上下とも、白い体操服の龍輝少年。半そでシャツと短パン。
校庭のトラックの途中で、呆然とたたずんでいる。大きなカードも、だらりと下げたままだ。
龍輝以外の、紺色の短パンたちが、あちこちへ散ってゆく。
一緒にスタートした他の五人が、先にコースから出たわけである。それぞれの「お題」に当てはまる観客――「借り物」――を、口々に探し始めたのだ。
「ヒゲを生やしてる方、いませんかー?」
「そこのメガネの子、来て、来て!」
「黄色い水筒、水筒! 黄色!」
低い声も、かん高い声もいる。
立ち尽くす龍輝へは、野次が飛ぶ。
一応、皆、優しめではあるものの、とがめたり、冷やかしたりする口調だ。
「おい、あの子、動かないよ」
「どうした!」
「何やってんの」
「早くしろ!」
嫌な空気が、出来上がっていく。
(うわーっ)
恵萌も、中腰になったところで、三秒ほど、動きが止まってしまう。
近くに座る家族連れの、父親らしき若い男性が、
「とりあえず、カード見せて!」
見かねたのか、助け船を出す。
聞こえているはずだが、龍輝は、中途半端な姿勢で、カードを両手に持ったまま、きょろきょろするのみ。
心、ここにあらずだ。
カードの内容も、周囲からは読めない。
「しっかりしろよ馬鹿たれ! だらしねえ。おめえ、男だろォ!」
恵萌の左に立つ初老の男が、ギャハギャハ笑いながら、だみ声で嘲る。シワだらけの目もとが、テカテカと赤らんでいる。明らかに、酔っぱらいだ。
周囲から、困惑した笑いが起こる。半分は、酔っぱらいへの嫌悪感。
だが、残念なことに――。
もう半分は、この酔っぱらいへ加担し、一緒にからかっているような雰囲気であった。たしなめる者もいない。
(わあー、ひどいな。男とか、そんなの関係ないじゃん! しょうがないのかな? 時代が違うのか……)
パワハラとか、モンスターペアレントなんて言葉は、まだない。メンタルヘルスという概念も、さほど広まってはいなかっただろう。
平成の終盤や、令和には、どちらかといえば、繊細な人たちには優しく接しましょう、という暗黙の了解はあったはずだ。
少なくとも、実社会で、目の前で困っている少年少女を、あからさまに馬鹿にする風潮はなかった。
もし、そんなことをすれば、むしろ、やった方がバッシングされかねなかった。
何せ、中高年の上司が、若手の社員を厳しく叱ることすら、ためらわれたのだ。
しかしながら、ここ、1994年は違う。
むしろ、根性論の方が、幅を利かせていたのではないか。良く言えば、細かいことを気にしない時代だったのかもしれないけれど――。
笑われ、罵られたのが、よほどショックだったのだろう。
ついに、龍輝は、手でカードを支えることすら出来なくなり、ぽとりと落としてしまう。どうやら、カードは、裏返しで地面に落ちたようだ。
さすがに、その場の客たちは、気まずそうに絶句する。
「う……」
「その……」
「あっ……」
「えっと……」
目をそむけたり、せき払いをしたり。
横目で、
(ケッ、今さら、何、いい人ぶってるんだよ、あんたら)
軽蔑する恵萌だったが、
(――ヤバっ!)
前へ向き直って、焦る。それどころではなかったからだ。
龍輝の膝の力が、ガクッと抜けて、体が左右に揺れていたのだ。
うつむいた顔も、ゆがみ始めている。まさに、このあと、「泣き出す」のだろう。未来の龍輝が、話してくれたように。
「――」
泣き出す寸前の今こそ、本当に、最後のチャンスであった。もし、泣き始めたら、しばらく回復できず、とても借り物競走どころではないだろうから。
「――ッ!」
考えるより先に、体が――
いや、それでも、意志の方が先だったか。
「……」
つま先立ちで、レジャーシートの隙間を、早歩き。
ガタン!
