それから。
あの子の家は、借金苦から夜逃げしたらしい。
怪しげな宗教に嵌まっていて、その宗教団体に大金を貢いでいたらしいと風の噂で聞いた。
あの子はやっぱり居なかった。
もう、私の記憶にしか居なかった。
顔も名前もわからない。だけど私の友達はこの世界に、日本に、町内に、学校に、クラスに…私の隣に、確かに居た。
あの怪しげな男と化け物染みた邪神の存在は時間が経てば現実味を失う。今でも時々、全てが私の妄想かもしれないと恐ろしくなるときがある。
そんなときは曲がり角から、路地裏から、背後から。細長い手が此方へおいでと手招いている様な錯覚を覚える。
何かが私を誘っている。
弱い私を笑っている。
だから、私は描いた。
拙い絵を。あの子の絵を描き続けた。
顔の見えないあの子を描き続けた。
あの子を残す方法が、それしか思いつかなくて。
あの子を消し去った世界に訴える方法が、それしか思いつかなくて。
あの子は居たのだ。
居たのだ。
居たのだ!
「君、その子ばかり描くね」
「うん」
「テニスをやめて絵を描き出すから何事かと思ったけど…顔わからないけど、同じ子だよね」
「そうよ」
「モデルいるの?」
「ええ…私の、お友達」
描いて、描いて、描き続けた。
それから数年。日常を繰り返し、結婚して…。
おぎゃあ。おぎゃあ。
「奥さん、奥さん…頑張ったね。わかる? 我が子だよ」
おぎゃあ。おぎゃあ。
「わかる…わかるよ」
力強く産声を上げる我が子に…生まれてきたあの子に、涙がこぼれた。
「わかる…」
わかる。あの子だ。
あの子だ。
私の中に居た一欠片。
怪しげな男の、最後の言葉を思い出す。
『その一欠片を世界に刻んでくださいね!』
ああ、そういうこと…。
消えたくないと叫んだあの子の未練が。邪神が食べ損ねた生贄の欠片が。私の中で生き続けたあの子が。
私の中で育って、再び世界に産み落とされた。
消えてしまったあの子の代わりに、この子が沢山の人に出会って成長して、たくさんの記憶と記録を残していく。
私が描いた絵より強い影響力で、世界に自分を刻んでいく。
そうすれば。
もう、あの邪神は顕現する機会を失う。
でもそんなことはどうでもいい。
あの子じゃなくても。あの子だとしても。
愛したい。この子は何より愛したい、私の子だ。
「うまれてきてくれてありがとう」
万感の想いを込めて、私と夫は生まれたばかりの我が子の小さな手に触れた。
今日というこの日、貴方が世界に生まれた始まりの日の幸福を、忘れないように。
(おはよう)
あの日言えなかったあの子への挨拶を、こっそり胸中で呟いた。



