日向野あかりは、親友に送るはずの恋をグルチャに誤爆した。

 さやの「ふーん」が、まだ机の上に転がってる気がする。

 あたしはプリントの端をそろえるふりをした。
 そろえたところで、あたしの心は全然そろわないのに。

 教室の端っこが、やけににぎやかだった。

「森田さぁ、昨日は“話してない”って言ってたのに、あかりと話してたじゃーん」

 男子の声。笑い声。イスがぎいっと鳴る音。
 あたしの幼なじみ、森田陽太は、机にもたれて笑っている、ように見えた。
 口は笑ってる。でも、目は落ち着いてない。

 陽太は、もともとクラスで目立つタイプだ。明るいし、声もでかいし、運動もできる。
 からかわれても「はいはい」って流せるはずなのに。

 今日は、余裕がなさそうな感じがする。

「いや、だから、昨日は……」

 陽太が何か言いかけて、そこで言葉が止まった。
 そのまま、口の中で答えを探してるみたいに、視線が空中を泳ぐ。

 はっきりしてないの、珍しい。

 あたしは、見てないふりをしながら見ていた。
 見てないふりは得意だ、ずっとやってきたから。

 男子がさらに煽る。

「“昨日話したやつは違う”とかじゃね?」

「やば、推理班いるじゃん」

「じゃあ、誰だよ」

 陽太の肩が、ぴくっと動く。
 笑ってるのに、せわしない。落ち着かないのか、指で机をとんとんしてる。

 そのとき、陽太の目が、いきなりこっちに飛んできた。

「……?」

 どうしたの、と聞くようにあたしは首を傾げた。
 でも、陽太はすぐに目をそらす。

 なんだ、あいつ。変なの。

 男子が笑いながら言った。

「森田、のんびりしてると、他クラスに取られるぞー」

「取られるって言い方!」

 笑い声が上がる。
 陽太も笑った。笑ったけど、なんか、いつもと違うかすれた笑いだった。

 風邪の引きはじめなのかもしれない。
 寒さも本格的になってきたし。

 そう思って、あたしは窓の外を眺める。

「……」

 教室の前のほう。窓際。
 久住(くずみ)恒一(こういち)は、いつもどおりだった。

 机から出したプリントを静かにそろえて、教科書を開いて、ペンケースを置く。
 動きが少ないのに、無駄がない。ロボットってこういうのかな、ってくらい。

 あの人、何も知らない顔してる。

 いや、知ってるかもしれない。
 でも、「人間の感情は理解できません」って言ってもおかしくない。

 あたしだけだ。
 勝手に心臓が忙しいのは。

 あたしだけ、勝手に心臓が忙しい。
 あの人は、いつも通りなのに。

 言いたいことはひとつだけ。
 「ありがとう」って。たった5文字。短いし、軽い。言えそう。

 うん、言えばいいんだよ。

 あたしは立ち上がった。
 いや、立ち上がりかけた。おしりが椅子から3センチ浮いたあたりで、固まった。
 意志に反して、腰が上がらない。接着剤でもついてるのか。

 ふんとお腹に力を入れて、椅子から立ち上がる。ついてなかった。
 今ならいける。今なら、いきおいで。

 一歩、足を踏み出した。

 久住くんの机まで、たぶん、八歩ぐらい。
 二歩目で、喉がきゅっと縮んだ。

 あれ? 声の出し方って、どんなだったっけ?

 息はある。心臓もある。
 でも声だけが、見つからない。

 あたしは、三歩目に行けなかった。
 すっと戻った。まるで「最初から立ってませんでした」みたいな顔で。

 その瞬間。
 視線を感じた。

 さやが、じっとこっちを見ていた。
 ちょっと笑っているような気もする。

 あたしも、笑った。
 なにに対してなのかわからない、あいまいな笑い。

 久住くんに話しかけるのを諦めて、あたしは席に座りなおす。
 教科書を持ち上げて、意味もなく裏返して、また戻した。
 やってることが完全に“忙しいふり”だ。心臓と同じ。

 久住くんをちらりと見ると、淡々と教科書を眺めていた。
 こっちを見ない。空気も変わらない。

 なのに、あたしだけ、騒がしい。

 教室の端では、まだ陽太が笑ってる。
 でも、その笑いも、さっきより少し硬い。

 みんなはふざけてるだけ。
 たぶん、悪気はない。

 でも、あたしの中では、いろんな音が大きくなりすぎていた。

 笑い声。通知の振動。さやの「ふーん」。
 それから、言えなかった「ありがとう」。

 全部が、ひとつの箱に入って、ふたが閉まらない。

*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+

 終礼が終わって、教室がいっせいにほどけた。

 イスが引かれて、机がこすれて、誰かが「部活いこー」って叫ぶ。
 窓の外は、もう夕方の色で、ガラスに教室の明かりがうっすら映っていた。

 あたしはカバンを持って立ち上がる。
 立ち上がるだけで、周りの視線が集まってくるの、やめてほしい。

 さやは、普通の顔で髪を耳にかけた。
 普通の顔っていうのが、逆にこわい。怒ってないのか、怒ってるのか、わかんない。

「あかり、帰る?」

「う、うん。帰る帰る」

 元気なふりをするとき、人は語尾を2回言う。
 自分に言い聞かせるためだと思う。

 靴下の中で、つま先がきゅっと丸まった。
 教室の端っこでは、陽太がまだ男子に囲まれていて、笑って、ツッコんで、いつもの森田陽太を演じてるみたいだった。

 そう思うのは、幼なじみだからっていう根拠のないものなんだけど。

 でも、なんか違う。
 笑いの角度が、いつもとちょっとだけ違う。

 あたしは目をそらして、カバンの口を閉めた。
 チャックが「ジジッ」と鳴る。ちょっと大きく聞こえる。

 そのとき。

 ぶぶっ。

 スマホが震えた。
 反射で手が止まる。

 また通知……?

 今日のあたしのスマホ、ずっと生き物みたいだ。
 呼んでないのに動くのやめて。

 画面を見た瞬間、さっきまでの違和感がまた立ちのぼる。

『差出人:森田陽太』

 メッセージは短い。
 短いの、珍しいな。いつもむだに長文なのに。

『放課後ちょっといい?』

 指が画面の上で固まる。

 えっ、今? なんだろ?

 画面を見つめたまま、数秒。

 ぶぶっ。
 追撃が来た。

『……大事な話』

「……なんだろ?」

 思わず、口をついて出る。

 大事。
 その2文字が、なんだか重い。

 重いのに、陽太っぽい。
 陽太って、こういうとき勢いで言う。勢いで言って、あとで恥ずかしくなる。そういうやつだ。

 でも、今日の陽太は、落ち着かなかった。

 大事な話って、なに……?

 あたしはスマホを握り直した。
 握り直しただけで、返事は打てない。

 教室の出口へ向かう足が、ちょっとだけ遅くなる。
 なのに、時間は待ってくれない。

 画面には、陽太の文字が残っている。

『放課後ちょっといい?』
『……大事な話』

 なんとなく、悪い予感がするのは気のせいだろうか。