誰かの水筒を蹴り倒してしまうが、「済みません」と、おざなりに会釈し、さっさと前進。
ひもをまたぐ。スカートの裾を引っ掛けたが、なでるように、後部を片手でスルリと押さえて、向こう側へトッと下りる。
ヒューッ、と、背後で下品な口笛が聞こえた。例の酔っぱらい老人だと思われる。
今、スカートの中が見えちゃったのかもしれない。だが、どうでもいい。どうせ、下はオーバーパンツを履いている。
というか、それどころじゃない。
そばへ寄る。
「龍輝!」
呼んだ。
下を向いていた龍輝少年の、肩がビクッと跳ねて、こちらへ首を回す。
龍輝の驚いた顔と、目が合った。
恵萌を見た途端、龍輝の表情がぱっと明るくなる。
しゃがみかけて、曲げていた膝が、途中で止まる。
膝を伸ばして、スックと立つ。文字どおり、まさに、「立ち直った」のだ。
(おっと……)
やはり、龍輝は身長が高めだ。急に見下ろされ、恵萌は少し、身構える。
(大人になった現代と、同じ高さだな。中学二年生といえば、男の子も、成長期は終わってるのかな)
体型も、現代より少々やせている程度。余り変わっていない。
体操服シャツの前部に、「滝倉」という名札が縫い付けられていた。龍輝の名字である。
恵萌はホッとした。最後の答え合わせも出来た。
もはや、名札など「ダメ押し」同然で、見るまでもなかったが。
体臭……とはちょっと違うけれど、目の前に立った時の印象、気配が、いつもと同じであったから。
(ハハッ、大して違和感ないや。龍輝だなあ)
手の上げ下げ、眼球の動かし方など、たった数秒でも、龍輝らしい特徴は見つかる。たとえ少年でも、中身は同一人物なのであった。
あどけない龍輝の顔は、戸惑いとうれしさの中間だった。
戸惑いの理由は、見知らぬ女の子が急に寄ってきたから。
そして、うれしさの理由――こちらは、説明不要だろう。
もちろん、借り物競走の「お題」カードに一致する人物が、来てくれたから。
恵萌は、その場でしゃがむ。
未来の龍輝から忠告されたとおり、「恥じらい」を忘れず、両ひざを斜めの角度で曲げて、スカートの中が見えないようにした。
裏返しに落ちているカードを、恵萌が拾う。中身は知っているけれど、念のため確認したら、未来の龍輝が話してくれたとおり、「他校の女子生徒」と書いてあった。
恵萌は、大きなカードを両手で持って、龍輝に見せつつ、
「ほら、『他校の女子生徒』だよ」
「うん」
反射的という感じではあったが、こくんと龍輝がうなずく。
龍輝の鼻から一筋、鼻水が垂れて、慌てたように、シャツの半そでで拭いている。
この学校、立遠第二中学校の制服とは違う、別のセーラー服を着た女の子。
カードの条件を満たすことは、一目瞭然であった。
恵萌は、後ろも振り向いて、一応、コースわきの観客たちにも、カードを見せた。
「おおー!」
「いたよ!」
「お題、それだったのかよ」
「ひどいお題だなあオイ!」
「よかったよかった」
安堵の歓声とため息、それから、拍手が起きた。
「――ってことで、じゃあ、行くよ!」
恵萌は、左腕を伸ばして、龍輝の右手をグイッとつかんで引っ張る。
「わわっ!」
龍輝の体が、恵萌から見て左へ傾く。
けれど、即、体勢を立て直して、一緒に駆け出してくれた。
いろいろ疑問などがあっても、今やるべきことは、ゴールまで走る、それだけだ。この認識は、とりあえず共有できたようだ。
恵萌は、グラウンドを走りつつ、握った龍輝の手に、ギュッと力を込める。
すると、
「えっ」
左耳に、龍輝の驚く声が聞こえ、つないだ手もビクンと震えた。
「?」
振り返る余裕はなかったが、どうやら、女の子と手をつないで、戸惑っているらしい。
とはいえ、二人の息はぴったりだ。
恵萌は既に、未来の龍輝と、何度もタイムワープをしている。過去の「旅先」では、軽いピンチも経験しており、手をつないで走って逃げたこともある。だから、龍輝の走り方や、速度は、体感として覚えているのだ。幸い、中学時代でも、そのリズムは同じであった。
トラック右側の声援が風に溶けて、後方へ抜けてゆく。
あいた右腕に、お題のカードを抱えたまま、伸ばした左腕で龍輝少年を引っ張り、恵萌はまっすぐ走ってゆく。
取り残されていた。
グラウンドのコースには、既に誰もおらず、ゴールまでの一直線を、走っているのは恵萌たち二人のみ。
当然と言おうか、一緒にスタートした他の選手は、とっくに走り終えた後だったから。
それでも、龍輝・恵萌ペアは、優しい声援を受け、笑顔に出迎えられながら走った。
途中で、龍輝がハプニングに遭った場面を、みんなも見ていたからであろう。
あるいは、絵的に、「セーラー服の女の子に、手を引かれる体操服の少年」という構図が、面白かったのかもしれない。
かかとが、ソックスに滑って、右足の靴が後ろへ飛びそうになる。もともと、走るには適さないシューズなので、仕方ないけれど。
(おっと、ととと……。ローファー脱げそう)
つま先で土を蹴り、何とか、脱げないように踏ん張れた。
ラインパウダーで横に引かれた、太い白線。そこがゴールであった。
しかし、その線を踏む寸前、
パァンッ!
