日向野あかりは、親友に送るはずの恋をグルチャに誤爆した。

 朝。
 目が開いた瞬間、昨日の自分が出てきた。

「……やっぱ、なんでもない」

 あの声。あの空気。あの距離。
 布団の中なのに、廊下の冷たさまで思い出すの、やめてほしい。

 枕に顔をうずめた。
 叫びたいのに、叫んだら家族が来る。
 だから、心の中だけで叫ぶ。

 あたしのバカ!

 スマホの時計を見る。
 うそ。もうこんな時間。
 寝た気がしない。たぶん、寝てない。
 昨日の後、ずっと反省会が終わらなかった。

 顔を洗う。
 歯をみがく。
 前髪を整える。
 こういう“普通”のことをしてると、ちょっとだけ安心する。
 でも、鏡の中の自分は、目がほんの少し赤い。夜更かしの赤。

 逃げたままだと、ずっとこのままだ。

 学校に着くころには、気持ちの中に小さな決定ができていた。
 小さいけど、固い。石みたいなやつ。

 言う。今日は言う。

 ……と言いながら、教室のドアの前で、いったん深呼吸した。
 肺が冷たい空気を吸う。
 その冷たさで、「あ、現実だ」って分かる。

 授業は、いつも通り進む。
 黒板。ノート。先生の声。
 友達の笑い声。
 たまに、さやがこっちを見てくる。
 心配と、ちょっとの気まずさが混ざった目。
 あたしは「大丈夫」って顔を作って、うなずく。
 作ってるって、自分がいちばん分かる。

