◇◇◇
七年ぶりに響き渡った鐘の音。
単調に4度鳴らされる大鐘の音は、聖女伝説を準えた寄る辺ない女性を救う合図。
無辜の乙女の新たな人生の門出を祝う祝福の鐘。
その事実を知るのは国王のみ。
ビノシュ嬢は、式典で噂が全て冤罪だと明らかにされたとしても、この国であの家族の下で生きて行く以上、この先の人生は明るいものではなかっただろう。
聖女として召されたと知らしめる事で、全ての冤罪と醜聞は払拭され、新しい人生へ踏み出したのだ。
しかし、結末は決まっていたとはいえ、甥の第三王子ヘンリーの采配は悪手だった。
ヘンリーは、マークスから見ても優秀で社交界の評判も良く、良好な関係を築いている婚約者の令嬢は、既に社交界の女性たちを取り纏める力量を発揮しつつあった。
ヘンリーが二十歳を迎えると同時に二人は婚姻を結ぶことが決まっており、それと同時に
ヘンリーを立太子させるつもりだったのだが、二人揃って社交界の噂に飲み込まれてしまった。
それほどまでに学園や社交界での噂が浸透しきっていたという事なのだ。
未来の姑とその周辺の策略により、婚約者本人は元より友人たちからも完全に孤立させられて醜聞や冤罪をばら撒かれていた。母親という露払いが居らず、父と兄に冷遇されていた少女には祈る以外どうする事も出来なかっただろう。
改めて、国王として無辜のビノシュ嬢の拠り所となり救ってくれた事には感謝している。
しかし、修道院長にそれを言った所で返される言葉はいつも同じだ。
『わたくしの復讐のついでよ。誰に感謝される事でもないわ』
◇◇◇
七年前のあの夜。
王都に響き渡った大鐘の音は、私の心に温かく灯った希望を打ち砕くものだった。
寄る辺ない無辜の乙女の清らかな祈りにのみ開かれる女神の扉。
その扉の向こうに召されたものは聖女と呼ばれこの世に戻ることはない。
大鐘の音と共に、私の最愛の女性はその扉を潜ってしまった。
大鐘の音が響く中、無我夢中で駆け込んだ礼拝堂の聖女像に、その名は既に刻まれていた。
ローザリア
真新しいその銘を手でなぞり、私はその場で慟哭した。
助け出せるはずだった。新しい人生に送り出せるはずだった。
私のこの手で彼女をその先の未来で幸せにするはずだった。
『必ず貴方の元へ』
そう約束したのだ。
叶わないとあきらめていた幸福な未来が、手が届く直前で無残に刈り取られてしまった。壮絶な喪失感に襲われると共に、彼女をここまで追い詰め、私の手から珠玉を奪った甥のブルーノとあの不貞女に対して、滾る様な憎悪が湧いて来た。
更に彼女が収監されていた地下牢を見て絶句した。
数年使われていなかった廃墟同然の地下牢。
こ奴らの為に口を開く価値もない。無言でそこへ放り込み、同じくそこで言葉も無く立ちすくんでいたルーファスを伴って地下牢を出た。
牢を出た所で、救出を命じた近衛と収監に立ち会った騎士と牢番が膝を付き、頭を地面に擦り付けていた。
それを見たルーファスが口を開いた。
「お前たちが姉を牢から出してくれたのか」
近衛は声を震わせながら奏上した。
「お救いする事が出来ず申し訳ございません。
あと一歩のところで衛士に見とがめられ、ローザリア様を城壁の外へお出ししてすぐに後を追ったのですが、お姿を見失うという取り返しのつかない失態を犯しました。私たち二人はどの様な処分も覚悟いたしております。
ただ、こちらの騎士たちと牢番には温情を。彼らはローザリア様のために、彼らに出来る限りの事をし、持ち場を離れる際に恐らくわざと錠を下ろす事をしませんでした。その為に即座に牢からお出しすることができたのです」
そう言って、近衛の一人がローザリアから渡された髪飾りを捧げるように差し出した。
マークスは差し出された髪飾りを受け取り、じっと見つめながら呟くように聞いた。
「私のブローチは、ローザリア嬢が持っているのか」
その言葉に、近衛が答えた。
「はい、お渡ししてからずっと、胸の前で握りしめていらっしゃいました」
髪飾りに目を落としたまま『そうか』と呟いたマークスは、跪いている者たちに告げた。
「皆、ご苦労だった。咎めはない」