無情にも、号砲が鳴らされた。
(ゲッ、失格だ!)
ゴール付近に立つ男子生徒が、右腕を上げ、黒いスターターピストルを撃ったのだ。肩の近くに、腕章を付けている。
体育祭の実行委員だ。左手には、ストップウォッチ。
先ほどのアナウンスのとおり、借り物競走の制限時間は、一分である。
いずれにせよ、ゴールラインをちゃんと踏んでから、走りをやめた。
(よオォし! 完走ッ!)
つないでいた手を離す。
「んんッ!」
弾けるように、二人はそれぞれ、左右へ離散する。
急には止まれず、勢い余って、五メートルぐらい先まで、つんのめる。
止まった龍輝は、膝に両手を当てて、前かがみ。そのまま、よろよろと座り込む。
一方の恵萌は、「借り物」として途中から参加したので、少ししか走っていない。だから、疲れてはいても、立っていられた。
ひたいを、手首で横にグーッとこすったら、前髪が、汗ごと斜めに、指に絡んできた。
首の汗も、ひどい。周囲に、セーラー服のカラーが巻きついているので、蒸れるのだ。
別の実行委員女子が、恵萌へ片手を伸ばしつつ、
「御協力ありがとうございましたー。残念ながら、時間切れでしたけど」
ちらと、ブルマーを履いた脚に視線が行く。女同士でも、脚がむき出しというのは、やはり、ちょっと目を引く。
差し出された手は、カードの回収という意味だ。
恵萌は、ただではカードを返さない。嫌味の一つも、言ってやらねば気が済まない。当然だ。
大きなカードをわざと持ち上げ、体を左右に回し、その実行委員と、周囲の人たちにも見せつけ、
「何これ、『他校の女子生徒』って。ひどくね? 中学の体育祭に、ひと目で分かる他校生なんて、滅多に来ないと思うんですけど。今回、たまたま、私がいたけどさ!」
カードを受け取りながら、実行委員は苦笑して、
「えっ……。ま、まあ、でも、結果的には、オ、オーライだったんで、はあ」
少しばかり困惑、いや、怖がっている。
龍輝本人ならともかく、部外者が詰め寄ってきたのが、想定外だったようだ。
(なーにが結果オーライだよ! 龍輝はずっとトラウマになってて、大人になった今でも、忘れられずにいるのに。私は、それをちょっとでも和らげたくて、わざわざ、遠い未来から来たんだよっ!)
