恵萌の手に持ったスマホが、フッと消え失せる。
不意に、手から重さがなくなるので、ギョッとする。この感覚には、なかなか慣れることが出来ない。
その理由は恐らく、「生前」の現実世界では、起こり得なかった現象だからであろう。
もっとも、それを言ったら、次に起こるタイムワープこそ、起こり得ぬ現象の、最たるものなのだが。
続いて、タイムワープが始まると、視界に青い靄が掛かる。
ジジッ、ジッ、ジジッと、耳鳴りもする。
毎度のことだ。いずれも不快だが、我慢できぬほどではない。
向かいに立つ、背広を着た龍輝。
その姿が、見えにくくなる。まるで、青のクレヨンで塗りつぶされたかのように。
同時に、龍輝の低い声も、
「ああ、よろしく。ど――」
ここで途切れた。
(『ど、』なんだろ? 『どこまでも』……は、違うかな)
恵萌は、一人でクスッと笑うが、次の瞬間には、靴の裏に柔らかい感触が伝わる。
(おっと)
足が、カクッとよろめき、体が傾いた。下が、平らではなくなったわけである。
瞬間移動して、部屋の床が、外の地面へと変わったのだ。草が生えているらしい。
眼前の景色も、一変する。
視界がクリアになり、まず見えたのは、フェンスに囲まれた校舎。
その向こうの団地も。
坂道も、歩道橋も、電柱も、青空も見えた。
「首都圏」という表現を、もう一段階、田舎へ寄せた風景。
この地、「立遠」は、千葉県内の外れに位置する町である。
「ひゃー!」
思わず、悲鳴がもれた。
何より、眩しい。それと、暑い。それから、屋台でも出店しているのか、ソースが焼ける匂いが漂う。
ふつふつと、全身から汗がわき出てくる。
「あっちー! あちちちち」
あり得ないとは思うが、もしも、体じゅう全ての毛穴から汗が出てきたら、こんな感じかもしれない。何万粒の、ミクロの水玉、いや、「お湯玉」だ。
セーラー服の固い布が、ジトッと背中に張り付いてくる。
「ゲェー」
(せめて、夏服だったら、マシだったのにな)
今着ている紺色のセーラー服は、四月に事故に遭った時のもの。四月は、当然、まだ冬服だ。
はしたないとは思いつつ、セーラー服の首もとから手を突っ込み、襟ごと、グイッと前へ引っ張る。体から、はがすように。
でも、ちっとも涼しくはならない。むしろ、胸元へ熱気が侵入してくる。
ふと、あごを引き、視線を真下へ向ければ、自分のプライベートゾーンが目に入る。すなわち、胸の谷間である。
白いインナーシャツ。その中の、ブラジャーのカップは、薄い緑色だ。汗ばんだ二つのふくらみを、優しく包んでいる。
「……っと」
我に返って、目をそらし、手を放した。
反射的に、周囲をキョロキョロしてしまう。幸い、誰も見ていなかった。
ただし、辺りに、二十名ほどの人がいた。結構、騒がしい。
路上に数台のバイクが停められ、その近くで談笑する若者、カメラのフィルムをチェックする中年男性、荷物を抱えて帰り支度をする家族連れなど。
小学生らしき、児童の一団もいて、文房具店の前で、なぜか追いかけっこをしている。
まさに、イベント会場という感じがする。
(よかった! 体育祭、今日で間違いなかったみたい)
ホッとした気持ちに応えるように、
パァン、パパーンッ!
斜め上の空へ、高く、花火が弾けた。昼用の、白煙の花火だ。
快晴である。遠方に、上下に長い、雲の白い壁。
(ああ、無事、着いたんだなー)
立遠第二中学校。十五メートルほど先に、正門がある。
造花に囲まれた、手製の看板が、立てかけられていた。やや距離はあるが、文字は読めた。
「平成6年度 秋季大運動会」。縦書きである。
(ええと、『令和』じゃないよね。『平成6年度』だよね。平成、平成。うん、大丈夫!)
