日向野あかりは、親友に送るはずの恋をグルチャに誤爆した。

 廊下の掃除は、思ったより長い。

 ほうきで集めたホコリが、ふわっと舞う。
 それだけで咳き込みそうになるのに、あたしの心臓のほうが先にゼーゼーしてる気がした。

「あれ、久住(くずみ)日向野(ひなたの)、ペアじゃん!」
「え、公式?」

 また、後ろから笑い声。
 誰かが面白がって、誰かが乗っかって、気づいたら“それ”が空気になっている。

 廊下の窓から、冬の光が白く入る。
 体育館のほうから、部活の声が遠くで跳ねている。

 現実はちゃんと動いてるのに、あたしだけ足が地面からちょっと浮いてるみたいだった。

 久住くんは、いつも通りに掃除していた。
 ほうきの動きも、目線も、静か。
 囃し立ての声が聞こえてないわけじゃないと思う。だって、耳って基本ついてるし。

 でも、久住くんは反応しない。

 止めない。
 注意しない。
 振り向きもしない。

 ただ、集めたゴミをちりとりに入れて、黙って前に進む。

 あたしはほうきを動かしながら、横目で見てしまう。
 見ないって決めてたのに、こんなときだけ視界が勝手に探す。

 久住くんの表情は変わらない。
 ほんとに、いつも通り。
 まるで、廊下の空気が「普通」のままって信じてるみたいに。

 囃し立てがまた来る。

「日向野、避けんなよー」
「照れてんの?」

 笑い声。
 あたしは、反射で笑いそうになるのを飲み込んだ。
 飲み込んだのに、口の端がピクって動いて、変な顔になった気がした。

 やば。いまの顔、絶対ダサい。

 久住くんは、ゴミ袋の口を結ぶ。
 きゅっ、と紐を引く音だけが、変に大きく聞こえた。

 その音に、あたしは勝手に期待してしまう。

 たとえば、こっちを見てくれるとか。
 たとえば、「やめろ」って言ってくれるとか。
 たとえば、あのときみたいに、空気を止めるとか。

 でも、何もない。

 久住くんは、結んだ袋を持って、ゴミ捨て場のほうへ歩く。
 背中はまっすぐで、迷いがない。
 あたしがいることも、いないことも、同じみたいに。

 ……それが、痛かった。

 あたしはほうきを止めそうになって、慌てて動かし続けた。
 止めたら、また「ほら見て」って空気になる。
 だから、動く。動くしかない。

 けど、胸の奥は、勝手に置いていかれる。

 助けてほしいんじゃない。……でも、何もないみたいにされると、ちょっと……。

 言葉にした瞬間、余計に自分が小さく思えた。
 わがままみたいで。
 でも、わがままじゃなくて、たぶん、ただ。

 あたしの中でだけ、いろんな音がうるさかった。

 笑い声。
 ほうきの音。
 遠くの部活。
 久住くんの、いつも通りの沈黙。

 その沈黙が、優しいのか冷たいのか。
 あたしには、まだ分からない。

*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+

 放課後。
 教室の窓がオレンジに染まって、黒板の文字だけがやけにくっきり見えた。

 あたしは机にカバンを乗せて、チャックを閉める。
 閉める。
 ……閉める。
 同じ動作を二回やって、やっと気づいた。

 あれ? 今、閉めたよね。

「……あかり」

 さやの声が、近い。
 いつもと同じ距離。
 なのに今日は、ちょっと遠く聞こえた。

「ねえ、さっきの掃除の時さ。大丈夫? なんか、顔、死んでた」

「え、死んでないし」
 口が勝手に返事をする。
 笑いも勝手についてくる。
 でも、うまく曲がらなくて、変な形になった。

 さやが、あたしの顔をじっと見る。
 笑ってるのに、目だけ笑ってない。
 その目が、ちょっと刺さる。

「……ていうかさ」

 さやは声を少しだけ落とした。

「今日、ずっと上の空じゃない? 話しかけても、ふわってしてる」

「ふわってしてないよ。……冬だし」

「なにそれ、意味わかんない」

 さやの声が、ぴしっと硬くなる。
 教室の後ろで、誰かが机を引く音がして、妙に大きかった。

 あたしは、あわてて言い直そうとする。

「いや、ちが……冗談、冗談。ごめん。ちょっと、いろいろあって」

「いろいろって、なに?」

 さやの言い方は責めてるっていうより、知らなきゃって必死な感じだった。
 置いていかれたくない、って空気。
 それが分かるから、余計に言えない。

 言えばいいのに。言わない。いつも通り、へらへらして。

「……なんでもないってば」

 あたしは笑って、カバンを肩にかける。
 逃げる準備みたいに。

 さやの眉が、ほんの少し動いた。

「……ふーん」

 いつもなら、その「ふーん」は冗談の合図なのに。
 今日は、終わりの合図みたいだった。

 さやはそれ以上聞かない。
 聞かないけど、背中がちょっと硬い。

 あたしは廊下に出ようとして、足が止まる。
 呼び止めたいのに、声が出ない。
 いつも通りだ。

「じゃ……また明日」

「……うん」

 短くて、冷えた返事。

 教室の外に出た瞬間、空気がひんやりして、肺が少し楽になった。
 でも、胸の奥は、逆にぎゅっとなる。

 さやにまで、こんなに下手って、最悪だ。

 あたしは、笑いをしまう場所が分からないまま、廊下を歩き出した。