制服少女とサラリーマンは 一つ屋根がタイムマシン

 上下とも、白い体操服の龍輝(りゅうき)少年。半そでシャツと短パン。
 校庭のトラックの途中で、呆然とたたずんでいる。大きなカードも、だらりと下げたままだ。

 龍輝以外の、紺色の短パンたちが、あちこちへ散ってゆく。
 一緒にスタートした他の五人が、先にコースから出たわけである。それぞれの「お題」に当てはまる観客――「()(もの)」――を、口々に探し始めたのだ。
「ヒゲを生やしてる方、いませんかー?」
「そこのメガネの子、来て、来て!」
「黄色い水筒、水筒! 黄色!」
 低い声も、かん高い声もいる。

 立ち尽くす龍輝へは、野次が飛ぶ。
 一応、皆、優しめではあるものの、とがめたり、冷やかしたりする口調だ。
「おい、あの子、動かないよ」
「どうした!」
「何やってんの」
「早くしろ!」
 嫌な空気が、出来上がっていく。
(うわーっ)
 恵萌(めぐも)も、中腰になったところで、三秒ほど、動きが止まってしまう。
 近くに座る家族連れの、父親らしき若い男性が、
「とりあえず、カード見せて!」
 見かねたのか、助け船を出す。
 聞こえているはずだが、龍輝は、中途半端な姿勢で、カードを両手に持ったまま、きょろきょろするのみ。
 心、ここにあらずだ。
 カードの内容も、周囲からは読めない。

「しっかりしろよ馬鹿たれ! だらしねえ。おめえ、男だろォ!」
 恵萌の左に立つ初老の男が、ギャハギャハ笑いながら、だみ声で(あざけ)る。シワだらけの目もとが、テカテカと赤らんでいる。明らかに、酔っぱらいだ。
 周囲から、困惑した笑いが起こる。半分は、酔っぱらいへの嫌悪感。
 だが、残念なことに――。
 もう半分は、この酔っぱらいへ加担し、一緒にからかっているような雰囲気であった。たしなめる者もいない。

(わあー、ひどいな。男とか、そんなの関係ないじゃん! しょうがないのかな? 時代が違うのか……)
 パワハラとか、モンスターペアレントなんて言葉は、まだない。メンタルヘルスという概念も、さほど広まってはいなかっただろう。

 平成の終盤や、令和には、どちらかといえば、繊細な人たちには優しく接しましょう、という暗黙の了解はあったはずだ。
 少なくとも、実社会で、目の前で困っている少年少女を、あからさまに馬鹿にする風潮はなかった。
 もし、そんなことをすれば、むしろ、やった方がバッシングされかねなかった。
 何せ、中高年の上司が、若手の社員を厳しく(しか)ることすら、ためらわれたのだ。

 しかしながら、ここ、1994年は違う。
 むしろ、根性論の方が、(はば)()かせていたのではないか。良く言えば、細かいことを気にしない時代だったのかもしれないけれど――。

 笑われ、(ののし)られたのが、よほどショックだったのだろう。
 ついに、龍輝は、手でカードを支えることすら出来なくなり、ぽとりと落としてしまう。どうやら、カードは、裏返しで地面に落ちたようだ。
 さすがに、その場の客たちは、気まずそうに絶句する。
「う……」
「その……」
「あっ……」
「えっと……」
 目をそむけたり、せき払いをしたり。

 横目で、
(ケッ、今さら、何、いい人ぶってるんだよ、あんたら)
 軽蔑(けいべつ)する恵萌だったが、
(――ヤバっ!)
 前へ向き直って、焦る。それどころではなかったからだ。
 龍輝の(ひざ)の力が、ガクッと抜けて、体が左右に揺れていたのだ。
 うつむいた顔も、ゆがみ始めている。まさに、このあと、「泣き出す」のだろう。未来の龍輝が、話してくれたように。
「――」
 泣き出す寸前の今こそ、本当に、最後のチャンスであった。もし、泣き始めたら、しばらく回復できず、とても()(もの)競走どころではないだろうから。

「――ッ!」
 考えるより先に、体が――
 いや、それでも、意志の方が先だったか。
「……」
 つま先立ちで、レジャーシートの隙間(すきま)を、早歩き。
 ガタン!
 誰かの水筒を()り倒してしまうが、「済みません」と、おざなりに会釈し、さっさと前進。
 ひもをまたぐ。スカートの(すそ)を引っ掛けたが、なでるように、後部を片手でスルリと押さえて、向こう側へトッと下りる。