それを確認した時、
「よしッ!」
ガッツポーズをしてしまった。
もう、絶対に間違いない。目指すべき行事への、タイムワープに成功したのだ。
しばらく前の、龍輝との会話で、
「あの辺の地域は、ほどよく田舎だったからなア。俺が現役の頃は、地元中学の体育祭といえば、地域住民にとっては、割と大きな、秋の娯楽だったよね。結構、人がいっぱい集まってたと思うけど」
と言われたけれど、納得である。
正門の外にまで、人ごみが発生しているのは、まさにそのことを物語っていた。
(さーて、無事に、入れてもらえるといいけど、どうかなあ?)
スカートの裾を片手で整えながら、恵萌も、てくてくと正門へ歩いてゆく。
赤いスカーフが風に跳ねて、先端が視界をよぎった。
チチチチチ! と、黄緑色のバッタが飛んで、恵萌のローファーをよけた。
「ん……」
ふと、横へ目をやれば、正門付近、歩道の幅が広がったところに、焼きそばを売る屋台が、でんと陣取っていた。
焼く作業は一段落したのか、調理の音や湯気はない。ただし、香ばしさが風に乗って広がっている。
(さっき、到着した時の、ソースの匂いはあれかー。おいしそう)
学校の門へと歩きながらも、恵萌は、つい横を向いて、それを眺めてしまう。
(へえー。よく、怒られないよなー)
ごつくて、派手な屋台である。
紅白しましま模様の屋根、立派な小屋のような外観、巨大な鉄板。
足もとの特大ガスボンベ、四角い発電機。
PTAの有志では、ここまで本格的な物は用意できまい。どう見ても、素人ではない。外部の業者であろう。
今だったら、学校行事に露天商が来るというのは、なかなかに難しいのではないか。大らかな時代だったということか。
「ママ、僕も焼きそば食べたーい」
「だめよ、持ってきたお弁当、あるんだから」
通行人の中から、親子連れらしき声が聞こえてきて、恵萌は、フフッと小さく噴き出す。
(分かる分かる。地味な手作り弁当より、屋台の焼きそばの方が、子供には魅惑的だよねえ)
体育祭を見に来た、家族だろうか。
例えば、生徒の、母と弟。今ごろ、「坊や」のお兄ちゃんか、あるいはお姉ちゃんが、中のグラウンドで、競技の準備中かもしれない。
(というか、私も焼きそば食べたいなあ!)
恵萌の口の中に、つばが溜まり、おなかがグーッと鳴る。
残念ながら、お金を持っていないため、買うことは出来ない。我慢するしかない。
あの謎の部屋――恵萌と龍輝は、あの部屋を「本部」と呼んでいた――「本部」にいる時は、食欲など一切ないというのに、
(タイムワープした途端に、いつもこれだもんなあ。やれやれ、まいっちゃう)
それは、汗も同じだった。
「本部」にいる間は、汗も、血も、鼻水も、おしっこも、全く出ない。体内からは、何も分泌されないのだ。
しかし、タイムワープして、外の世界へ出たら、がらりと状態は変わる。暑ければ汗もかく。飲み食いの後には、トイレにも行かねばならなくなる。
まるで、元通り、生き返ったかのように。
「ふうー」
ひたいの汗を指先でぬぐうと、湿った前髪も絡みついてきた。
首の後ろで、ポニーテールの毛束も、何だか、モタッと重たい。汗と湿気を含んでいるのだろう。
そうこうするうちに、立遠第二中学校の正門前にたどり着く。
腕章を付けた教師とかが、立ち番などをしているかと思いきや、
(あれっ? 誰もいないや)
正門は、あっさりと通過できてしまった。
ほかにも、私服姿の大人や親子連れが、当たり前のように出入りしている。
(えーっ、フリーパスなのー? 無防備すぎじゃね?)
どうやら、防犯カメラも設置されていないようだ。
(うわー。信じらんない!)
