校門のあたりは、放課後のわりに静かだった。
部活の声は校庭の向こうに流れていって、ここまで届くのは、かすれた笛の音くらい。
あたしはマフラーをぎゅっと握って、歩幅を少しだけ速める。
さっきの「ふーん」が、まだ背中にくっついてる気がした。
……このまま帰ったら、明日が地獄じゃない?
そんなことを考えた瞬間。
「待って!」
背中に、走る足音。
あたしは反射で振り向いた。
さやが、ちょっと息を切らして立っていた。
髪がふわっと揺れて、頬が少し赤い。寒いからだけじゃない色。
「……なに、走ってんの。髪ぐちゃぐちゃにして」
あたしは笑おうとして、失敗した。
口だけが動いて、目が笑えない。
さやは一度だけ、目をそらした。
照れたみたいに、手で前髪をととのえる。
「……ねえ、あかり」
その呼び方が、いつもより小さくて、まじめだった。
あたしの心臓が、勝手に身構える。
さやは、ゆっくり息を吸ってから言った。順番を守るみたいに。
「……知らないのが嫌なんじゃなくて。いや、言ってほしいとは思ったけど……」
いつものはっきりとした口ぶりではなく、固いクリームをしぼりだすように言葉をつむぐ。
「……あのね、あかりが、しんどそうにしてる方が嫌」
言い終わったあと、さやは少しだけ顔をしかめた。
なんか、言い慣れてない言葉を出したみたいに。
「……なにその顔」
あたしの声が、やっと出た。
でも笑いじゃなくて、ほっとした声。
胸の奥が、じわっと熱くなる。
それがうれしいのか、恥ずかしいのか、よく分からない。
「ごめん……さやに言ったほうがいいなって思うこと、言えなかった」
あたしはマフラーを見たまま言った。
「言ったら、もっと変になりそうで……でも、今、もう変だったよね」
最後の一言は、自分で言って、ちょっと笑ってしまった。
変っていうか、だいぶ変。
プリント落とすし、廊下で掲示物に人生かけてたし。
さやが、鼻で小さく笑った。
「……うん。変だった」
短いくせに、やさしかった。
さっきの冷たい「ふーん」と違う。
さやは少しだけ近づいて、あたしの横に並ぶ。
並んだのに、見つめてこない。そこが、さやらしい。
「今度ちゃんと、聞かせて。逃げないで」
“助ける”じゃない。
“聞く”。
それが、妙にあたしの胸に落ちた。
あたしは、ちょっとだけ喉が詰まって、うなずいた。
「……うん。逃げない」
たぶん。できるだけ。いや、がんばる。
言葉にしない続きが、頭の中でわちゃわちゃする。
でも、さっきまでの“ひとりで詰んでる感じ”が、少しだけほどけた。
校門の外の風が、また吹いた。
寒いのに、さっきより痛くなかった。
*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+
さやと別れて、駅とは反対の道を少しだけ歩いた。
帰り道って、いつもは勝手に足が覚えてるのに、今日は一歩ごとに考えごとがついてくる。
手袋の中で、指をぎゅっと握る。
寒いから……ということにしておく。
さや、追いかけてきてくれたんだ。
その事実だけで、胸がふわっとする。
ふわっとして、次の瞬間、ずしっともする。
今日のあたし、感情が雪だるまみたいに転がってる。
ふと、昼の教室が浮かぶ。
「ヒント!」「誰?」「え、公式?」って声。
あたしは笑って、手をぶんぶん振って、「ちがうちがう!」って言って。
止めたつもりで、火に息ふーってかけてた。
あれ、止めてないじゃん。
笑ってると、みんなも「笑っていいやつ」って思う。
だから、もっと言う。
もっと近づく。
もっと、勝手に決める。
久住くんが止めてくれたとき。
陽太が「普通にする」って言ってくれたとき。
さやが「しんどそうなのが嫌」って言ってくれたとき。
あたしは、助かった。
でも、それに甘えて、また笑ってごまかしてた。
歩きながら、息が白くなる。
白い息って、しゃべらないでも出るんだなって、どうでもいいことを思う。
しゃべる方は、すぐ迷子になるのに。
……笑って流すのやめよう。
頭の中で言ってみる。
声にしないのに、ちょっとだけ勇気が要る。
だから、たぶんこれは本物。
誰かが止めてくれるの待つんじゃなくて。