そう言ってルーファスを執務室に招き入れ、即座に爵位継承の手続きを行った。
これでルーファスは存分に父親とその妻を処罰する事が出来る。
各貴族家の内政には王家であっても口出しは無用だが、必要があれば全て手配する事を約束して送り出した。
国王が帰還したのはそれから三日後の事だった。
地下牢から出されたブルーノとあの性悪女は、婚約者が聖女として召された事で、冤罪で陥れた罪状が明らかであるにも関わらず、謹慎というあり得ないほど甘い沙汰で離宮の一部屋で共に過ごしているようだ。
事の顛末は全て耳に入っているだろうしもちろん詳細な報告を挙げている。
にも拘わらず、何度面会を希望しても目通りが叶わず、関わった家の処分のみが次々と報告書として届けられた。
そして、およそ一カ月が過ぎた頃、ブルーノに沙汰が下される事が決まり、謁見室で国王が告げた内容に耳を疑った。
婚約者である侯爵令嬢が亡くなったにもかかわらず、それを無視するかのような甘すぎる沙汰だった。
壇上の私はもちろん、控えているリンデル侯爵とセントルー侯爵が歯を食いしばり、顔や首に血管が浮かび上がっているのが見て取れた。重鎮たちも頭を下げて頭を下げて目配せし合っている。
その重苦しい空気から逃れるように、国王はブルーノ・アッシュベル新伯爵とその夫人を伴って謁見室を後にした。
謁見後、憤りを鎮めるように、あの日以来日課にしている中央礼拝堂へ足を向けた。
いつも入り口で迎えてくれるシスターに案内されて聖女像の前に着くと、そこにはリンデル侯爵とセントルー侯爵、そしてロベール女子爵が待っていた。
礼を執った皆を直らせると、リンデル侯爵ルーファスがマークスに声を掛けた。
「マークス殿下、毎日姉の為に祈りを捧げて下さっていると聞きました。本当にありがとうございます」
ロベール女子爵は私のクラバットに輝くブローチに目を止め、目を潤ませている。
ローザリア嬢の髪飾りをブローチに仕立て直したものだ。
セントルー侯爵は、一歩前に進み出ると胸に手を当てて言った。
「私とリンデル侯爵は、マークス殿下のローザリアに対する数々のご恩情に報いるべく、妹のロベール子爵と共にマークス殿下のお力になる事を宣言致します。以降、何なりとお申しつけください。仮令どのような事であろうと必ずご希望に沿ってご覧に入れます」
そう力強く告げられ、助けられなかった事を詫びようとした時、ロベール女子爵に手を取られて止められた。
「マークス殿下が傍にいらして下さった事で、娘はどれほど心強かった事でしょう。聖女となり、ここを去ってもなおずっと殿下を見守り続けていると思います」
手を取ったまま聖女像の前に促され、私たちはローザリアの為に祈りを捧げた後、固い握手を交わして中央礼拝堂を後にした。
城に戻ると、宮中は上を下への大騒ぎだった。
兄の国王が倒れ、意識はあるものの声も出せず一指も動かせない状態だという。
急ぎ運び込まれた寝室に向かう途中、侍従から病状の説明を受ける。
呼びかけにもほとんど反応は無く、かろうじてまばたきだけはしているらしい。
部屋について寝台の側で話しかけてみるも、聞いていた状況と同じだった。
枕元に並んだ宮廷医師団に目を遣ると、静かに首を横に振られた。
つい先日戴冠式を終えた王妃アナベルは、生まれたばかりの第四王子のコーネリアスを抱いた乳母と、間もなく十二歳を迎える第三王子ヘンリーと共に部屋の中央に立ち、宰相に頷きかけた。
宰相は、兄の指から国王の証である玉璽の指輪を抜き取り、私の手に乗せると数歩後ずさりをした。
私が指輪を嵌めるのを見届けると、部屋に居並ぶ王妃をはじめ重鎮たちを含めた全員が一斉に最敬礼を執り、宰相が宣言した。
「これより、マークス国王陛下の御代にございます」
慌ただしく即位式を終えた次の日、日課となった中央礼拝堂に足を運んだ時、珍しく修道院長に呼び止められた。
修道院長の指には一羽の小鳥が止まって美しい鳴き声を披露している。
私は、指に小鳥を止めたまま軽く膝を折った修道院長に話しかけた。
「修道院長殿、珍しい小鳥だな。羽の色も珍しいが、鳴き声がひときわ美しい」