恵萌の中学時代は、つい最近である。交通事故に遭って「本部」に来る前は、高校二年生であったから。
恵萌が中学生の頃には、体育祭への保護者参観は、事前予約制であった。
当日は、正門に受付が設置され、予約証の提示と、簡易ではあるが、持ち物検査が必須であった。
あれに比べると、
「のどかな時代だったんだなあ……」
思わず、つぶやいてしまった。
かつて、大阪で、小学校に暴漢が乱入する痛ましい事件が起きた。たしか、恵萌が生まれる何年か前だったはずだ。
(今いるのは1994年だから、あの事件はまだ起きてないのか。なるほどなー)
十代なりに、歴史と社会との関連性を思った。平凡な日常を維持することの難しさを、考えさせられる。
駐車場、花壇のわき、自転車置き場を、さらに数歩、奥へ進む。すると……。
「おおー!」
いきなり、視界がひらけて、真っ正面にグラウンドが見えた。たくさんの生徒、保護者たちがいる。
左右の端から端まで、色とりどりの万国旗が、横並びに吊り下げられており、熱風にはためいている。
まさに、運動会の風景である。
しかし、今、恵萌が叫んだ理由は、全く別のことだ。
そこにあるはずの新校舎が建っていなかったから、驚いたのである。
本来なら、この場所は、眼前に四階建ての新校舎がそびえており、グラウンドは見えないはずなのだ。
グラウンドの横に、コの字型に、古ぼけた校舎があった。旧校舎である。――いや、「今」はまだ、その呼び名はないはずであった。新校舎の建設予定すら、たしか、数年先になるからだ。
「現時点」では、全員が、普段の学び舎として、この年季の入った建物を使っているわけである。
「――」
今さらではあるが、
(ちゃんと来れたんだなー。本当に、ここは1994年なんだね。平成時代。私が生まれる、何年も前……)
立遠第二中学校は、龍輝の母校である。
そして、偶然にも、実は恵萌の母校でもあるのだった。
あの交通事故の後、「本部」にて、二人きりの生活が始まってから、恵萌と龍輝は、だんだん打ち解けていった。
それにつれて、互いの生い立ちなどを、徐々に話すようになった。
その過程で、出身中学の話題になった時、何と、同じであることが判明したわけである。
恵萌は令和6年度卒。龍輝はさらに昔、平成7年度卒である。ほぼ、三十年の開きがある。
そのあと、龍輝が、「中二の体育祭の借り物競走が、とても嫌な思い出になっている」という話をした。
その内容を詳しく聞いた恵萌が、「確かに、つらいわ。じゃあ、私が変えてきてあげる」という流れになったわけである。
タイムワープにはルールがあり、自分が「生前に」行ったことのある場所にしか行かれない。
ただし、タイムワープ後、新たに行った場所については、次回から追加されるけれど。
すなわち、立遠第二中学校には、恵萌も、タイムワープ初回から行くことが出来るわけだ。
まさに、同じ中学出身だからこそ、実現できた「企画、遊び」である。
ガガッ、カッカッ。
スピーカーに、雑音が入る。
「!」
日光が照りつける校庭に、放送が流れたのだ。女子の声。
「あっあー、あっ、マイクテスト、マイクテスト。……えー、それでは、ただいまより、体育祭の午後の部を開始いたします。プログラムナンバー十二番。一、二年生女子・合同による、紅白対抗タイヤ引きです!」
拍手が響いた。
(おお、始まった、始まった。急がなきゃ)
我に返った恵萌は、手を持ち上げ、一緒に拍手をしてから、グラウンドの方へ歩いていく。
周囲は、でこぼこだ。アスファルトと石ころの地面。駐輪場と広場が、混ざったようなスペース。
そばを、半そで体操服姿の女生徒が三人、通り過ぎる。
「あっ!」
思わず、声が出た。
女子たちは、けげんそうに少し振り向いたが、そのまま、防球ネット沿いに去ってゆく。
三人とも、中学生らしく発育した、大きめのお尻が、紺色の布にくっきり浮き出ていた。その下は、太ももからソックスまで、素肌が丸出しである。
ひざ裏と、ふくらはぎ。砂が付着している。何か、激しい種目を終えたのだろうか。
うち一人が、片手を後ろへ回し、お尻の裾のゴムに指を突っ込んで、クイッと下へ引っ張る仕草。
食い込みを直したのか。あるいは、下着のはみ出し――龍輝の話では「はみパン」と言うそうだが――を気にしての行為か。
いずれにしても、
(――なるほど、あれが、ブルマーか!)
