日向野あかりは、親友に送るはずの恋をグルチャに誤爆した。

 久住くんは、もう一度だけ小さく息を吸った。
 それから、あたしの方を見ないまま言った。

「日向野さんのこと、見たことがあったんです。小学校の地区の体育大会で」

 ……体育大会。あったね、地域の何校かが集まるやつ。選抜された子たちが100メートル走とか、高跳びとかする。
 あたしの頭に、運動会の砂と、ちょっと古いスピーカーの音が浮かぶ。

 久住くんは、淡々と続けた。
 でも、さっきより少しだけ、言葉が柔らかい。

「平日で……応援が、ほぼ強制みたいなやつでした。みんな、だるそうで」

 その言い方が、なんかリアルで笑いそうになる。
 分かる。平日の体育大会って、だいたいそう。選手の子たちはいっぱい練習してきてるんだけどね。

「僕は、声を出さずに……ぼーっとしてました」

 久住くんが、応援席でぼーっとしてるところ。
 想像できる。すごくできる。
 たぶん、腕組みとかしてる。声は出さない。表情も変えない。

 そこで、久住くんは少しだけ目を伏せた。
 思い出すときの目だ。

「そしたら、別の学校の応援席から……声が通ってきて」

 久住くんの声が、少しだけ小さくなる。
 まるで、遠くから聞こえたその声を、今も耳の奥で聞いてるみたいに。

「明るくて、大きくて、まっすぐで」

「それ、あたし?」

 思わず口をはさんでしまう。
 はっきりとは覚えてないけど、たしかにももとか周りの友達を応援してたかも。

 久住くんはあたしの問いにうなずき、続ける。
 心臓が、ドキドキして落ち着かない。

「その声につられて、周りが……少しずつ応援し始めたんです」

 久住くんの見ていた景色が、あたしの前に広がる。
 だるそうに座ってた子が、顔を上げる。
 手を叩く音が、ぽつ、ぽつ、って増える。
 最初は恥ずかしそうな小さい声が、だんだん混ざっていく。

「……僕のほうの席からも、声が出ました」

 久住くんが、びっくりしたみたいに、短く言った。

「空気って、変わるんだって思いました」

 その言葉が、胸に落ちた。
 久住くんの「止める」は、正しさじゃなくて、空気を変えることなんだ。
 あたしは、今さら気づく。

 久住くんは、少し間を置いてから、最後にこう言った。

「日差しの下で、髪が……きらきらして見えて。印象に残ってたので、覚えてました」

 ……髪。

 あたしは反射で、自分の髪先を指でつまんだ。
 普段なら、ただの茶色。
 でもその瞬間だけ、昔の太陽がそこにあるみたいで。

 久住くんの言葉は、静かなのに、ちゃんと熱があった。
 あたしがずっと「助けられた」って握りしめてたものに、別の意味が足されていく。

 見てたんだ……あたしのこと。

 その事実が、うれしいのか怖いのか。
 どっちもで、いちばん困る。

*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+

 久住くんは、体育大会の話を終えると、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
 それでも、声はいつも通り静かだった。

「だから、小学校の時からその色だと事実を伝えただけなので、助けられたなんて思わなくていいです」

 きっぱりと、突きつけるように告げられる。
 でも、距離を置かれたとは思わない。

「先生の言い方が、決めつけているようで止めたかったんです」

 ……だから。
 久住くんの言葉が、頭の中で順番に並ぶ。

 あたしは「助けてくれた」って言葉を、のどの手前まで持ってきて、いったん引っ込めた。
 それより先に、もっと変なやつが胸に落ちたから。

 見てたんだ。

 あの日。
 廊下で止められて、先生に「地毛ねえ」とか言われてた、あのとき。
 あたしは世界でいちばん困ってたのに、久住くんは世界でいちばん冷静に見えた。

 でも、冷静って、何も見てないって意味じゃなかった。

 顔が、じわっと熱くなる。
 暖房のせい、ってことにしたい。
 でも暖房って、こんなに都合よく頬だけあっためてくれたっけ。

「……」

 あたしは、寒いわけじゃないのに手をさすった。
 思ったよりその音が響いて、どきっとする。

 久住くんは、あたしが黙ってるのを急かさなかった。
 言葉を待つ、っていうより、今の空気をちゃんと置いておく、みたいに。

 止めたかったんです、って。

 その言い方が、かっこよすぎてずるい。
 しかも、あたしの方を見てたって話のあとに言うのが、もっとずるい。

 あたしはやっと顔を上げて、でも目はちゃんと合わせられなくて、久住くんの制服のボタンあたりを見ながら言った。

「……そっか」

 それだけなのに、心臓がうるさい。
 さっきまでの“うれしい”とか“こわい”とかが、ぐちゃぐちゃのまま、ひとつだけはっきりする。

 あたしは、助けられたと思ってた。
 でも、それより先に。

 見られてたんだ。

 胸の中で、その事実が、静かに光った。

*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+

 あたしの「そっか」が、廊下の空気に落ちて、ころん、と転がった気がした。

 久住くんは、いつもみたいに「気にしないでください」とは言わなかった。
 代わりに、ほんの少しだけ、息を吸う。

 そして、短い一言を置いた。

「日向野さんが笑われるのは、嫌です」

 ……え。

 言った本人が、いちばん驚いたみたいに。
 久住くんは、ほんの小さく目を瞬いて、言葉のあとに一拍だけ空白をつくった。
 自分の口から出た音を、確認してるみたいな間。

 あたしは、その一拍で、全部持っていかれた。

 ずるい。そんなの、心臓が勝てない。

 胸が、ぎゅっとなる。
 苦しいんじゃない。むしろ、変に元気。
 心臓だけ、部活でも始めたのかってくらい走ってる。

 あたしは、笑ってごまかしそうになった。
 いつものクセ。反射。
 でも、その瞬間、さやの顔が浮かんだ。ももの声も浮かんだ。
 そして、今日の自分の逃げ方が、全部思い出された。

 もう、やめよう。

 あたしは、手をぎゅっと握って、息をひとつだけ深く吸った。
 声が迷子になりそうなら、迷子のままでもいい。
 止まらなければいい。

 今度は、逃げない。
 あたしが、止める。
 笑ってごまかすんじゃなくて。

 久住くんは、相変わらず静かな顔で、でもちゃんとあたしを待っている。
 その「待ってる」が、なんだか、すごく頼もしい。

 あたしは、心の中で決めた。
 明日は、あの教室で。

 逃げない。
 線を引く。

 ――明日は、言う。
 ちゃんと、線を引く。