 ヒューッ、と、背後で下品な口笛が聞こえた。例の酔っぱらい老人だと思われる。
 今、スカートの中が見えちゃったのかもしれない。だが、どうでもいい。どうせ、下はオーバーパンツを()いている。
 というか、それどころじゃない。

 そばへ寄る。
「龍輝!」
 呼んだ。
 下を向いていた龍輝少年の、肩がビクッと跳ねて、こちらへ首を回す。
 龍輝の驚いた顔と、目が合った。

 恵萌を見た途端、龍輝の表情がぱっと明るくなる。
 しゃがみかけて、曲げていた(ひざ)が、途中で止まる。
 膝を伸ばして、スックと立つ。文字どおり、まさに、「立ち直った」のだ。
(おっと……)
 やはり、龍輝は身長が高めだ。急に見下ろされ、恵萌は少し、身構える。
(大人になった現代と、同じ高さだな。中学二年生といえば、男の子も、成長期は終わってるのかな)
 体型も、現代より少々やせている程度。余り変わっていない。

 体操服シャツの前部に、「滝倉」という名札が()い付けられていた。龍輝の名字である。
 恵萌はホッとした。最後の答え合わせも出来た。

 もはや、名札など「ダメ押し」同然で、見るまでもなかったが。
 体臭……とはちょっと違うけれど、目の前に立った時の印象、気配が、いつもと同じであったから。
(ハハッ、大して違和感ないや。龍輝だなあ)
 手の上げ下げ、眼球の動かし方など、たった数秒でも、龍輝らしい特徴は見つかる。たとえ少年でも、中身は同一人物なのであった。

 あどけない龍輝の顔は、戸惑いとうれしさの中間だった。
 戸惑いの理由は、見知らぬ女の子が急に寄ってきたから。

 そして、うれしさの理由――こちらは、説明不要だろう。
 もちろん、借り物競走の「お題」カードに一致する人物が、来てくれたから。

 恵萌は、その場でしゃがむ。
 未来の龍輝から忠告されたとおり、「恥じらい」を忘れず、両ひざを斜めの角度で曲げて、スカートの中が見えないようにした。
 裏返しに落ちているカードを、恵萌が拾う。中身は知っているけれど、念のため確認したら、未来の龍輝が話してくれたとおり、「他校の女子生徒」と書いてあった。

 恵萌は、大きなカードを両手で持って、龍輝に見せつつ、
「ほら、『他校の女子生徒』だよ」
「うん」
 反射的という感じではあったが、こくんと龍輝がうなずく。
 龍輝の鼻から一筋、鼻水が垂れて、(あわ)てたように、シャツの半そでで()いている。

 この学校、立遠(りっとお)第二中学校の制服とは違う、別のセーラー服を着た女の子。
 カードの条件を満たすことは、一目(いちもく)瞭然(りょうぜん)であった。

 恵萌は、後ろも振り向いて、一応、コースわきの観客たちにも、カードを見せた。
「おおー!」
「いたよ!」
「お題、それだったのかよ」
「ひどいお題だなあオイ!」
「よかったよかった」
 安堵(あんど)の歓声とため息、それから、拍手が起きた。

「――ってことで、じゃあ、行くよ!」
 恵萌は、左腕を伸ばして、龍輝の右手をグイッとつかんで引っ張る。
「わわっ!」
 龍輝の体が、恵萌から見て左へ傾く。
 けれど、即、体勢を立て直して、一緒に駆け出してくれた。
 いろいろ疑問などがあっても、今やるべきことは、ゴールまで走る、それだけだ。この認識は、とりあえず共有できたようだ。

 恵萌は、グラウンドを走りつつ、握った龍輝の手に、ギュッと力を込める。
 すると、
「えっ」
 左耳に、龍輝の驚く声が聞こえ、つないだ手もビクンと震えた。
「?」
 振り返る余裕はなかったが、どうやら、女の子と手をつないで、戸惑っているらしい。
 とはいえ、二人の息はぴったりだ。
 恵萌は既に、未来の龍輝と、何度もタイムワープをしている。過去の「旅先」では、軽いピンチも経験しており、手をつないで走って逃げたこともある。だから、龍輝の走り方や、速度は、体感として覚えているのだ。幸い、中学時代でも、そのリズムは同じであった。

 トラック右側の声援が風に溶けて、後方へ抜けてゆく。
 あいた右腕に、お題のカードを抱えたまま、伸ばした左腕で龍輝少年を引っ張り、恵萌はまっすぐ走ってゆく。

 取り残されていた。
 グラウンドのコースには、既に誰もおらず、ゴールまでの一直線を、走っているのは恵萌たち二人のみ。
 当然と言おうか、一緒にスタートした他の選手は、とっくに走り終えた後だったから。

