「だいたい、連絡もなしでいきなり訪ねてくるのは貴族社会ではマナー違反にあたるから。――まあ、知らなくて当然か。貴族じゃないのだから」
盛大にあてこすってやると、ギルバートの顔が怒りで赤くなった。ギルバートは実家の太さに自分の美貌、そこに爵位が加われば完璧だとでも思っているような奴だ。
だけどね、私はあなたに一分一秒たりとも時間を費やしたくないの。
「はっきり言うけど、あなたと結婚しないから」
「は?」
ギルバートは顔をゆがめた。
「そんなこと、通用すると思っているのか? この婚約に君の意志など関係ないだろう」
「あるわよ。私の意志が一番大事だと気づいたの」
もう譲るなんてできない。息を深く吸い込んだ。
「あなたのその自分に酔っている感じがすごくナルシストで嫌いだわ。人を見下す態度もどうかと思うわ。さんざん私のことを冴えないと言ったけど、そんなあなたはすごく格好悪いって気づいている?」
「格好悪い……? この僕が?」
ギルバートは初めて言われたのだろう、唇を震わせた。
「ええ、すごくみっともない!! 人を容姿で判断するけど、自分だってたいしたことないのにね!」
自分大好きな彼に一番ダメージを与える台詞を放つ。案の定、ギルバートは顔面蒼白になった。
「……と、言うわけで婚約はなかったことにしましょう。あなたも帰ったら両親に伝えるといいわ」
扉に視線を向け、顎でクイッとうながした。
「お帰りはあちらよ。見送りはしないわ。もう来ないでね」
それだけを言うとショックでぼう然としているギルバートに踵を返し、先に退室した。
自室に戻り、パタンと扉を閉める。
さあ、こうしちゃいられないわ!
クローゼットを開けて、急いでトランクを取り出す。いつか私が自由になった時のために、前々から準備していたトランクが、こんなにも早く役立つなんてね。思ってもみなかったわ。
でも、そのおかげでいつでも出ていける。
私はトランクを広げ、荷物を詰め始めた。服に日用品、荷物は少ないけれど、ここには夢が詰まっている。
準備を終えると、あまりにも荷物の少なさに笑ってしまった。
本当に必要最低限しか与えられていなかったのだと、実感した。ドレッサーの引き出しを開けると、そこに大事にしまっていたジュエリーケースを開ける。中から出てきたのはシルバーの鍵。
手のひらに乗せると、ギュッと握りしめた。
これは母が亡くなる前に、私に託してくれた大事な鍵。
昔、母がまだ元気だった頃、田舎のマルジェに旅行へ行った。その時、別荘ではなく、ある一軒家に滞在した。そこでは自然に触れて、いきいきとして過ごしたっけー―。
あんな楽しい日々をもう一度過ごせるのなら、私はもう思い残すことはない。
そして母は亡くなる前に、あの家の鍵を私に託した。なにかあったらここへ行けと言われていた。
思えば母は不思議な人で、少し魔力を持っていた。まあ、そのせいで野心家の父に目をつけられて、愛のない政略結婚をさせられたんだけど。
そして生まれた娘の私がまったくの魔力なしだったから、父は落胆し母をなじったそうだ。
そこから夫婦関係の亀裂が決定打になり、父は愛人である義母のもとへ行き、帰ってこなかった。幼い頃の父親の記憶がほぼないのは、そのせいだ。
だが母は私のことを本当に愛してくれた。
私の残りの人生、母と過ごした思い出の場所で過ごすわ。誰にも邪魔はさせないんだから。
