タクシーがわたしの自宅アパート前まで着くと、わたしはバッグから財布を取り出そうとした。
しかし、蔵間さんはその手を止め「あ、金なら気にしないでください!」と言った。
「いえ!そんなわけには!」
「いいんです!お礼は、デート一回で大丈夫なんで!」
そう言い、蔵間さんは悪戯に微笑む。
何というか、蔵間さんと居ると調子が狂ってしまう。
まるで自分がどれだけ単純な人間なのか、突き付けられている気分だ。
「じゃあ、お言葉に甘えて。今日は、ありがとうございました。」
そう言って、わたしがタクシーから降りようとすると、「あ、凪原さん!」と蔵間さんはわたしを呼び止めた。
「凪原さん、下のお名前は?」
「麗月です。麗しい月って書いて、麗月。」
わたしがそう言うと、蔵間さんは「綺麗な名前ですね。」と言った後、「麗月さんって呼んでもいいですか?」と訊いてきた。
「えっ、あ、はい。どうぞ。」
「やった!じゃあ、麗月さんも、俺の事は下の名前で呼んでくださいね!」
ステージ上とは違う蔵間さん···、いや、命くんの無邪気な笑顔に、わたしは完全に狂わされ始めていた。
わたしはタクシーから降りると、タクシーの中で手を振る命くんに手を振り返した。
「麗月さん、おやすみなさい。」
「おやすみなさい···、命くん。」
タクシーのドアが閉まり、走り去って見えなくなるまで、命くんはタクシーの窓から顔を覗かせ、わたしに手を振り続けてくれていた。
その姿をわたしも見えなくなるまで、その場で見送り、タクシーが角を曲がって見えなくなったところで振っていた手を下ろした。
つまらない毎日に突然訪れた、刺激的過ぎる一日だった。
(どうしよう···、月曜日からどんな顔して命くんと顔を合わせればいいんだろう。)
特別何かがあったわけでもないのに、浮ついた心が危険な香りを錯覚させる。
(とりあえずシャワー浴びて、落ち着こう···うん、落ち着こう。)