 それでも、龍輝・恵萌ペアは、優しい声援を受け、笑顔に出迎えられながら走った。
 途中で、龍輝がハプニングに()った場面を、みんなも見ていたからであろう。
 あるいは、絵的に、「セーラー服の女の子に、手を引かれる体操服の少年」という構図が、面白かったのかもしれない。

 かかとが、ソックスに滑って、右足の靴が後ろへ飛びそうになる。もともと、走るには適さないシューズなので、仕方ないけれど。
(おっと、ととと……。ローファー脱げそう)
 つま先で土を蹴り、何とか、脱げないように踏ん張れた。

 ラインパウダーで横に引かれた、太い白線。そこがゴールであった。
 しかし、その線を踏む寸前、

 パァンッ!

 無情にも、号砲が鳴らされた。
(ゲッ、失格だ!)
 ゴール付近に立つ男子生徒が、右腕を上げ、黒いスターターピストルを撃ったのだ。肩の近くに、腕章を付けている。
 体育祭の実行委員だ。左手には、ストップウォッチ。
 先ほどのアナウンスのとおり、()(もの)競走の制限時間は、一分である。

 いずれにせよ、ゴールラインをちゃんと踏んでから、走りをやめた。
(よオォし! 完走ッ!)
 つないでいた手を離す。
「んんッ!」
 (はじ)けるように、二人はそれぞれ、左右へ離散する。
 急には止まれず、勢い余って、五メートルぐらい先まで、つんのめる。

 止まった龍輝は、(ひざ)に両手を当てて、前かがみ。そのまま、よろよろと座り込む。
 一方の恵萌は、「借り物」として途中から参加したので、少ししか走っていない。だから、疲れてはいても、立っていられた。
 ひたいを、手首で横にグーッとこすったら、前髪が、汗ごと斜めに、指に(から)んできた。
 首の汗も、ひどい。周囲に、セーラー服のカラーが巻きついているので、()れるのだ。

 別の実行委員女子が、恵萌へ片手を伸ばしつつ、
「御協力ありがとうございましたー。残念ながら、時間切れでしたけど」
 ちらと、ブルマーを()いた脚に視線が行く。女同士でも、脚がむき出しというのは、やはり、ちょっと目を引く。
 差し出された手は、カードの回収という意味だ。

 恵萌は、ただではカードを返さない。嫌味の一つも、言ってやらねば気が済まない。当然だ。
 大きなカードをわざと持ち上げ、体を左右に回し、その実行委員と、周囲の人たちにも見せつけ、
「何これ、『他校の女子生徒』って。ひどくね? 中学の体育祭に、ひと目で分かる他校生なんて、滅多に来ないと思うんですけど。今回、たまたま、私がいたけどさ!」
 カードを受け取りながら、実行委員は苦笑して、
「えっ……。ま、まあ、でも、結果的には、オ、オーライだったんで、はあ」
 少しばかり困惑、いや、怖がっている。
 龍輝本人ならともかく、部外者が詰め寄ってきたのが、想定外だったようだ。

(なーにが結果オーライだよ! 龍輝はずっとトラウマになってて、大人になった今でも、忘れられずにいるのに。私は、それをちょっとでも(やわ)らげたくて、わざわざ、遠い未来から来たんだよっ!)
 叫び出したかったが、グッと飲み込む。

 だが、飲み込んだその怒りに対しては、後ろから、
「……どっ、どうもあ、りが……とう。助かりま、した」
 という一言が、しっかり受け止めてくれた。
 驚いて振り向くと、龍輝であった。
 いつの間にか立ち上がっていて、すぐそばまで寄ってきていたのだ。
 自分の顔は自分では見えないけれど、恐らくは、今の恵萌よりもずっと、汗だくの顔面。
 さっきは精神的にも疲れたのか、やつれて、龍輝の細い目はくぼんでいた。

 しかし、眼光はまっすぐに恵萌を射抜いて来たし、口もとには、はっきりと笑みが浮かんでいる。
 その口を、再び開いて、
「おかげで、一応、ゴ、ールは出来たから。ありがとう。あなたの、おかげです」
「――」
 ぜいぜいと、まだ龍輝の呼吸は荒く、せりふも、途切れ途切れだ。

 でも、龍輝の声は意外に大きかった。その場にいた生徒四、五人が、全員黙ったほどだったから。低くて太い、まさに男子の声である。
 何か言いたそうな表情だったのに、皆、それを改めて、とりあえずは真顔になった。