 久住くんは、今日も久住くんだった。
 静か。丁寧。無駄がない。
 あたしの心臓だけが、ずっと忙しい。

 放課後。
 教室が少しずつ空っぽになっていく。
 机を引く音。カバンのチャックの音。
「じゃあねー」の声が廊下に流れていく。

 昨日の自分が、また背中からついてくる。

 昨日も、こうだった。

 でも、今日は違う。
 違うって決める。
 決めないと、また同じになる。

 あたしは、ノートを閉じる手に力を入れた。
 爪がちょっと白くなる。
 それくらいで、よしとする。
 心臓が止まるよりはいい。

 久住くんを探す。
 探すって言うほどじゃない。
 だって、だいたい窓際の前。
 そこにいる。

 いた。
 プリントを揃えている。
 角をきっちり合わせて、重ねて、持つ。
 昨日と同じ動き。
 昨日と同じ背中。

 だからこそ、昨日の“逃げ”が、急に恥ずかしくなる。
 相手は何も変わってないのに、あたしだけが勝手にぐちゃぐちゃで、勝手に逃げた。

 逃げたままだと、ずっとこのままだ。

 足が、前に出る。
 昨日みたいに「今だ」と思う。
 でも今日は、その「今だ」のあとに、もう一個、言葉を足す。

 今だ。……でも、逃げない。

 廊下に出る前に、もう一回深呼吸した。
 息が白い。
 十二月って、息まで目立つ。
 今日のあたしには、ちょうどいい。隠せない感じが。

 言う。今日は言う。

 あたしは、久住くんの背中に向かって、ゆっくり近づいた。
 逃げたくなる足を、ちゃんと自分で止めながら。

*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+

 久住くんの背中は、今日も静かだった。
 プリントの角をそろえる手つきまで、落ち着いてる。

 あたしの心臓だけが、勝手に短距離走。

 落ち着け。落ち着け。体育じゃない。

 あと一歩。
 声を出す。
 ……出す。

 口を開くと、昨日の失敗が、のどの奥で待ち構えてた。
 熱い。つかえる。
 でも今日は、それに勝つ日。

 あたしは、息を一回だけ吸って、そのまま押し出した。

「久住くん、昨日の……さっきの……じゃなくて。今、少しだけ、いい?」

 言いながら、あれ?って思う。
「昨日」も「さっき」も、たぶん今じゃない。
 時間が迷子。言葉も迷子。
 でも、止まらなかった。そこが大事。

 自分の声がちゃんと空気を揺らしたのを聞いて、あたしは内心で小さくガッツポーズをした。
 実際にはしてない。したら絶対変だから。変な子だから。

 久住くんは、プリントを持ったまま、ゆっくり振り向いた。
 表情は大きく動かない。
 でも、目だけが「聞いてます」って言ってる。

「はい。大丈夫です」

 敬語。淡々。いつも通り。
 その“いつも通り”が、今のあたしにはちょっとだけ救いだった。

 ……よし。声、出た。次。次だ、あたし。

 あたしは、逃げないために、足の裏に力を入れた。
 床がちゃんと固い。
 それだけで、少しだけ前に進める気がした。

*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+

 久住くんの「大丈夫です」が落ちたあと、廊下の音が少しだけ戻ってきた。
 遠くでバスケ部のボールが床を叩く音。誰かの笑い声。先生の足音。

 でも、あたしの周りだけ、透明な箱みたいに静かだった。

 言うって決めた。……言う。

 言葉って、出す前がいちばん重い。
 出た瞬間に「え、こんなもん?」って軽くなるのに。

 あたしは、息をひとつ飲んで、ちゃんと順番を守った。
 責めない。先に「嬉しかった」を言う。

「中1のとき。髪のこと、先生に言われたやつ」

 口にしただけで、映像が一瞬よぎる。
 廊下。先生の顔。自分の声。
 それより、横から入ってきた久住くんの一言。

 あたしは、その一言を、今の声でつかまえ直す。

「あの時、助けてくれたの、嬉しかった」

 言えた。
 言えた瞬間、胸の真ん中にずっとあった小石が、ちょっとだけ転がった気がした。

 ……あ、軽い。ほんのちょっとだけど。

 久住くんは、すぐには返事をしなかった。
 目をそらさない。うなずきもしない。
 ただ、聞いてる。

 その“間”が、怖いようで、変にやさしい。
 急いで否定されるより、ずっとましだった。

 だからあたしは、次も言った。
 ここが本題。ここが、ずっと引っかかってたところ。

「でも春に、お礼言ったとき」

 声が少しだけ小さくなる。
 のどが熱くなる。
 でも、止めない。今日は止めない日。

「『助けたってほどじゃないです』って言われて……」

 言った瞬間、また胸がきゅっとなる。
 あの時の放課後の空気が、すこしだけ戻ってきた。
 夕方の窓の光とか、帰りのざわざわとか。
 その中で、あたしだけが固まった感じ。

 あたしは、久住くんを責めたくなかった。
 だから、矢印を自分に戻す。
 ほんとの痛みは、そこにあるから。

「……あたしだけ、勝手に大事にしてたみたいで、恥ずかしくなった」

 言ったら、今度は胸が軽くなるっていうより、すうっと冷える感じがした。
 冷えるけど、いやじゃない。
 やっと外の空気に触れた、みたいな冷たさ。

 久住くんは、まだすぐに言葉を返さない。
 でも、眉がほんの少しだけ動いた。
 困ってるのか、考えてるのか、どっちか分からない。

 あたしは、その沈黙が終わる前に、逃げないように、指先に力を入れた。

 ここまで言えた。もう、引き返さない。

 指先に力を入れたまま、あたしは久住くんの返事を待った。
 廊下の空気が、冬のせいでちょっと固い。

 久住くんは、少しだけ息を吸ってから言った。
 声は小さい。いつもの敬語。
 でも、逃げない声だった。

「……前も伝えたと思いますが、助けたつもりはなかったです」

 え。
 あたしの目だけが、勝手にぱちぱち動く。

「え、じゃあ……」

 口まで出かけたのに、続きが出ない。
 言葉が、また迷子になりそうになる。
 あたしは飲み込んだ。今日は飲み込むのも、ちゃんと選ぶ。

 久住くんは、続ける。

「あのときの先生の言い方が、よくないと思っただけで」

 その言い方が、変にまっすぐで。
 言い訳じゃなくて、説明みたいで。
 あたしの頭が、追いつけない。

 久住くんは、少しだけ言い直すみたいに、言葉を足した。

「決めつける言い方が、嫌でした」

 その一言で、カチッと何かがはまった。
 空気を止めたときの声。
 線を引いたときの声。
 全部、同じところから出てる。

 久住くん、そういう人なんだ……。

 でも、分かったのに、分からない。
 助けたつもりがないって、どういうこと?
 だって、小学校から茶髪だって久住くんは知らないでしょ?

 あたしの中の「救われた」が、行き場を探してうろうろする。

 あたしがまた口を開きかけた、そのとき。

 久住くんが、ほんの少し視線を外した。

 いつもなら、まっすぐか、机か、プリントか。
 そういう置き場所が決まってる目が、今日は落ち着かない。

 そして、久住くんは口を開けたまま、一瞬止まった。

 ……止まった。
 言葉じゃなくて、動きが止まった。

 え。いまの顔……。

 まぬけ、って言ったら失礼なんだけど。
 まぬけというより、「えっと……」が顔に出てる。
 教科書の間にしおり挟み忘れた人の顔。

 あたしは思わず、心の中でツッコミを入れてしまった。

 久住くんも、迷うんだ。

 その瞬間、怖さがほんの少しだけ減った。
 完璧に見えた人が、ちょっと人間になった感じ。

 久住くんは、開けた口をいったん閉じて、また息を吸う。
 言おうとしてるのに、選んでる。
 珍しく、迷ってる。

 あたしは黙って待った。
 今は、あたしの番じゃない。
 久住くんの「本音」が出てくる手前の、いちばん大事な間だった。