花のしおり1

次の日、僕は学校を休んだ。
あと学校に行くのは三日なのだが、三日間とも休もうと思った。
ふと携帯を見ると、胡蝶さんから体調の心配のメッセージが来ていたが、「大丈夫」とだけ返しておいた。
もう昼過ぎだが、母はおそらく自分の部屋で寝ているのだろう。
あまり家にいたくもなかったが、今は外にも出たくなかった。
今日は一日中部屋で勉強をしていた。していたけど全く集中できなかった。
それに、今日は夕方からバイトがあるから、それまでは家にいようと思う。
数時間が経ち、バイトの時間になった。
ちなみに母は僕がバイトをしていることは知らない。わざわざ言うことじゃないから言ってないだけなのだけど。
とりあえず、母が起きないように忍足で家を出た。
自転車を走らせること三十分ほど。
「お久しぶりです。」
パソコンで何かを作業していた店長が、僕の声に反応するように椅子をくるりと反転させた。
「おー。久しぶりだなー。そうか、今日から出勤だったなー。」
「長々休みをいただき、ありがとうございました。」
「いいんだよ。学生の本文は勉強だろ?」
理解のある店長でよかった。でも、店長は口にはしないが人手が足りていないことを僕は知っていた。
「これからもよろしくお願いします。」
僕は頭を軽く下げてから更衣室に向かった。
僕より三つ上の大学生の女の人にレジと揚げ物などを任せて、ひたすら商品を棚に詰めていた。
ちなみに僕のバイト先はどこにでもあるコンビニだ。
それから僕はその年上の女の人と五時間ほど働いた。
「お疲れ様でした。」
「おーお疲れさまー。今後もよろしくね〜。」
「はい。よろしくお願いします。」
店長への挨拶を済ませたところで、更衣室で着替えを終え、帰宅した。
家について携帯を見ると、胡蝶さんから連絡が来ていた。
どうやら、プリントを届けたが家に誰もいなかったとのことだった。
僕はそれを無視して携帯の電源を切り、机の中にしまった。
僕はずっと彼女と関わることにどうしても抵抗があった。理由は最近というか、あの僕が取り乱してしまった日に気づいてしまった。
死にたいと思っている僕が、命の重さわかり切っている彼女と一緒にいてはならないのだ。こんなことを思うのは今更かもしてないけど。それに、数日間という短い期間だが、彼女を見てきて確信したことがあった。
僕がいくら了承しても彼女は僕のこの“心臓”を受け取ることはない。それは、彼女が僕とは違って優しい人間だから。
これから僕がどうするべきかなんとなくわかった気がした。そんなことを考えながら僕は眠りについた。

次の日もその次の日も僕は学校を休んだ。今日で学校は終わり、明日からこの学校は夏休みに入る。一応、学校には体調不良で休んでいると連絡してあるから無断欠席とかではないのでこのまま夏休みに入っても大丈夫だとは思っている。
夕方になって母は仕事に行き、僕は自室にこもって勉強をしていた。すると、インターホンが鳴った。でも僕はそれに応えれるほどの体力を持ち合わせていなかった。多分セールスか何かだろう。そう思うようにして無視を決め込んだ。
それからインターホンが一分おきくらいに二、三回ほど鳴って静かになった。流石に優しいセールスウーマンも諦めて帰ったらしい。
このまま胡蝶さんと関わることなく、夏休みを迎えれば僕はそれでよかった。彼女と楽しんでいる自分を想像しただけで胸が張り裂けそうになった。何回も言うが、僕なんかが人生を楽しんではいけないんだ。
僕が彼女と友達になったのは僕が彼女のことを知り、“心臓”を彼女にあげるに値するかを判断するためだった。まぁ、それも彼女の提案なのだけど。それももう必要なくなった。もう、僕は彼女の優しさ、人柄の良さに気づいているのだから。
そろそろ勉強するのに飽きてきて、ペンを置いて教科書をペラペラと無意味にめくっていた。
どんなに気分が落ちていてもお腹は空いてしまうものだ。いっそこのまま餓死するのも悪くない。そう思いながらも彼女との約束だけはなんとなく守ろうと思ってしまい、財布だけを握りしめて、コンビニに行こうとした。
