沈黙が流れた。
護衛は、確か三人居たはず。
残る二人がどうなったか──私には言えないのだろうか。
それは、つまり──。
「……ごめ、なさ……」
「え?」
私の小さな声に、女性の声が重なる。
「ごめ、んなさい……私なんかを、守る為に……」
じんわりと、目元が熱くなる。
……目を閉じたままでも、涙って次々と溢れてくるんだ。
そんなこと、知りたくもなかった。
「……貴女が謝る必要はないわ。全ては魔獣の仕業と、不幸な事故だもの」
「でも、でも……っ」
ぽんぽんと、優しい手が肩を叩く。
ぎゅっと、抱きしめてくれる。
……温かい。
こんな風に誰かに優しくされたのは、いつぶりだろう。
「不幸な出来事が重なって、今はきっと、心が疲れているのね。暫くの間、ゆっくり休むといいわ」
「はい……」
女性の言葉に、小さく頷く。
「ほら、涙で包帯が濡れてしまったじゃない。すぐに取り替えないと、気持ち悪いわよ」
茶化すように笑ってくれる、女性の優しさが、有難かった。
こうして、予想していなかった形で、私の修道院生活が始まった。
暫くの間は治療中の客人扱いということで、修道女としての活動は免除された。
何かしようにも、目の見えない私が手伝おうとすれば、余計に場を混乱させてしまうだけだ。
手を伸ばしても、そこにあるはずのものに触れられない。
その事実が、胸の奥に重く沈んでいた。
そんな私を慰めてくれたのは、言葉を持たない彼とのやりとりだった。