小鳥を愛おし気に眺めた修道院長は、笑顔を向けて話始めた。
「私ども中央礼拝堂の者は、国王陛下と特別な協力体制を敷いています。ご報告があるときは、この小鳥が執務室の窓辺に先触れに参ります。その時は、控室の壁の羽目板を模した扉を潜ってお越しください。そこで報告者がお待ちいたしております」
そう言うと私を祭壇の前に案内し、燭台の間に置かれた聖書に手を置いた。
「陛下から内密のご用向きの際は、こうしてこの聖書に手を置いてわたくしをお呼びください。シスターがお迎えに参ります」
密やかに告げられた内容に頷いた私を見て、修道院長はその場を辞したのだった。
それから程なく、執務室の窓辺に置いた水盤に集まる小鳥の中に、ひと際美しく囀るあの小鳥を見つけた。
執務室を出て、隣の控室の壁の前に立って良く見ると一部が羽目板になっている。
少し力を加えるとカタリと音を立てて隙間が出来た。
羽目板をずらして中に入ると、そこは立派なソファーセットが設えられた隠し部屋だった。
控室の入り口とは反対側にある扉の前で、一人の女性が最敬礼のカーテシーを執っている。
立ち上がり、まっすぐに向けられた煌めく黒曜石の瞳に、私は釘付けになった。
「まだお小さかったマークス陛下は、わたくしの事を覚えていらっしゃるかしら?」
ああ、もちろん覚えている。
年上の甥、元王太子エドワードの婚約者だった麗人。
紹介された時、子どもながらにこれほど美しい人は見たことがないと感歎したあの日の事は鮮烈な思い出だ。
十九年前、廃太子となったエドワードの不貞に心を痛め、結婚式を数日後に控えて儚くなってしまった王家の犠牲者であり、中央礼拝堂の聖女像に「イザベラ」とその名を刻まれている。
今なお輝くように美しく、この国ではほとんど見る事のない、見紛うことのないその見事な黒髪。
目の前に居るのはイザベラ・ファルマ公爵令嬢、その人だった。
国王になればこそこの事実を知る事が出来た。
心に灯った新たな希望の光。
私はあの日に彼女に告げた言葉を反芻する。
『必ず貴方の元へ』
七年ぶりに響き渡った鐘の音。
単調に4度鳴らされる大鐘の音は、聖女伝説を準えた寄る辺ない女性を救う合図。
無辜の乙女の新たな人生の門出を祝う祝福の鐘。
その事実を知るのは国王のみ。
ビノシュ嬢は、式典で噂が全て冤罪だと明らかにされたとしても、この国であの家族の下で生きて行く以上、この先の人生は明るいものではなかっただろう。
聖女として召されたと知らしめる事で、全ての冤罪と醜聞は払拭され、新しい人生へ踏み出したのだ。
しかし、結末は決まっていたとはいえ、甥の第三王子ヘンリーの采配は悪手だった。
ヘンリーは、マークスから見ても優秀で社交界の評判も良く、良好な関係を築いている婚約者の令嬢は、既に社交界の女性たちを取り纏める力量を発揮しつつあった。
ヘンリーが二十歳を迎えると同時に二人は婚姻を結ぶことが決まっており、それと同時に
ヘンリーを立太子させるつもりだったのだが、二人揃って社交界の噂に飲み込まれてしまった。
それほどまでに学園や社交界での噂が浸透しきっていたという事なのだ。
未来の姑とその周辺の策略により、婚約者本人は元より友人たちからも完全に孤立させられて醜聞や冤罪をばら撒かれていた。母親という露払いが居らず、父と兄に冷遇されていた少女には祈る以外どうする事も出来なかっただろう。
改めて、国王として無辜のビノシュ嬢の拠り所となり救ってくれた事には感謝している。
しかし、修道院長にそれを言った所で返される言葉はいつも同じだ。
『わたくしの復讐のついでよ。誰に感謝される事でもないわ』
◇◇◇
七年前のあの夜。
王都に響き渡った大鐘の音は、私の心に温かく灯った希望を打ち砕くものだった。
寄る辺ない無辜の乙女の清らかな祈りにのみ開かれる女神の扉。
その扉の向こうに召されたものは聖女と呼ばれこの世に戻ることはない。
大鐘の音と共に、私の最愛の女性はその扉を潜ってしまった。
大鐘の音が響く中、無我夢中で駆け込んだ礼拝堂の聖女像に、その名は既に刻まれていた。
ローザリア
真新しいその銘を手でなぞり、私はその場で慟哭した。