今、恵萌が叫んだ理由も、それであった。
学校指定の体操服としての、ブルマー。実際にこの目で見たのは、初めてだ。イラストとか、遠目の写真とかで見たことはあったけれど。
一人で納得し、軽く首肯する恵萌。
(……確かに、あれは恥ずかしいかも。お尻の形、出過ぎ! 授業のたびに毎回履くんだよね? というか、生理の時とか、どうすんの、あれ。ナプキンの形、モロ分かりだと思うんだけど)
前へ向き直ると、短い下り坂。
「とと」
少し、よろめいた。膝がカクンとなり、スカートが、ふわり、ひらりと左右へ波打つ。腕を広げて、バランスを取った。
アスファルトのエリアから、校庭へ下り立つ。低い位置だ。ローファーで踏む。風が、乾いた土を舞い上げ、吹き散らす。
別の一角からは、白い粉も舞っている。
「ぷっ!」
唇に付いた砂ぼこりを、息を吹いて飛ばす。ラインパウダーの匂い。この時代は、まだ、消石灰かもしれない。有害なので、現在は禁止だが。
「――」
トラックの周囲には、レジャーシートを敷いた見物客たち。シートは大小も、色もさまざまだ。
頭上では、イギリスの国旗と、日の丸がはためいている。緑に、青い星空の円は、ブラジル。赤い国旗は、たぶんソビエトだろう。オリンピックの旗も見える。ほかにもたくさん、横一列。万国旗だ。
かくして、いよいよ、「祭り」の中心にたどり着いた。
外周には、白い天幕のテントが、幾つか並ぶ。パイプテントと呼ばれる、主に学校用・企業用の物だ。横に長い。
屋根状の天幕には、大きな黒い字で「立遠第二中学校 PTA」などと書かれている。
アナウンス。先ほどの女子生徒だ。
「さあ、いよいよ対決です! ムカつく男子や怖ーい先生への、日ごろのうっぷんを、タイヤにぶつけちゃいましょお! ホントは、あたしも加わりたいッ! では、プログラムナンバー十二番、タイヤ引き、スタート!」
どっと、グラウンドに爆笑が起こった。
(スゲー。大丈夫かー? そんな過激なこと言っちゃって)
毒舌アナウンスにあきれて、カカカッと恵萌も笑う。
続いて、ピーッと笛の合図。
不意に、手から重さがなくなるので、ギョッとする。この感覚には、なかなか慣れることが出来ない。
その理由は恐らく、「生前」の現実世界では、起こり得なかった現象だからであろう。
もっとも、それを言ったら、次に起こるタイムワープこそ、起こり得ぬ現象の、最たるものなのだが。
続いて、タイムワープが始まると、視界に青い靄が掛かる。
ジジッ、ジッ、ジジッと、耳鳴りもする。
毎度のことだ。いずれも不快だが、我慢できぬほどではない。
向かいに立つ、背広を着た龍輝。
その姿が、見えにくくなる。まるで、青のクレヨンで塗りつぶされたかのように。
同時に、龍輝の低い声も、
「ああ、よろしく。ど――」
ここで途切れた。
(『ど、』なんだろ? 『どこまでも』……は、違うかな)
恵萌は、一人でクスッと笑うが、次の瞬間には、靴の裏に柔らかい感触が伝わる。
(おっと)
足が、カクッとよろめき、体が傾いた。下が、平らではなくなったわけである。
瞬間移動して、部屋の床が、外の地面へと変わったのだ。草が生えているらしい。
眼前の景色も、一変する。
視界がクリアになり、まず見えたのは、フェンスに囲まれた校舎。
その向こうの団地も。
坂道も、歩道橋も、電柱も、青空も見えた。
「首都圏」という表現を、もう一段階、田舎へ寄せた風景。
この地、「立遠」は、千葉県内の外れに位置する町である。
「ひゃー!」
思わず、悲鳴がもれた。
何より、眩しい。それと、暑い。それから、屋台でも出店しているのか、ソースが焼ける匂いが漂う。
ふつふつと、全身から汗がわき出てくる。
「あっちー! あちちちち」
あり得ないとは思うが、もしも、体じゅう全ての毛穴から汗が出てきたら、こんな感じかもしれない。何万粒の、ミクロの水玉、いや、「お湯玉」だ。
セーラー服の固い布が、ジトッと背中に張り付いてくる。
「ゲェー」
