「悠ちゃん、毎日遅くまで頑張るね」
「……『悠真さん』って呼べって言ってるだろ。あと、一応、敬語使え」
「いいじゃない。誰もいないときくらい」
午後9時の事務所は、俺と従妹の陽菜(ひな)が残っているだけだ。陽菜は建築を学んでいる大学生だ。実務を知りたいというので、期間限定のバイトという形で雇っている。俺とは、子どものころから親戚の集まりで顔を合わせてきた気安い間柄だ。今回改修される家は、陽菜にとっても思い出の家だった。
「今、計算してるのって、あの家の?」
「そ」
モニターから目を離さずに答えた。陽菜が俺の後ろから覗き込んで「予算、厳しいね」と肩をすくめる。
「思うんだけど」と陽菜が言葉を区切った。なにか、いい案でもあるのかとキーボードを打つ手を止めて、振り返る。学生ながら、陽菜は、なかなか目の付け所がいい。
「最近、悠ちゃん、市役所に行くとき嬉しそうだよね」
……不意打ちをくらった。
「なっ……」
喉の奥で、息が鳴る。
「何言ってんだよ。ただの仕事だから」
フイと顔をモニターに戻して、キーボードを叩き始める。
「えー、絶対、市役所に行くの、楽しみにしてるよ。この前だって、市役所の打ち合わせに遅れそうだって、汗だくになって戻ってきたじゃない。急ぎの打ち合わせでもないのに」
……無言。
「来週にリスケするのかなーって思ってたら、Webミーティングに切り替えてたよね」
……何も言うまい。
「どうしても会いたかったんでしょ。ミーティングに映ってた担当さんに」
「あのなあ」
ようやく声を出した。
「大人をからかうもんじゃない」
椅子を回し、陽菜の正面に向き直って腰に手を当てる。……冷静さと寛容さを装って。
けれども、陽菜は顎を上げている。見かけはふわっとしているのに、昔から、強気なヤツだった。俺とは対等にものを言い合う。
「からかってないよ。図星だよね?」
一拍置いてから、俺に顔を近づける。
「好きなんでしょ」
言い返そうとしたが、言葉が喉に張り付いて出てこない。
「じれったくて見ていられないんだけど。もたもたしてると、誰かに取られちゃうよ」
完全にやり込められて黙る俺を尻目に、陽菜は帰り支度を始めた。勢いよくバッグを肩に掛けてから、俺の目の前で、立てた人差し指を揺らす。
「悠ちゃん、言い方きついから気をつけたほうがいいと思う。嫌われないようにね」
頑張って、と陽菜は軽く片手を上げて事務所をあとにした。
ドアが閉まると、ひとりだけの空間に静寂が満ちた。
――好き、か。
陽菜の言葉が、頭の中で反響している。
いつの間にか、宮本、と呼び捨てで呼ぶようになっていた。距離を詰めようと意識していたわけじゃない。顔を合わせる回数が増えて言葉を交わすうちに、気づいたら口をついて出ていた。無意識のうちに、彼女は俺にとって気を張らずに声を掛けられる存在になっていた。
「新しいイラスト、描いてみたんですが……」
市役所に行くたびに、恥ずかしそうに差し出してくるスケッチブック。
照れた顔が、かわいいと思った。夢に向かって頑張る姿を見ていたい、応援したいと思った。思わず、宮本の頭にぽんと手を置いたあの時。一瞬触れた宮本の体温に、胸の内側が妙に熱くなったのを覚えている。
Webミーティングでは、宮本が俺のスーツ姿を「似合う」と言った。
「俺に見とれてたんだ」とからかい、ちょうど上着を脱ぎかけていたから、「宮本のために、もう一度着ようか」なんて軽口をたたいてみたけれど。
……正直、余裕ぶっていただけだ。
女に褒められて“嬉しい”なんて柄じゃない。でも……嬉しかった。一瞬、毎回スーツで役所に行こうかと思ったくらいだ。
理由はわかっている。
宮本に、言われたから。
(あー……まずいな)
俺は両手で頭を抱えた。
俺の思考の10割は、仕事で占められている。
俺の休日の10割も、仕事で過ぎていく。
なのに。
その隙間に入り込んでくる気配がある。声がある。
――宮本だ。
設計図を見ているのに、スケッチブックに色鉛筆を走らせる姿が目に浮かぶ。
会議録を聞き直しているのに、「黒川さん」と呼ぶ声がよみがえる。
俺は、明らかにおかしかった。
仕事仲間を気にかけているだけだと思い込んでみた。
仕事の延長戦の付き合いだと言い聞かせてみた。
でも、きれいな景色を見つけた時、彼女と見たいと思う自分がいる。
美味しいものを口にしたとき、彼女とその味を分け合いたいと思う自分がいる。
いつだって、一緒にいたくて……。
この感情を、なんて言うんだ。
……恋、だろ。