叫び出したかったが、グッと飲み込む。
だが、飲み込んだその怒りに対しては、後ろから、
「……どっ、どうもあ、りが……とう。助かりま、した」
という一言が、しっかり受け止めてくれた。
驚いて振り向くと、龍輝であった。
いつの間にか立ち上がっていて、すぐそばまで寄ってきていたのだ。
自分の顔は自分では見えないけれど、恐らくは、今の恵萌よりもずっと、汗だくの顔面。
さっきは精神的にも疲れたのか、やつれて、龍輝の細い目はくぼんでいた。
しかし、眼光はまっすぐに恵萌を射抜いて来たし、口もとには、はっきりと笑みが浮かんでいる。
その口を、再び開いて、
「おかげで、一応、ゴ、ールは出来たから。ありがとう。あなたの、おかげです」
「――」
ぜいぜいと、まだ龍輝の呼吸は荒く、せりふも、途切れ途切れだ。
でも、龍輝の声は意外に大きかった。その場にいた生徒四、五人が、全員黙ったほどだったから。低くて太い、まさに男子の声である。
何か言いたそうな表情だったのに、皆、それを改めて、とりあえずは真顔になった。
校庭のトラックの途中で、呆然とたたずんでいる。大きなカードも、だらりと下げたままだ。
龍輝以外の、紺色の短パンたちが、あちこちへ散ってゆく。
一緒にスタートした他の五人が、先にコースから出たわけである。それぞれの「お題」に当てはまる観客――「借り物」――を、口々に探し始めたのだ。
「ヒゲを生やしてる方、いませんかー?」
「そこのメガネの子、来て、来て!」
「黄色い水筒、水筒! 黄色!」
低い声も、かん高い声もいる。
立ち尽くす龍輝へは、野次が飛ぶ。
一応、皆、優しめではあるものの、とがめたり、冷やかしたりする口調だ。
「おい、あの子、動かないよ」
「どうした!」
「何やってんの」
「早くしろ!」
嫌な空気が、出来上がっていく。
(うわーっ)
恵萌も、中腰になったところで、三秒ほど、動きが止まってしまう。
近くに座る家族連れの、父親らしき若い男性が、
「とりあえず、カード見せて!」
見かねたのか、助け船を出す。
聞こえているはずだが、龍輝は、中途半端な姿勢で、カードを両手に持ったまま、きょろきょろするのみ。
心、ここにあらずだ。
カードの内容も、周囲からは読めない。
「しっかりしろよ馬鹿たれ! だらしねえ。おめえ、男だろォ!」
恵萌の左に立つ初老の男が、ギャハギャハ笑いながら、だみ声で嘲る。シワだらけの目もとが、テカテカと赤らんでいる。明らかに、酔っぱらいだ。
周囲から、困惑した笑いが起こる。半分は、酔っぱらいへの嫌悪感。
だが、残念なことに――。
もう半分は、この酔っぱらいへ加担し、一緒にからかっているような雰囲気であった。たしなめる者もいない。
(わあー、ひどいな。男とか、そんなの関係ないじゃん! しょうがないのかな? 時代が違うのか……)
パワハラとか、モンスターペアレントなんて言葉は、まだない。メンタルヘルスという概念も、さほど広まってはいなかっただろう。
平成の終盤や、令和には、どちらかといえば、繊細な人たちには優しく接しましょう、という暗黙の了解はあったはずだ。
少なくとも、実社会で、目の前で困っている少年少女を、あからさまに馬鹿にする風潮はなかった。
もし、そんなことをすれば、むしろ、やった方がバッシングされかねなかった。
何せ、中高年の上司が、若手の社員を厳しく叱ることすら、ためらわれたのだ。
しかしながら、ここ、1994年は違う。
むしろ、根性論の方が、幅を利かせていたのではないか。良く言えば、細かいことを気にしない時代だったのかもしれないけれど――。
笑われ、罵られたのが、よほどショックだったのだろう。
ついに、龍輝は、手でカードを支えることすら出来なくなり、ぽとりと落としてしまう。どうやら、カードは、裏返しで地面に落ちたようだ。
さすがに、その場の客たちは、気まずそうに絶句する。
「う……」
「その……」
「あっ……」
「えっと……」
目をそむけたり、せき払いをしたり。
横目で、
(ケッ、今さら、何、いい人ぶってるんだよ、あんたら)
軽蔑する恵萌だったが、
(――ヤバっ!)
前へ向き直って、焦る。それどころではなかったからだ。
龍輝の膝の力が、ガクッと抜けて、体が左右に揺れていたのだ。
うつむいた顔も、ゆがみ始めている。まさに、このあと、「泣き出す」のだろう。未来の龍輝が、話してくれたように。
「――」
泣き出す寸前の今こそ、本当に、最後のチャンスであった。もし、泣き始めたら、しばらく回復できず、とても借り物競走どころではないだろうから。
「――ッ!」
考えるより先に、体が――
いや、それでも、意志の方が先だったか。
「……」
つま先立ちで、レジャーシートの隙間を、早歩き。
ガタン!