久住くんの「やめてください」が浮かぶ。
あの声は小さいのに、空気が止まった。
止まるのは、腕力じゃなくて、言葉だった。
あたしが言わなきゃ。
そう思った瞬間、心臓が「え、マジ?」って顔をした気がする。
こわい。
こわいけど、今日のままだと、もっとこわい。
あたしは信号の前で立ち止まって、マフラーを直した。
ついでに、息もひとつ整える。
……小さくでいい。いきなり強く言わなくていい。
まずは、笑わないで言う。
目をそらさないで言う。
それだけで、きっと今までよりは違う。
青になった信号を渡りながら、あたしは自分に、ほんの小さく約束した。
*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+
次の日の放課後。
さやと校門で話したときの、胸の中に小さな火をしまったまま、あたしは教室に残っていた。
今日できるのは、深呼吸と、ごまかさないこと。
ももの声も、さやの声も、頭の中で順番に鳴る。
鳴るのに、久住くんの声だけは、いつも最初に割り込んでくる。
あの、小さくて、逃げ場のない敬語。
久住恒一は、いつも通りだった。
窓際の前の席で、プリントを揃えている。
角をぴしっと合わせて、重ねて、持つ。
まるで“紙の気持ち”を聞いてるみたいに丁寧だ。
……今だ。
誰かが「部活行くねー」と言って出ていく。
掃除当番がバケツを持って廊下に出る。
さやも女子のグループに呼ばれて、振り返って手を振って、出ていった。
教室に残る音が減っていく。
チャイムが鳴ったあとの学校って、妙に広い。
久住くんが立ち上がって、ノートの束を抱えた。
職員室に質問しにいくのか、それとも提出しにいくのか。とにかく、歩き出す。
止めるなら今。言うなら今。
あたしは椅子を引いた。
ギギ、と音がして、心臓がその音にびっくりする。
いや、あたしの心臓は、今日ずっとびっくりしてる。
廊下に出ると、冷たい空気が顔に当たった。
窓の外はもう薄い夕方で、部活の声が遠くに小さく混ざっている。
久住くんは、廊下の角を曲がる手前で、いったん立ち止まった。
背中がまっすぐで、動きが無駄じゃない。
話す。笑わない。逃げない。
あたしは、足を一歩前に出した。
なぜか、体育のスタートみたいに、体が固い。
「久住くん……話があります」
言えた。
言えたのに、次の瞬間、世界がいったん静かになる。
久住くんが、ゆっくり振り向いた。
目が合う。
その目は、この前の“何も言わない目”とは違う。
ちゃんと、こっちを見ている。
「……何でしょうか」
やっぱり敬語。
その一言が、あたしの胸の中のボタンを押したみたいに、心臓が急に速くなる。
言うんだよ。お礼。ちゃんと言うんだよ。
口を開く。
――のに。
音が出ない。
喉が、急に熱い。
熱くて、からっぽで、ひっかかってる。
さっきまで頭の中にあった言葉が、ぜんぶ逃げる。
視線が落ちる。
床の線。ワックスの光。自分の靴のつま先。
どうでもいいものが、急に全部はっきり見える。
見なくていいのに。
あたしは、一歩、下がった。
たった一歩なのに、「逃げました」って看板を背中に貼った気がする。
「……やっぱ、なんでもない」
出た声は、自分のじゃないみたいに小さい。
しかも、最悪のセリフ。
最悪ランキング、堂々の一位。
久住くんは、何か言いかけたみたいに口を少し動かした。
でも、結局、言わなかった。
押しつけない人だから。たぶん。
その優しさが、今はつらい。
あたしは「ごめん」とも言えずに、ぺこっと変な角度で頭を下げて、廊下を早足で戻った。
走ってない。
でも、たぶん、心だけは全力疾走してる。
逃げたの、自分なのに、いちばん悔しい。
教室のドアを開けて、誰もいない机の間を通って、自分の席に戻る。
座っても、落ち着かない。
手が冷たいのに、喉だけ熱い。
言えなかった。
また、逃げた。
部活の声は校庭の向こうに流れていって、ここまで届くのは、かすれた笛の音くらい。
あたしはマフラーをぎゅっと握って、歩幅を少しだけ速める。
さっきの「ふーん」が、まだ背中にくっついてる気がした。
……このまま帰ったら、明日が地獄じゃない?