助け出せるはずだった。新しい人生に送り出せるはずだった。
私のこの手で彼女をその先の未来で幸せにするはずだった。
『必ず貴方の元へ』
そう約束したのだ。
叶わないとあきらめていた幸福な未来が、手が届く直前で無残に刈り取られてしまった。壮絶な喪失感に襲われると共に、彼女をここまで追い詰め、私の手から珠玉を奪った甥のブルーノとあの不貞女に対して、滾る様な憎悪が湧いて来た。
更に彼女が収監されていた地下牢を見て絶句した。
数年使われていなかった廃墟同然の地下牢。
こ奴らの為に口を開く価値もない。無言でそこへ放り込み、同じくそこで言葉も無く立ちすくんでいたルーファスを伴って地下牢を出た。
牢を出た所で、救出を命じた近衛と収監に立ち会った騎士と牢番が膝を付き、頭を地面に擦り付けていた。
それを見たルーファスが口を開いた。
「お前たちが姉を牢から出してくれたのか」
近衛は声を震わせながら奏上した。
「お救いする事が出来ず申し訳ございません。
あと一歩のところで衛士に見とがめられ、ローザリア様を城壁の外へお出ししてすぐに後を追ったのですが、お姿を見失うという取り返しのつかない失態を犯しました。私たち二人はどの様な処分も覚悟いたしております。
ただ、こちらの騎士たちと牢番には温情を。彼らはローザリア様のために、彼らに出来る限りの事をし、持ち場を離れる際に恐らくわざと錠を下ろす事をしませんでした。その為に即座に牢からお出しすることができたのです」
そう言って、近衛の一人がローザリアから渡された髪飾りを捧げるように差し出した。
マークスは差し出された髪飾りを受け取り、じっと見つめながら呟くように聞いた。
「私のブローチは、ローザリア嬢が持っているのか」
その言葉に、近衛が答えた。
「はい、お渡ししてからずっと、胸の前で握りしめていらっしゃいました」
髪飾りに目を落としたまま『そうか』と呟いたマークスは、跪いている者たちに告げた。
「皆、ご苦労だった。咎めはない」
そう言ってルーファスを執務室に招き入れ、即座に爵位継承の手続きを行った。
これでルーファスは存分に父親とその妻を処罰する事が出来る。
各貴族家の内政には王家であっても口出しは無用だが、必要があれば全て手配する事を約束して送り出した。
国王が帰還したのはそれから三日後の事だった。
地下牢から出されたブルーノとあの性悪女は、婚約者が聖女として召された事で、冤罪で陥れた罪状が明らかであるにも関わらず、謹慎というあり得ないほど甘い沙汰で離宮の一部屋で共に過ごしているようだ。
事の顛末は全て耳に入っているだろうしもちろん詳細な報告を挙げている。
にも拘わらず、何度面会を希望しても目通りが叶わず、関わった家の処分のみが次々と報告書として届けられた。
そして、およそ一カ月が過ぎた頃、ブルーノに沙汰が下される事が決まり、謁見室で国王が告げた内容に耳を疑った。
婚約者である侯爵令嬢が亡くなったにもかかわらず、それを無視するかのような甘すぎる沙汰だった。
壇上の私はもちろん、控えているリンデル侯爵とセントルー侯爵が歯を食いしばり、顔や首に血管が浮かび上がっているのが見て取れた。重鎮たちも頭を下げて頭を下げて目配せし合っている。
その重苦しい空気から逃れるように、国王はブルーノ・アッシュベル新伯爵とその夫人を伴って謁見室を後にした。
謁見後、憤りを鎮めるように、あの日以来日課にしている中央礼拝堂へ足を向けた。
いつも入り口で迎えてくれるシスターに案内されて聖女像の前に着くと、そこにはリンデル侯爵とセントルー侯爵、そしてロベール女子爵が待っていた。
礼を執った皆を直らせると、リンデル侯爵ルーファスがマークスに声を掛けた。
「マークス殿下、毎日姉の為に祈りを捧げて下さっていると聞きました。本当にありがとうございます」
ロベール女子爵は私のクラバットに輝くブローチに目を止め、目を潤ませている。
ローザリア嬢の髪飾りをブローチに仕立て直したものだ。
セントルー侯爵は、一歩前に進み出ると胸に手を当てて言った。