(せめて、夏服だったら、マシだったのにな)
今着ている紺色のセーラー服は、四月に事故に遭った時のもの。四月は、当然、まだ冬服だ。
はしたないとは思いつつ、セーラー服の首もとから手を突っ込み、襟ごと、グイッと前へ引っ張る。体から、はがすように。
でも、ちっとも涼しくはならない。むしろ、胸元へ熱気が侵入してくる。
ふと、あごを引き、視線を真下へ向ければ、自分のプライベートゾーンが目に入る。すなわち、胸の谷間である。
白いインナーシャツ。その中の、ブラジャーのカップは、薄い緑色だ。汗ばんだ二つのふくらみを、優しく包んでいる。
「……っと」
我に返って、目をそらし、手を放した。
反射的に、周囲をキョロキョロしてしまう。幸い、誰も見ていなかった。
ただし、辺りに、二十名ほどの人がいた。結構、騒がしい。
路上に数台のバイクが停められ、その近くで談笑する若者、カメラのフィルムをチェックする中年男性、荷物を抱えて帰り支度をする家族連れなど。
小学生らしき、児童の一団もいて、文房具店の前で、なぜか追いかけっこをしている。
まさに、イベント会場という感じがする。
(よかった! 体育祭、今日で間違いなかったみたい)
ホッとした気持ちに応えるように、
パァン、パパーンッ!
斜め上の空へ、高く、花火が弾けた。昼用の、白煙の花火だ。
快晴である。遠方に、上下に長い、雲の白い壁。
(ああ、無事、着いたんだなー)
立遠第二中学校。十五メートルほど先に、正門がある。
造花に囲まれた、手製の看板が、立てかけられていた。やや距離はあるが、文字は読めた。
「平成6年度 秋季大運動会」。縦書きである。
(ええと、『令和』じゃないよね。『平成6年度』だよね。平成、平成。うん、大丈夫!)
それを確認した時、
「よしッ!」
ガッツポーズをしてしまった。
もう、絶対に間違いない。目指すべき行事への、タイムワープに成功したのだ。
しばらく前の、龍輝との会話で、
「あの辺の地域は、ほどよく田舎だったからなア。俺が現役の頃は、地元中学の体育祭といえば、地域住民にとっては、割と大きな、秋の娯楽だったよね。結構、人がいっぱい集まってたと思うけど」
と言われたけれど、納得である。
正門の外にまで、人ごみが発生しているのは、まさにそのことを物語っていた。
(さーて、無事に、入れてもらえるといいけど、どうかなあ?)
スカートの裾を片手で整えながら、恵萌も、てくてくと正門へ歩いてゆく。
赤いスカーフが風に跳ねて、先端が視界をよぎった。
チチチチチ! と、黄緑色のバッタが飛んで、恵萌のローファーをよけた。
「ん……」
ふと、横へ目をやれば、正門付近、歩道の幅が広がったところに、焼きそばを売る屋台が、でんと陣取っていた。
焼く作業は一段落したのか、調理の音や湯気はない。ただし、香ばしさが風に乗って広がっている。
(さっき、到着した時の、ソースの匂いはあれかー。おいしそう)
学校の門へと歩きながらも、恵萌は、つい横を向いて、それを眺めてしまう。
(へえー。よく、怒られないよなー)
ごつくて、派手な屋台である。
紅白しましま模様の屋根、立派な小屋のような外観、巨大な鉄板。
足もとの特大ガスボンベ、四角い発電機。
PTAの有志では、ここまで本格的な物は用意できまい。どう見ても、素人ではない。外部の業者であろう。
今だったら、学校行事に露天商が来るというのは、なかなかに難しいのではないか。大らかな時代だったということか。
「ママ、僕も焼きそば食べたーい」
「だめよ、持ってきたお弁当、あるんだから」
通行人の中から、親子連れらしき声が聞こえてきて、恵萌は、フフッと小さく噴き出す。
(分かる分かる。地味な手作り弁当より、屋台の焼きそばの方が、子供には魅惑的だよねえ)
体育祭を見に来た、家族だろうか。
例えば、生徒の、母と弟。今ごろ、「坊や」のお兄ちゃんか、あるいはお姉ちゃんが、中のグラウンドで、競技の準備中かもしれない。
(というか、私も焼きそば食べたいなあ!)