そんなことを考えた瞬間。
「待って!」
背中に、走る足音。
あたしは反射で振り向いた。
さやが、ちょっと息を切らして立っていた。
髪がふわっと揺れて、頬が少し赤い。寒いからだけじゃない色。
「……なに、走ってんの。髪ぐちゃぐちゃにして」
あたしは笑おうとして、失敗した。
口だけが動いて、目が笑えない。
さやは一度だけ、目をそらした。
照れたみたいに、手で前髪をととのえる。
「……ねえ、あかり」
その呼び方が、いつもより小さくて、まじめだった。
あたしの心臓が、勝手に身構える。
さやは、ゆっくり息を吸ってから言った。順番を守るみたいに。
「……知らないのが嫌なんじゃなくて。いや、言ってほしいとは思ったけど……」
いつものはっきりとした口ぶりではなく、固いクリームをしぼりだすように言葉をつむぐ。
「……あのね、あかりが、しんどそうにしてる方が嫌」
言い終わったあと、さやは少しだけ顔をしかめた。
なんか、言い慣れてない言葉を出したみたいに。
「……なにその顔」
あたしの声が、やっと出た。
でも笑いじゃなくて、ほっとした声。
胸の奥が、じわっと熱くなる。
それがうれしいのか、恥ずかしいのか、よく分からない。
「ごめん……さやに言ったほうがいいなって思うこと、言えなかった」
あたしはマフラーを見たまま言った。
「言ったら、もっと変になりそうで……でも、今、もう変だったよね」
最後の一言は、自分で言って、ちょっと笑ってしまった。
変っていうか、だいぶ変。
プリント落とすし、廊下で掲示物に人生かけてたし。
さやが、鼻で小さく笑った。
「……うん。変だった」
短いくせに、やさしかった。
さっきの冷たい「ふーん」と違う。
さやは少しだけ近づいて、あたしの横に並ぶ。
並んだのに、見つめてこない。そこが、さやらしい。
「今度ちゃんと、聞かせて。逃げないで」
“助ける”じゃない。
“聞く”。
それが、妙にあたしの胸に落ちた。
あたしは、ちょっとだけ喉が詰まって、うなずいた。
「……うん。逃げない」
たぶん。できるだけ。いや、がんばる。
言葉にしない続きが、頭の中でわちゃわちゃする。
でも、さっきまでの“ひとりで詰んでる感じ”が、少しだけほどけた。
校門の外の風が、また吹いた。
寒いのに、さっきより痛くなかった。
*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+
さやと別れて、駅とは反対の道を少しだけ歩いた。
帰り道って、いつもは勝手に足が覚えてるのに、今日は一歩ごとに考えごとがついてくる。
手袋の中で、指をぎゅっと握る。
寒いから……ということにしておく。
さや、追いかけてきてくれたんだ。
その事実だけで、胸がふわっとする。
ふわっとして、次の瞬間、ずしっともする。
今日のあたし、感情が雪だるまみたいに転がってる。
ふと、昼の教室が浮かぶ。
「ヒント!」「誰?」「え、公式?」って声。
あたしは笑って、手をぶんぶん振って、「ちがうちがう!」って言って。
止めたつもりで、火に息ふーってかけてた。
あれ、止めてないじゃん。
笑ってると、みんなも「笑っていいやつ」って思う。
だから、もっと言う。
もっと近づく。
もっと、勝手に決める。
久住くんが止めてくれたとき。
陽太が「普通にする」って言ってくれたとき。
さやが「しんどそうなのが嫌」って言ってくれたとき。
あたしは、助かった。
でも、それに甘えて、また笑ってごまかしてた。
歩きながら、息が白くなる。
白い息って、しゃべらないでも出るんだなって、どうでもいいことを思う。
しゃべる方は、すぐ迷子になるのに。
……笑って流すのやめよう。
頭の中で言ってみる。
声にしないのに、ちょっとだけ勇気が要る。
だから、たぶんこれは本物。
誰かが止めてくれるの待つんじゃなくて。