玄関の扉を開けると、扉の横に体育座りをして、頭を膝の上に乗せている胡蝶さんがいた。
「え…?胡蝶さん?」
僕が胡蝶さんの名前を呼ぶと、彼女は勢いよく顔を上げて僕の目をじっと見てから飛びついてきた。
一瞬だが彼女が泣いているように見えたのは気のせいだろうか。
「よかった…。本当によかった。何日も連絡つかないし。先生に住所聞いて来てみても誰もいないし。」
どうやら気のせいではなかったらしい。僕の首あたりに水滴が垂れたのがわかった。
「なんで胡蝶さんが泣いてるの?」
純粋な疑問だった。僕は彼女に抱きつかれたままそう質問した。僕がいなくなれば彼女自身が助からなくなるからだろうか。でも彼女の次のセリフで僕がそう考えてしまったことを一瞬にして後悔することになった。
「もう、誰にもいなくなってほしくないの…。お願いだから。」
僕がした質問にそう答えながら僕に抱きついている彼女の腕の力が強まった。そして、彼女のその発言は過去に親しい誰かを亡くしてしまったようにも聞こえた。
僕は黙って彼女が落ち着くのを待つことしかできなかった。そして、僕は『いなくなってほしくない』と言う感情を誰かから向けられたのは始めてのことだった。
数分して彼女は落ち着いてきたらしく。僕は少し部屋で休んで行くかと聞いたが、これから大事な予定があるからと言って学校のプリントや、僕が休んでいた三日間で追加された夏休みの課題を僕に渡してから帰っていってしまった。なんとなくこのまま返すのも気が引けたので家から洗濯したばかりのハンカチを手渡した。
また僕は自室に戻り、ベッドに寝そべって今起きた出来事について考えていた。
彼女が泣いていた理由、彼女のあの発言、考えることはたくさんあった。でも結局、何一つ心当たりがなく考えることをやめてしまった。

次の日。
夏休み初日、僕は朝からお花に水を上げるために学校に来ていた。
午後から予定があるから、午前中のうちに済ませておこうと思ったのだ。
顧問の先生である、担任の先生が「どうせ夏休みの間、私学校にいるし代わりにあげておこうか?」なんて言われたけど丁重にお断りした。別に先生を信用してないとかではない。今度あの公園で会ったおばあちゃんに花の栞の栞の作り方を教えてもらう時、ここの花を使いたいのだ。流石に先生に許可は得ている。「君が育てた花なのだから、君の好きにするといい」と言ってくれた。ちなみに学校を休んでいたことに関してはちゃんと心配してくれた。ちゃんと、なんて少し上から目線かもしれないけど。
僕はまだ栞に使う花を悩んでいた。僕が優柔不断なのもそうだが、渡す花によって意味が変わってくる。相手を不快にさせてしまうことだってある。でも、僕は思うのだ。これは勝手に人間が決めたことで花に罪はない。僕にとってはどんな花も同じくらい綺麗なのだ。あくまで僕にとってはだが。
花に水をあげ終わり、一応、先生に軽い挨拶だけ済ませ、そのまま喫茶店に向かった。
喫茶店に向かった理由は、昨日胡蝶さんに帰り際「明日大事な話があるからあの喫茶店にきてほしい」と言われたからだ。なんでも、一緒にいてほしい場所があるのだとか。もう彼女と関わらないと決めていたが、胡蝶さんのいつになく真剣な顔をしていて、あの涙、あの発言をされては、会うことはできないと拒絶することが僕にはできなかった。
待ち合わせの時間まで三十分ほどあったが、コーヒーを飲んで待つことにした。
二十分ほどして待ち合わせ相手が店内に入ってきた。
初めて見た彼女の私服だが、なんの感想も出てこない、シンプルなTシャツにシンプルなズボンだった。
「待たせてごめん」
「いや、全然待ってないから大丈夫だよ。」
「昨日は家の前に居座ってごめんね」
「いや、心配かけちゃった僕が悪い。」
関わらないといえど携帯の電源を切ってしまったのはよくなかったと反省している。それに冷静に考えれば彼女に最後に会ったあの日、僕は体調をあ崩していることになっていた、そこから何日も連絡がなかったら心配するなと言う方が無理な話だった。
「それで、一緒に来てほしい場所って?」
特に雑談をすることなく話を切り出した。彼女はここに真剣な話をしに来たはずだ。それは昨日の態度でわかっていた。