「私とリンデル侯爵は、マークス殿下のローザリアに対する数々のご恩情に報いるべく、妹のロベール子爵と共にマークス殿下のお力になる事を宣言致します。以降、何なりとお申しつけください。仮令どのような事であろうと必ずご希望に沿ってご覧に入れます」
そう力強く告げられ、助けられなかった事を詫びようとした時、ロベール女子爵に手を取られて止められた。
「マークス殿下が傍にいらして下さった事で、娘はどれほど心強かった事でしょう。聖女となり、ここを去ってもなおずっと殿下を見守り続けていると思います」
手を取ったまま聖女像の前に促され、私たちはローザリアの為に祈りを捧げた後、固い握手を交わして中央礼拝堂を後にした。
城に戻ると、宮中は上を下への大騒ぎだった。
兄の国王が倒れ、意識はあるものの声も出せず一指も動かせない状態だという。
急ぎ運び込まれた寝室に向かう途中、侍従から病状の説明を受ける。
呼びかけにもほとんど反応は無く、かろうじてまばたきだけはしているらしい。
部屋について寝台の側で話しかけてみるも、聞いていた状況と同じだった。
枕元に並んだ宮廷医師団に目を遣ると、静かに首を横に振られた。
つい先日戴冠式を終えた王妃アナベルは、生まれたばかりの第四王子のコーネリアスを抱いた乳母と、間もなく十二歳を迎える第三王子ヘンリーと共に部屋の中央に立ち、宰相に頷きかけた。
宰相は、兄の指から国王の証である玉璽の指輪を抜き取り、私の手に乗せると数歩後ずさりをした。
私が指輪を嵌めるのを見届けると、部屋に居並ぶ王妃をはじめ重鎮たちを含めた全員が一斉に最敬礼を執り、宰相が宣言した。
「これより、マークス国王陛下の御代にございます」
慌ただしく即位式を終えた次の日、日課となった中央礼拝堂に足を運んだ時、珍しく修道院長に呼び止められた。
修道院長の指には一羽の小鳥が止まって美しい鳴き声を披露している。
私は、指に小鳥を止めたまま軽く膝を折った修道院長に話しかけた。
「修道院長殿、珍しい小鳥だな。羽の色も珍しいが、鳴き声がひときわ美しい」
小鳥を愛おし気に眺めた修道院長は、笑顔を向けて話始めた。
「私ども中央礼拝堂の者は、国王陛下と特別な協力体制を敷いています。ご報告があるときは、この小鳥が執務室の窓辺に先触れに参ります。その時は、控室の壁の羽目板を模した扉を潜ってお越しください。そこで報告者がお待ちいたしております」
そう言うと私を祭壇の前に案内し、燭台の間に置かれた聖書に手を置いた。
「陛下から内密のご用向きの際は、こうしてこの聖書に手を置いてわたくしをお呼びください。シスターがお迎えに参ります」
密やかに告げられた内容に頷いた私を見て、修道院長はその場を辞したのだった。
それから程なく、執務室の窓辺に置いた水盤に集まる小鳥の中に、ひと際美しく囀るあの小鳥を見つけた。
執務室を出て、隣の控室の壁の前に立って良く見ると一部が羽目板になっている。
少し力を加えるとカタリと音を立てて隙間が出来た。
羽目板をずらして中に入ると、そこは立派なソファーセットが設えられた隠し部屋だった。
控室の入り口とは反対側にある扉の前で、一人の女性が最敬礼のカーテシーを執っている。
立ち上がり、まっすぐに向けられた煌めく黒曜石の瞳に、私は釘付けになった。
「まだお小さかったマークス陛下は、わたくしの事を覚えていらっしゃるかしら?」
ああ、もちろん覚えている。
年上の甥、元王太子エドワードの婚約者だった麗人。
紹介された時、子どもながらにこれほど美しい人は見たことがないと感歎したあの日の事は鮮烈な思い出だ。
十九年前、廃太子となったエドワードの不貞に心を痛め、結婚式を数日後に控えて儚くなってしまった王家の犠牲者であり、中央礼拝堂の聖女像に「イザベラ」とその名を刻まれている。
今なお輝くように美しく、この国ではほとんど見る事のない、見紛うことのないその見事な黒髪。
目の前に居るのはイザベラ・ファルマ公爵令嬢、その人だった。
国王になればこそこの事実を知る事が出来た。
心に灯った新たな希望の光。
私はあの日に彼女に告げた言葉を反芻する。
『必ず貴方の元へ』