久住くんの「やめてください」が浮かぶ。
あの声は小さいのに、空気が止まった。
止まるのは、腕力じゃなくて、言葉だった。
あたしが言わなきゃ。
そう思った瞬間、心臓が「え、マジ?」って顔をした気がする。
こわい。
こわいけど、今日のままだと、もっとこわい。
あたしは信号の前で立ち止まって、マフラーを直した。
ついでに、息もひとつ整える。
……小さくでいい。いきなり強く言わなくていい。
まずは、笑わないで言う。
目をそらさないで言う。
それだけで、きっと今までよりは違う。
青になった信号を渡りながら、あたしは自分に、ほんの小さく約束した。
*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+
次の日の放課後。
さやと校門で話したときの、胸の中に小さな火をしまったまま、あたしは教室に残っていた。
今日できるのは、深呼吸と、ごまかさないこと。
ももの声も、さやの声も、頭の中で順番に鳴る。
鳴るのに、久住くんの声だけは、いつも最初に割り込んでくる。
あの、小さくて、逃げ場のない敬語。
久住恒一は、いつも通りだった。
窓際の前の席で、プリントを揃えている。
角をぴしっと合わせて、重ねて、持つ。
まるで“紙の気持ち”を聞いてるみたいに丁寧だ。
……今だ。
誰かが「部活行くねー」と言って出ていく。
掃除当番がバケツを持って廊下に出る。
さやも女子のグループに呼ばれて、振り返って手を振って、出ていった。
教室に残る音が減っていく。
チャイムが鳴ったあとの学校って、妙に広い。
久住くんが立ち上がって、ノートの束を抱えた。
職員室に質問しにいくのか、それとも提出しにいくのか。とにかく、歩き出す。
止めるなら今。言うなら今。
あたしは椅子を引いた。
ギギ、と音がして、心臓がその音にびっくりする。
いや、あたしの心臓は、今日ずっとびっくりしてる。
廊下に出ると、冷たい空気が顔に当たった。
窓の外はもう薄い夕方で、部活の声が遠くに小さく混ざっている。
久住くんは、廊下の角を曲がる手前で、いったん立ち止まった。
背中がまっすぐで、動きが無駄じゃない。
話す。笑わない。逃げない。
あたしは、足を一歩前に出した。
なぜか、体育のスタートみたいに、体が固い。
「久住くん……話があります」
言えた。
言えたのに、次の瞬間、世界がいったん静かになる。
久住くんが、ゆっくり振り向いた。
目が合う。
その目は、この前の“何も言わない目”とは違う。
ちゃんと、こっちを見ている。
「……何でしょうか」
やっぱり敬語。
その一言が、あたしの胸の中のボタンを押したみたいに、心臓が急に速くなる。
言うんだよ。お礼。ちゃんと言うんだよ。
口を開く。
――のに。
音が出ない。
喉が、急に熱い。
熱くて、からっぽで、ひっかかってる。
さっきまで頭の中にあった言葉が、ぜんぶ逃げる。
視線が落ちる。
床の線。ワックスの光。自分の靴のつま先。
どうでもいいものが、急に全部はっきり見える。
見なくていいのに。
あたしは、一歩、下がった。
たった一歩なのに、「逃げました」って看板を背中に貼った気がする。
「……やっぱ、なんでもない」
出た声は、自分のじゃないみたいに小さい。
しかも、最悪のセリフ。
最悪ランキング、堂々の一位。
久住くんは、何か言いかけたみたいに口を少し動かした。
でも、結局、言わなかった。
押しつけない人だから。たぶん。
その優しさが、今はつらい。
あたしは「ごめん」とも言えずに、ぺこっと変な角度で頭を下げて、廊下を早足で戻った。
走ってない。
でも、たぶん、心だけは全力疾走してる。
逃げたの、自分なのに、いちばん悔しい。
教室のドアを開けて、誰もいない机の間を通って、自分の席に戻る。
座っても、落ち着かない。
手が冷たいのに、喉だけ熱い。
言えなかった。
また、逃げた。