「うん、それと会ってほしい人がいるの」
「会ってほしい人?」
彼女に疑問を投げかけながら少しだけ考えたが、その人物像がまるで浮かばなかった。
「うん、私の大事な人」
僕の目をまっすぐ真剣な目で見て、そう言った。彼女にとってすごく大事な人、そう言われ、より一層に誰のことを言っているのかわからなかった。
「今から?」
知らない人に会うのは少々、というか結構緊張する。まぁ彼女の大事な人と言うのだから悪い人ではないのは明白だし、むしろいい人なのかもしれない。
「うん、今から。」
「じゃあ、会計してくるから外で待ってて」
「あ、うん。」
僕は椅子から立ち上がり、マスターのところに行って会計を済ませた。
この前起きたことの心配をされたが、「少し腹を下しただけで、今は大丈夫です。」と軽くお辞儀をしておいた。すると、マスターは少し笑顔になって「よかったよかった」と言ってくれた。どうやら僕はたくさんの人に心配をかけていたらしい。
会計を済ませ、外に出るとあんなに元気だった真夏の太陽が綺麗に雲に隠れていてなんともいえない空をしていた。
「じゃあ、行こうか。」
壁に寄りかかりながら下を向いていた彼女に声をかけたが、彼女は少し反応が遅れていて何か考え事をしているみたいだった。
彼女は歩いてここまできたらしいので僕は自転車を押して隣を歩いた。流石に喫茶店においていくのはマスターに申し訳なかったのでやめた。
「ここから近いの?」
「ちょっと遠いかも。」
「そっか…。」
それから僕らは一言も会話を交えなかった。僕だけかもしれないが、少しだけ気まずかったのもあるが、いつもなら元気に話しかけてくる彼女が今日は、この空みたいに暗く彼女が無言だったからだ。
喫茶店を出て十分くらい歩いて、駅についた。どうやら電車に乗るらしい。
僕は駅の駐輪場に自転車を停め、電車に乗り込んだ。
電車を待っている間も、電車に乗っている間も終始無言続いた。
電車に揺れること二十分。
そこからまた歩いてついた場所は、とても大きい病院だった。惜しくも生まれてこのかた健康体の僕はこんでかい病院にきたことがなかった。
彼女は何も言わずにこの病院の中に入って行った。僕に会ってほしい人がこの病院にいると言うのだろうか。
もしかしたら、彼女の病気についてのこと?
よく考えたら僕は彼女の病気について何も知らない。僕がせいぜい知っているのは一年後に死ぬ可能性があると言うことくらいだった。でも、僕は彼女の彼氏でもなければ家族でもない。彼女の病気の症状について知ったところで延命なんてできやしない。そんな言い訳というか他人行儀なことを考えていた。
彼女に続いて病院の中に入ると、消毒液の匂いが鼻にツーンと伝わった。別にこの匂いで何か嫌なことを思い出すかと言えば特に思うことはないのだが、いい気分ではなかった。
僕はそのまま何も喋らない彼女の後ろをついていった。その背中はどこか小さく目を離したらすぐに消えてしまいそうだった。
そんな彼女が消えないようにしっかりと彼女を見て後ろをついて行った。
当たり前だが、いろんな人とすれ違った。片目に眼帯をしている人、マスクをしている親子、
彼女は四階の一番端の部屋のドアの前で立ち止まり、一度深呼吸をしてドアを開けた。
テレビの音、心拍を図る音、窓が開いているのかカーテンがカサカサと揺れる音、すぐそばの木に止まっている鳥の鳴き声、さまざま音が聞こえてきた。
彼女はそのまま部屋の奥へと進んでいったので僕はそれについて行った。
「連れてきたよ、お姉ちゃん。」
お姉ちゃん?と疑問符を浮かべながら彼女の横に立って、ベッドに寝ていた人の顔をのぞいた。
点滴、呼吸を補助するもの、さまざまなものが取り付けられたその人の顔を見て僕は息ができなくなるかと思った。
そこに寝ていた人間を僕は知っている。ついこの間の話だ。ついこの間、僕はその人とケーキを作ったばかりだった。
頭が真っ白になるのを自分の中で色々考えを出し、頭の中を黒に染めようとした。
双子?僕が今まで見ていたのは幻覚?いや、こっちが夢か幻か何か?あの日会った以降に事故にでもあったというのか?
