一人も居ない。
誰も、居ない。
人通りが多いはずの通りには、人っ子一人存在しなかった。
「なんでっ」
咄嗟にショーウィンドウの向こう側。道に面した店の中を確認する。
そこに人影はなく、飾られたマネキンだけがポーズを取って此方を見ていた。
「ここはもう彼らの空間。貴方があの非常階段に誘い込まれたときから、表の世界から切り離されていたんですよ」
「なんのこと、どういう…そんな漫画じゃあるまいし」
「ええ! そう! 漫画のように奇想天外、奇々怪々、奇怪千万! しかし事実は小説より奇なり!」
彼は大仰に手を叩きながら私を基点にぐるりと回り、私の正面で両手を天に掲げた。
「世の中には独特で現実味のない変則的で理に適わない珍しくも奇妙な珍談が溢れているのです!」
堂々とあやふやなことを叫ぶ男から逃げたい。
だけどおかしなことは続いていて、後ろを確認すれば先ほどの何かが路地裏から顔を出すところだった。
遠く離れたつもりだったのに、まだこんなに近い。
それは長い腕を伸ばし、私が落としたローファーを拾い上げた。
細い棒きれみたいな指。器用に引っかけ高く高く持ち上げて、大きく開いた口の中にゆっくり落とす。
不自然なほど大袈裟に、咀嚼するように歪な身体が揺れる。距離があるのにゴクリと嚥下する音が聞こえた気がした。
べろりと口回りを舐める舌。
縦長の口が笑う。
「――――……っ!」
「いやはや実にわかりやすい挑発行為!」
捕食に対する本能的な恐怖に震える私に対し、彼は愉快愉快と笑っていた。ちっとも愉快じゃない。
「逃げ、逃げなきゃ」
「いいえ逃げ場はありやしません。ここは奴らの世界。奴らが生きる世界の裏側。現実と表裏一体、本来なら交わらない境界の先」
走り出そうとした足が彼の言葉で止まる。彼はふーやれやれと、大きな動作で肩を竦めた。
「わかりやすく言えばこちらからは死んでも出られない部屋です」
「全然わかりやすくない!」
なんでこいつはこんなに余裕ぶっているのか。やっぱり怪しい。
獲物を甚振るようにゆっくり近付いてくる存在から逃げたいのに、逃げても無駄など言われてどうしたらいいのかわからなくなる。