恵萌の口の中に、つばが溜まり、おなかがグーッと鳴る。
残念ながら、お金を持っていないため、買うことは出来ない。我慢するしかない。
あの謎の部屋――恵萌と龍輝は、あの部屋を「本部」と呼んでいた――「本部」にいる時は、食欲など一切ないというのに、
(タイムワープした途端に、いつもこれだもんなあ。やれやれ、まいっちゃう)
それは、汗も同じだった。
「本部」にいる間は、汗も、血も、鼻水も、おしっこも、全く出ない。体内からは、何も分泌されないのだ。
しかし、タイムワープして、外の世界へ出たら、がらりと状態は変わる。暑ければ汗もかく。飲み食いの後には、トイレにも行かねばならなくなる。
まるで、元通り、生き返ったかのように。
「ふうー」
ひたいの汗を指先でぬぐうと、湿った前髪も絡みついてきた。
首の後ろで、ポニーテールの毛束も、何だか、モタッと重たい。汗と湿気を含んでいるのだろう。
そうこうするうちに、立遠第二中学校の正門前にたどり着く。
腕章を付けた教師とかが、立ち番などをしているかと思いきや、
(あれっ? 誰もいないや)
正門は、あっさりと通過できてしまった。
ほかにも、私服姿の大人や親子連れが、当たり前のように出入りしている。
(えーっ、フリーパスなのー? 無防備すぎじゃね?)
どうやら、防犯カメラも設置されていないようだ。
(うわー。信じらんない!)
恵萌の中学時代は、つい最近である。交通事故に遭って「本部」に来る前は、高校二年生であったから。
恵萌が中学生の頃には、体育祭への保護者参観は、事前予約制であった。
当日は、正門に受付が設置され、予約証の提示と、簡易ではあるが、持ち物検査が必須であった。
あれに比べると、
「のどかな時代だったんだなあ……」
思わず、つぶやいてしまった。
かつて、大阪で、小学校に暴漢が乱入する痛ましい事件が起きた。たしか、恵萌が生まれる何年か前だったはずだ。
(今いるのは1994年だから、あの事件はまだ起きてないのか。なるほどなー)
十代なりに、歴史と社会との関連性を思った。平凡な日常を維持することの難しさを、考えさせられる。
駐車場、花壇のわき、自転車置き場を、さらに数歩、奥へ進む。すると……。
「おおー!」
いきなり、視界がひらけて、真っ正面にグラウンドが見えた。たくさんの生徒、保護者たちがいる。
左右の端から端まで、色とりどりの万国旗が、横並びに吊り下げられており、熱風にはためいている。
まさに、運動会の風景である。
しかし、今、恵萌が叫んだ理由は、全く別のことだ。
そこにあるはずの新校舎が建っていなかったから、驚いたのである。
本来なら、この場所は、眼前に四階建ての新校舎がそびえており、グラウンドは見えないはずなのだ。
グラウンドの横に、コの字型に、古ぼけた校舎があった。旧校舎である。――いや、「今」はまだ、その呼び名はないはずであった。新校舎の建設予定すら、たしか、数年先になるからだ。
「現時点」では、全員が、普段の学び舎として、この年季の入った建物を使っているわけである。
「――」
今さらではあるが、
(ちゃんと来れたんだなー。本当に、ここは1994年なんだね。平成時代。私が生まれる、何年も前……)
立遠第二中学校は、龍輝の母校である。
そして、偶然にも、実は恵萌の母校でもあるのだった。
あの交通事故の後、「本部」にて、二人きりの生活が始まってから、恵萌と龍輝は、だんだん打ち解けていった。
それにつれて、互いの生い立ちなどを、徐々に話すようになった。
その過程で、出身中学の話題になった時、何と、同じであることが判明したわけである。
恵萌は令和6年度卒。龍輝はさらに昔、平成7年度卒である。ほぼ、三十年の開きがある。
そのあと、龍輝が、「中二の体育祭の借り物競走が、とても嫌な思い出になっている」という話をした。
その内容を詳しく聞いた恵萌が、「確かに、つらいわ。じゃあ、私が変えてきてあげる」という流れになったわけである。