「四年前。」
僕の思考を遮るように隣に立つ彼女が口を開いた。
「私のお姉ちゃん、四年前から目を覚まさないの。」
ふらつく足を必死に踏ん張り彼女の話を聞くことにした。
自分の変な憶測より事実確認の方をした方が僕のこの折れてしまいそうな心を支えてくれそうな気がした。
「名前…。君のお姉さんの名前、聞いてもいいかな…。」
思うように言葉が出なかったが必死に喉の奥から言葉を引っ張り出した。
「かおり、遠藤かおり。」
僕の中の黒い思考は再び、真っ白に染められた。
「嘘だ。何かの冗談だよね…。」
気がつくと僕は隣に立っている彼女の両肩を強く掴んでいた。
「痛っ…嘘じゃない。だから君をここに呼んだの!」
僕はすぐに冷静になり、掴んでいた彼女の肩から手を離した。
「ごめん…。」
「大丈夫。ここじゃあれだから外で話そうよ」
「…。」
彼女を痛めつけていたことを反省し、彼女の後をついて行った。
病室を出て廊下の反対側にベンチがあったので僕らはそこに並んで座った。
ベンチに座ってからしばらく沈黙が続いた。その沈黙を隣に座っている彼女が破ってくれた。
「昔に聞いたことがあったの。お姉ちゃんから君の話。」
「…。」
僕は何も言うことができなかった。彼女の会話に返事をすることもできなかった。僕は彼女の顔を見ることができずにしたを向いていた。そんなのお構いなしに彼女は話を続けた。
「名前は教えてくれなかったんだけど。君の今の反応見てわかったの。あ、君がお姉ちゃんの言ってた人なんだって。遅かれ早かれ話すつもりではいたの、お姉ちゃんのこと。」
「…。」
僕はというと未だに起きている状況が飲み込めてなかった。
喫茶店で偶然再会して話をしたこと、砂場で山とケーキを作ったこと。あの元気なかおりちゃんは幻だったのか、はたまた僕会いたいと願ったがために生まれてきてしまった妖怪の類なのか、はたまた夢なのか。考えれば考えるほどわからなかった。
「君はさ、なんでそんなに死にたがってるの?」
僕がずっと無言でいるからか質問を投げかけてきた。
「前に言ったよね。詮索しないでって。」
彼女に話したところで弟が帰って来るわけじゃない。そんなことがわかっているから、どうしよもないこの気持ちを彼女にぶつけてしまった。そんなことを言って、すぐに後悔してしまった。彼女は何も悪くない。悪いのは全部僕なのに。
「ごめん、そうだったね。」
後悔したから。いや、違う。僕は誰かにこの話を聞いて欲しかったのかもしれない。散々誰かに話してもしょうがないと思っていたけど彼女なら何か僕の世界が変わるかもしれない。そう期待してしまった。
「僕には…弟がいたんだ。一卵性の双子の弟が。でも、四年前に不慮の事故で死んじゃったんだ…。」
それから色々なことを彼女に話した。弟のこと、僕のことをよく思っていない人間がいること。母のこと。
「なんで君が泣くのさ…。」
彼女は僕の話を親身なって聞いてくれて、数滴の涙を流した。その涙は僕のために流してくれたのが勿体無いほど、とても綺麗で美しかった。
「だって…。そんな辛い思いしてるなんて知らなくて…。」
辛い思いか…。彼女はそう言っているけど僕からしたら罰なんだと思っている。弟を助けることができなかった自分への。
勘がいいのか悪いのかわからないが、僕が彼女との夏休みの計画をした時に体調が悪くなったあの出来事には触れてはこなかった。わざわざ言う話でもないので伏せておく。
彼女の家庭事情に関しても少しだけ聞くことができた。