誰かの水筒を蹴り倒してしまうが、「済みません」と、おざなりに会釈し、さっさと前進。
ひもをまたぐ。スカートの裾を引っ掛けたが、なでるように、後部を片手でスルリと押さえて、向こう側へトッと下りる。
ヒューッ、と、背後で下品な口笛が聞こえた。例の酔っぱらい老人だと思われる。
今、スカートの中が見えちゃったのかもしれない。だが、どうでもいい。どうせ、下はオーバーパンツを履いている。
というか、それどころじゃない。
そばへ寄る。
「龍輝!」
呼んだ。
下を向いていた龍輝少年の、肩がビクッと跳ねて、こちらへ首を回す。
龍輝の驚いた顔と、目が合った。
恵萌を見た途端、龍輝の表情がぱっと明るくなる。
しゃがみかけて、曲げていた膝が、途中で止まる。
膝を伸ばして、スックと立つ。文字どおり、まさに、「立ち直った」のだ。
(おっと……)
やはり、龍輝は身長が高めだ。急に見下ろされ、恵萌は少し、身構える。
(大人になった現代と、同じ高さだな。中学二年生といえば、男の子も、成長期は終わってるのかな)
体型も、現代より少々やせている程度。余り変わっていない。
体操服シャツの前部に、「滝倉」という名札が縫い付けられていた。龍輝の名字である。
恵萌はホッとした。最後の答え合わせも出来た。
もはや、名札など「ダメ押し」同然で、見るまでもなかったが。
体臭……とはちょっと違うけれど、目の前に立った時の印象、気配が、いつもと同じであったから。
(ハハッ、大して違和感ないや。龍輝だなあ)
手の上げ下げ、眼球の動かし方など、たった数秒でも、龍輝らしい特徴は見つかる。たとえ少年でも、中身は同一人物なのであった。
あどけない龍輝の顔は、戸惑いとうれしさの中間だった。
戸惑いの理由は、見知らぬ女の子が急に寄ってきたから。
そして、うれしさの理由――こちらは、説明不要だろう。
もちろん、借り物競走の「お題」カードに一致する人物が、来てくれたから。
恵萌は、その場でしゃがむ。
未来の龍輝から忠告されたとおり、「恥じらい」を忘れず、両ひざを斜めの角度で曲げて、スカートの中が見えないようにした。
裏返しに落ちているカードを、恵萌が拾う。中身は知っているけれど、念のため確認したら、未来の龍輝が話してくれたとおり、「他校の女子生徒」と書いてあった。
恵萌は、大きなカードを両手で持って、龍輝に見せつつ、
「ほら、『他校の女子生徒』だよ」
「うん」
反射的という感じではあったが、こくんと龍輝がうなずく。
龍輝の鼻から一筋、鼻水が垂れて、慌てたように、シャツの半そでで拭いている。
この学校、立遠第二中学校の制服とは違う、別のセーラー服を着た女の子。
カードの条件を満たすことは、一目瞭然であった。
恵萌は、後ろも振り向いて、一応、コースわきの観客たちにも、カードを見せた。
「おおー!」
「いたよ!」
「お題、それだったのかよ」
「ひどいお題だなあオイ!」
「よかったよかった」
安堵の歓声とため息、それから、拍手が起きた。
「――ってことで、じゃあ、行くよ!」
恵萌は、左腕を伸ばして、龍輝の右手をグイッとつかんで引っ張る。
「わわっ!」
龍輝の体が、恵萌から見て左へ傾く。
けれど、即、体勢を立て直して、一緒に駆け出してくれた。
いろいろ疑問などがあっても、今やるべきことは、ゴールまで走る、それだけだ。この認識は、とりあえず共有できたようだ。
恵萌は、グラウンドを走りつつ、握った龍輝の手に、ギュッと力を込める。
すると、
「えっ」
左耳に、龍輝の驚く声が聞こえ、つないだ手もビクンと震えた。
「?」
振り返る余裕はなかったが、どうやら、女の子と手をつないで、戸惑っているらしい。
とはいえ、二人の息はぴったりだ。
恵萌は既に、未来の龍輝と、何度もタイムワープをしている。過去の「旅先」では、軽いピンチも経験しており、手をつないで走って逃げたこともある。だから、龍輝の走り方や、速度は、体感として覚えているのだ。幸い、中学時代でも、そのリズムは同じであった。
トラック右側の声援が風に溶けて、後方へ抜けてゆく。
あいた右腕に、お題のカードを抱えたまま、伸ばした左腕で龍輝少年を引っ張り、恵萌はまっすぐ走ってゆく。
取り残されていた。
グラウンドのコースには、既に誰もおらず、ゴールまでの一直線を、走っているのは恵萌たち二人のみ。
当然と言おうか、一緒にスタートした他の選手は、とっくに走り終えた後だったから。
それでも、龍輝・恵萌ペアは、優しい声援を受け、笑顔に出迎えられながら走った。
途中で、龍輝がハプニングに遭った場面を、みんなも見ていたからであろう。
あるいは、絵的に、「セーラー服の女の子に、手を引かれる体操服の少年」という構図が、面白かったのかもしれない。
かかとが、ソックスに滑って、右足の靴が後ろへ飛びそうになる。もともと、走るには適さないシューズなので、仕方ないけれど。
(おっと、ととと……。ローファー脱げそう)
つま先で土を蹴り、何とか、脱げないように踏ん張れた。
ラインパウダーで横に引かれた、太い白線。そこがゴールであった。
しかし、その線を踏む寸前、
パァンッ!