タイムワープにはルールがあり、自分が「生前に」行ったことのある場所にしか行かれない。
ただし、タイムワープ後、新たに行った場所については、次回から追加されるけれど。
すなわち、立遠第二中学校には、恵萌も、タイムワープ初回から行くことが出来るわけだ。
まさに、同じ中学出身だからこそ、実現できた「企画、遊び」である。
ガガッ、カッカッ。
スピーカーに、雑音が入る。
「!」
日光が照りつける校庭に、放送が流れたのだ。女子の声。
「あっあー、あっ、マイクテスト、マイクテスト。……えー、それでは、ただいまより、体育祭の午後の部を開始いたします。プログラムナンバー十二番。一、二年生女子・合同による、紅白対抗タイヤ引きです!」
拍手が響いた。
(おお、始まった、始まった。急がなきゃ)
我に返った恵萌は、手を持ち上げ、一緒に拍手をしてから、グラウンドの方へ歩いていく。
周囲は、でこぼこだ。アスファルトと石ころの地面。駐輪場と広場が、混ざったようなスペース。
そばを、半そで体操服姿の女生徒が三人、通り過ぎる。
「あっ!」
思わず、声が出た。
女子たちは、けげんそうに少し振り向いたが、そのまま、防球ネット沿いに去ってゆく。
三人とも、中学生らしく発育した、大きめのお尻が、紺色の布にくっきり浮き出ていた。その下は、太ももからソックスまで、素肌が丸出しである。
ひざ裏と、ふくらはぎ。砂が付着している。何か、激しい種目を終えたのだろうか。
うち一人が、片手を後ろへ回し、お尻の裾のゴムに指を突っ込んで、クイッと下へ引っ張る仕草。
食い込みを直したのか。あるいは、下着のはみ出し――龍輝の話では「はみパン」と言うそうだが――を気にしての行為か。
いずれにしても、
(――なるほど、あれが、ブルマーか!)
今、恵萌が叫んだ理由も、それであった。
学校指定の体操服としての、ブルマー。実際にこの目で見たのは、初めてだ。イラストとか、遠目の写真とかで見たことはあったけれど。
一人で納得し、軽く首肯する恵萌。
(……確かに、あれは恥ずかしいかも。お尻の形、出過ぎ! 授業のたびに毎回履くんだよね? というか、生理の時とか、どうすんの、あれ。ナプキンの形、モロ分かりだと思うんだけど)
前へ向き直ると、短い下り坂。
「とと」
少し、よろめいた。膝がカクンとなり、スカートが、ふわり、ひらりと左右へ波打つ。腕を広げて、バランスを取った。
アスファルトのエリアから、校庭へ下り立つ。低い位置だ。ローファーで踏む。風が、乾いた土を舞い上げ、吹き散らす。
別の一角からは、白い粉も舞っている。
「ぷっ!」
唇に付いた砂ぼこりを、息を吹いて飛ばす。ラインパウダーの匂い。この時代は、まだ、消石灰かもしれない。有害なので、現在は禁止だが。
「――」
トラックの周囲には、レジャーシートを敷いた見物客たち。シートは大小も、色もさまざまだ。
頭上では、イギリスの国旗と、日の丸がはためいている。緑に、青い星空の円は、ブラジル。赤い国旗は、たぶんソビエトだろう。オリンピックの旗も見える。ほかにもたくさん、横一列。万国旗だ。
かくして、いよいよ、「祭り」の中心にたどり着いた。
外周には、白い天幕のテントが、幾つか並ぶ。パイプテントと呼ばれる、主に学校用・企業用の物だ。横に長い。
屋根状の天幕には、大きな黒い字で「立遠第二中学校 PTA」などと書かれている。
アナウンス。先ほどの女子生徒だ。
「さあ、いよいよ対決です! ムカつく男子や怖ーい先生への、日ごろのうっぷんを、タイヤにぶつけちゃいましょお! ホントは、あたしも加わりたいッ! では、プログラムナンバー十二番、タイヤ引き、スタート!」
どっと、グラウンドに爆笑が起こった。
(スゲー。大丈夫かー? そんな過激なこと言っちゃって)
毒舌アナウンスにあきれて、カカカッと恵萌も笑う。
続いて、ピーッと笛の合図。