僕が胡蝶さんとかおりちゃんが姉妹であることがわからなかった理由も両親が離婚しているから苗字が違う、と言うことをこの時知った。彼女曰く、両親が離婚した理由は姉が病気であることを妹である胡蝶さんに隠すためらしい。
今は元気になり、普通に暮らしている設定になっているらしいが胡蝶さんは昔に両親の会話を聞いてしまったらしく、ここにも両親に内緒で来ているのだとか。
そんな話を聞いた後でも、僕はこの現実は信じることができなかった。

病院で彼女と別れ、僕は一人であの公園に来ていた。
彼女はまだ姉、かおりちゃんの側にいたいと言っていたので、僕は先に帰ることにした。
僕がなぜ公園にきているのかと言うと、もしかしたらかおりちゃんになりすました誰かが、僕に嫌がらせをするためにかおりちゃんのフリでもしてるのかと思っていつも通ると言っていたここで待つことにしたのだ。もちろん今日、通るなんて保証はどこにもないけど。
一時間ほどが経過したが、特にかおりちゃんの姿は見えなかった。
もう少しだけ待ってみようと思い、自動販売機でキンキンに冷えたお茶を買い、乾いた喉をかおりちゃんに会えない不安と一緒に胃の奥へ流し込んだ。
さらに一時間が経過したが、かおりちゃんは現れなかった。
代わりに現れたのは五歳くらいの男の子を連れた母親だった。
その男の子は砂場で遊んでおり、僕らが作ったケーキに追加で飾り付けをして遊んでおり、なんだが心が救われた気がした。
かおりちゃんが来るのを待ってから三時間が経過した。
あの微笑ましい親子は帰ってしまった。
砂場の方を除き見ると、僕らが作ったケーキがより豪華なケーキになっており、あの五歳くらいの男の子に心の中で軽い拍手をした。
時計を見ると、時刻は午後五時を過ぎていた。
あの病院で見た女性が本当に僕の知っているかおりちゃんならこのまま一生会えなくなるのでは、という思いが時間が経つに連れて大きくなっていった。

『兄貴、ごめん。迷惑かけて』
何言ってんだ!迷惑なわけあるか!だから、早く…。
『……もういいんだ。』
いいから早く…!

息が上がっている。少し肌寒い気がするのに背中は汗ですごく濡れていた。
どうやら僕はあのままベンチで寝てしまっていたらしい。夢を見ていた気がするのだが、どんな夢か思い出せない。
今は何時だろうか。あたりはすっかり暗くなってしまっていた。自動販売機と公園中央に設置された一本の光だけが当たり照らしていた。
「大丈夫?すごいうなされたけど」
「あーかおりちゃん、来てたんだ」
僕はまだ目覚めてから数秒しか経っていないことでまだ頭が寝ぼけていたから、今起きている状況に脳が処理しきれていなかった。ここにかおりちゃんがいても不思議じゃない。そんなふうに思っていた。
徐々に目が覚めてきて今起きていることについて脳の処理が追いついてきた。
「ん?…うわっ!!」
僕はベンチから勢いよく立ち上がりそのまま地面に尻餅をついてしまった。痛いとは思ったが、それ以上に今目の前にいる人間が恐怖で仕方がなかった。
今日の半日をかおりちゃんに会うために費やし、会いたかったはずなのに、いざ目の前にすると会いたかった気持ちより恐怖が勝ってしまった。
「え!?大丈夫!?」
彼女はすぐに僕の元へ駆け寄り、手を差し伸べてくれた。僕はその瞬間に今ここにいる人が僕の知っているかおりちゃんなのだとわかった。もちろん確実ではない。でも、僕はこれに似た光景を出会ったときにも体験していた。
いじめられていた僕を助けてくれた時もこんなふうに手を差し伸べてくれた。
僕はゆっくりとその手を取り、立ち上がった。