無情にも、号砲が鳴らされた。
(ゲッ、失格だ!)
ゴール付近に立つ男子生徒が、右腕を上げ、黒いスターターピストルを撃ったのだ。肩の近くに、腕章を付けている。
体育祭の実行委員だ。左手には、ストップウォッチ。
先ほどのアナウンスのとおり、借り物競走の制限時間は、一分である。
いずれにせよ、ゴールラインをちゃんと踏んでから、走りをやめた。
(よオォし! 完走ッ!)
つないでいた手を離す。
「んんッ!」
弾けるように、二人はそれぞれ、左右へ離散する。
急には止まれず、勢い余って、五メートルぐらい先まで、つんのめる。
止まった龍輝は、膝に両手を当てて、前かがみ。そのまま、よろよろと座り込む。
一方の恵萌は、「借り物」として途中から参加したので、少ししか走っていない。だから、疲れてはいても、立っていられた。
ひたいを、手首で横にグーッとこすったら、前髪が、汗ごと斜めに、指に絡んできた。
首の汗も、ひどい。周囲に、セーラー服のカラーが巻きついているので、蒸れるのだ。
別の実行委員女子が、恵萌へ片手を伸ばしつつ、
「御協力ありがとうございましたー。残念ながら、時間切れでしたけど」
ちらと、ブルマーを履いた脚に視線が行く。女同士でも、脚がむき出しというのは、やはり、ちょっと目を引く。
差し出された手は、カードの回収という意味だ。
恵萌は、ただではカードを返さない。嫌味の一つも、言ってやらねば気が済まない。当然だ。
大きなカードをわざと持ち上げ、体を左右に回し、その実行委員と、周囲の人たちにも見せつけ、
「何これ、『他校の女子生徒』って。ひどくね? 中学の体育祭に、ひと目で分かる他校生なんて、滅多に来ないと思うんですけど。今回、たまたま、私がいたけどさ!」
カードを受け取りながら、実行委員は苦笑して、
「えっ……。ま、まあ、でも、結果的には、オ、オーライだったんで、はあ」
少しばかり困惑、いや、怖がっている。
龍輝本人ならともかく、部外者が詰め寄ってきたのが、想定外だったようだ。
(なーにが結果オーライだよ! 龍輝はずっとトラウマになってて、大人になった今でも、忘れられずにいるのに。私は、それをちょっとでも和らげたくて、わざわざ、遠い未来から来たんだよっ!)
叫び出したかったが、グッと飲み込む。
だが、飲み込んだその怒りに対しては、後ろから、
「……どっ、どうもあ、りが……とう。助かりま、した」
という一言が、しっかり受け止めてくれた。
驚いて振り向くと、龍輝であった。
いつの間にか立ち上がっていて、すぐそばまで寄ってきていたのだ。
自分の顔は自分では見えないけれど、恐らくは、今の恵萌よりもずっと、汗だくの顔面。
さっきは精神的にも疲れたのか、やつれて、龍輝の細い目はくぼんでいた。
しかし、眼光はまっすぐに恵萌を射抜いて来たし、口もとには、はっきりと笑みが浮かんでいる。
その口を、再び開いて、
「おかげで、一応、ゴ、ールは出来たから。ありがとう。あなたの、おかげです」
「――」
ぜいぜいと、まだ龍輝の呼吸は荒く、せりふも、途切れ途切れだ。
でも、龍輝の声は意外に大きかった。その場にいた生徒四、五人が、全員黙ったほどだったから。低くて太い、まさに男子の声である。
何か言いたそうな表情だったのに、皆、それを改めて、とりあえずは真顔になった。

