日向野あかりは、親友に送るはずの恋をグルチャに誤爆した。

 そこから1年くらい経って。
 中学2年の春。

 クラス替えで、同じ教室になった。

 配られたクラス名簿を読んで、みんなが「えー!」とか「やった!」とか言ってる中で、あたしはひとりだけ、心の中で叫んでた。

 いる……! あのときの、背中の人。

 助けてもらってから、お礼を言うためにそれとなく調査した結果、名前はわかっていた。
 久住(くずみ)恒一(こういち)

 名簿の文字が、ちょっとだけ光って見えた。たぶん気のせい、目のせい。

 そこからしばらく、あたしはずっとタイミングを探していた。

 授業の終わり。
 掃除のあと。
 廊下ですれ違ったとき。

「今だ」と思うたびに、心臓だけが先に走って、肝心の声が置いていかれる。
 声って、置いていけるんだ。

 そして、ある日の放課後。
 窓の外が少しオレンジっぽくなる時間。

 あたしは、委員会の集まりが終わって、カバンを取りに教室に戻ってきた。

 だれもいない教室ってちょっと怖いから、早く帰ろう。
 そう思ってカバンを手にしたときに、久住くんの机の上にリュックが置いてあるのが見えた。

 あ、久住くん……まだ帰ってないんだ。
 もしかして、話しかけるチャンス?
 でも、待ってたみたいに思われるかもしれないし。
 でも、ふたりっきりで話せるのは今しかないんじゃない――

 ガラッ。

「――っ!」

 教室の扉が開く音に、あからさまにビクッとなってしまった。
 意識が心の中に向いていたから、すごくビックリした。

 振り向くと、久住くん。

 驚かせてごめんなさい、と伝えるかのように、頭をぺこっと下げた。
 あたしも反射でぺこっと下げる。

 なにか先生に質問してたのかな。
 席に向かう久住くんの手には、何冊かノートが抱えられていた。

 久住くんは自分の席で、机から取り出した教科書とノートをまとめてきちんと揃える。
 角まできっちり。性格が見える。ノートの角に。

 リュックの中にまとめて入れて、肩にかけつつ立ち上がる。

 あ、帰っちゃう。

 そう思って、あたしは出口に向かう久住くんにかけ寄る。
 足が勝手に動く。……いや、勝手じゃない。あたしが動かしてる。たぶん。

 一歩。二歩。

 途中で引き返したくなったけど、引き返したら、たぶん一生引き返す。

 久住くんの背中に話しかけるために、あたしは息を吸った。

「く、久住くん」

 呼びかけただけで、喉が乾く。

 久住くんは振り向く。驚いた表情は、ほとんどない。
 ただ、目だけがこちらを向く。静かに。

「はい、なんでしょうか」

 敬語。
 この頃から、ずっと敬語だった。
 それがなんだか、大人みたいで、距離みたいで。

 あたしの心臓が「うるさくするな!」って怒鳴ってるのが聞こえる。
 でも、ここまで来た。

 あたしは、言った。

「久住くん、あのさ……去年、助けてくれたよね。髪のこと」

 言えた。
 言えたのに、次が怖い。

 だって、久住くん、表情が変わらないんだもん。

 あたしは急いで、続けた。逃げ道を作るみたいに。

「あれ、嬉しかった。ありがと」

 ありがとう。
 やっと言えた。去年の分まで。

 久住くんは、少しだけ間を置いた。

 ほんの一拍。
 その一拍が、やたら長く感じた。心臓が数えるからだ。

 そして、淡々と。
 いつもの声で。

「助けたってほどではありません」

 えっ……?

「気にしないでください」

 その言葉は、優しいはずだった。
 優しい言い方だったし、久住くんの顔も別に冷たくない。

 なのに。
 あたしの中で、何かが「ピキ」って音を立てた。
 ホントに、音がした気がした。心の中で。

 あたしは、笑おうとした。

「そっか」って言おうとしたし。
「でも助かったし、お礼ぐらい言わせてよ」って、言えばよかった。

 言えばよかったのに。

 口が開かない。
 舌が固まったみたいに動かない。

 体だけが、先に反応した。
 肩がきゅっと上がって、指先が冷たくなった。

 久住くんは、変わらずそこにいる。

 まとめたノートの角みたいに、きちんとしてる。

 あたしだけが、ぐにゃってなる。

 あ、そっか。そりゃ、そうなんだ。

 喉の奥が、つんとした。
 あたしだけが、あのときのことを大事件にしてたんだ。

 久住くんにとっては、ただの一言。
 ただの通り道。
 ただの、当たり前。

 ……なのに、あたしは1年も引きずってた。

 あたしは、やっと声を見つけて、無理やり笑った。

「う、うん。わかった。じゃあ……えっと、ありがと……じゃない。えっと……」

 言い直せない。
 言葉が迷子になる。

 久住くんは困った顔をするでもなく、ただ小さく頷いた。

「はい」

 それだけ。
 それだけで、もう終わってしまった。

 あたしはその場から離れた。
 急いでカバンをつかんで、できるだけ急いで。
 歩いているのか、逃げているのか、自分でもわからないまま。

 背中に、何も刺さってないのに、刺さってるみたいだった。

 そして、決まって思う。
 次こそちゃんと話そう、って。

 でもその次が来るたび、あたしの声はまた、どこかへ隠れる。

*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+

 ――カタン。
 誰かの机の引き出しが閉まる音で、あたしは戻ってきた。

 ざわざわ。

 教室の音が、いきなり耳に入ってくる。さっきまで、あのときの放課後にいたのに。
 黒板のチョークの粉っぽいにおい。窓の外の冬の光。ストーブの前だけ、やけに人気。

 あたしは自分の席に座ったまま、ぼんやりしてたみたいで、さやが「大丈夫?」って聞いてきた。
 大丈夫じゃないけど、大丈夫の顔をつくるのは得意だ。

 へらっと笑って、うなずく。

「なんでもないよ、へーきへーき」

 声、ちょっと裏返ったけど。

 視線だけ、勝手に前へいく。
 窓際の前の方。

 久住くんは、いつも通りだった。
 いつも通りプリントを揃えて、いつも通りペンを持って、いつも通り静かに。

 さっき、教室の空気を止めた人と同じ人には見えないくらい、普通。

 ……それが、いちばんずるい。

 あたしの心臓だけ、まだシャトルランの後みたいに走ってるのに。

 お礼、言わなきゃ。
 そう思う。

「助かった」って、ちゃんと言わなきゃ。

 久住くんが悪いわけじゃない。むしろ、助けてくれた。

 なのに。
 あたしの口は、もう次の言葉を知っているみたいに、こわがってしまう。

 あの春の声。
 あの、落ち着いた敬語。

「助けたってほどじゃないです」

「気にしないでください」

 あの言い方でまた言われたら。
 あたしだけがまた、勝手に大事件にしてたみたいになったら。

 ……その瞬間を想像しただけで、喉の奥がきゅっと縮む。

 だから、今も言えない。
 立ち上がることすらできない。
 前に一歩出たら、声がちゃんとついてくる気がしない。

 久住くんはペンを置いて、ふと視線を上げる。

 たまたま、あたしの方を見る。
 目が合いそうになって、あたしは反射で目をそらした。

 ほら、これ。これがだめ。

 言いたいのに、言えない。
 言えないが積み重なって、もっと言えなくなる。

 椅子の背もたれを、ぎゅっと握る。
 まるで、しっかりつかまっていないとどこかに行ってしまうみたいに。

 久住くんの前で、あたしの声は、いつも迷子だ。