「……ありがとう。」
「怪我してない?大丈夫?」
「大丈夫、本当に大丈夫。」
僕は再びベンチに腰掛け、小さくため息をついた。彼女を一瞬でも疑ってしまったこと、そんな自分に嫌気がさした。
「何かあった?」
どうやら僕の小さなため息に反応されてしまったようだ。逆に謝罪できるいい機会だと思った。
「いや、かおりちゃんに悪いことしちゃって…。」
胡蝶さんとの出来事は僕の知らない別のかおりと言う人間のこと。そう勝手に結論づけて目の前にいるかおりちゃんに謝ろうと思った。
なんでもないと、言い逃れることはできるかもしれないが、どうしても本人の口から“あれは自分じゃない”と言う確認したかった。
僕の中で勝手にこの子は僕の知ってるかおりちゃんだ、と思ってることに変わりはない。だからこそ、確証が得られる“何か”が欲しかった。
「悪いこと?」
「実は…訳あって今日病院に行ったんだ。」
彼女の顔は見れなかった。反応を見てしまったら答えがわかってしまう、そう直感した。
「どこか悪いの?」
「いや、別にそうじゃないんだけど……。」
少し言いづらかったが、僕は勇気を振り絞って今日行ってきた病院の名前を口にした。
「あー、そっか…。なるほどね。」
僕が想像していた反応と違っていた。いや、僕が望んでいた反応と違っていた。
隣に座る彼女は何も見えない暗い遠い空を見上げながら何かに納得したような言葉を吐いた。
「…。」
僕は彼女のその納得したことについて話してくれるのを待った。
彼女は一つ深呼吸をして僕の方を向き、僕の目をしっかりと見た。彼女のいつになく真面目な顔に僕の心はどこか遠くに行きたい気持ちになった。
「多分だけどさ。そこで私にそっくりな人と会わなかった?」
そっくりな人。あの人には悪いが、僕は彼女のそのセリフに少しだけ、ほんの少しだけ期待してしまった。
「うん。だから、勘違いしちゃって、かおりちゃんに申し訳ないって。」
「それ、勘違いじゃないの。」
言っている意味がわからなかった。だって、かおりちゃんはここにいるし…。なんて考えていたら彼女の口から想像をはるかに超える発言をされた。
「ここにいる私は、私であって私じゃないの。」
「…え?」
「生き霊みたいな感じなのかな。」
生き霊?何を言っているのだと思った。余計に意味がわからなかった。
僕が放心状態でいると彼女は続きを話し始めた。
「半年くらい前、突然ね。目の前に私が病院のベッドで寝てて。誰にも私の存在が見えてなくて。ずっとこのあたりをぐるぐるしてたんだ。」
僕の知っている彼女は嘘なんかを言う人じゃなかった。だから、少しだけ彼女の言っていることを信じてみると同時に彼女が本当に生き霊であることを証明するような出来事がこれまでに何度かあったのを思い出した。
喫茶店にいるのに何も頼むことなくあそこに座っていたこと、あのおばあちゃんに僕だけしか視認できていなかったこと、高校に行けていないと言う彼女の発言。そして、あの病院で見た彼女のあの姿。
「…。」
彼女は僕がまだ信じていないと思ったのか、ベンチから立ち上がった。そして、そのままゆっくり歩いてこの公園に唯一立っている外灯の前に立ってこちらに振り返った。
「…何か気づかない?」
彼女は両手を広げながらそう言ったが、僕はその発言するより前。彼女が外灯の光の下に足を踏み入れた瞬間には気づいていた。気づいてしまった。
どんなに認めたくないことでも、事実を突きつけられるとこうもあっさり認めてしまうものらしい。
普通の人間にならあるはずの“影”が彼女にはなかった。