日向野あかりは、親友に送るはずの恋をグルチャに誤爆した。

 朝の駅って、なんであんなに元気なんだろう。
 みんな急いでるのに、顔はわりと平気そうで。あたしだけ、心臓が小走りしてる。

 改札を通って、階段をのぼって、通学路を進んで、校門をくぐる。
 いつもの道。いつもの冬。息が白い。

 なのに。

 頭の中だけ、昨日の教室にいる。

 誰かの笑い声が、途中で切れた音。
「それ以上はやめてください」って、あの低い声。
 そのあとに落ちてきた、爆弾みたいな一言。

「もしかして久住(くずみ)日向野(ひなたの)のこと好きなんじゃね?」

 ……やめて。
 あの言い方、まだ耳に残ってる。

 そして、最後に。

 久住くんの目。

 あの目、昨日からずっと消えない。
 消えないくせに、どんな意味が込められていたかは分からない。
 もしかしたら、勝手なことを言われて迷惑してると伝えたかったのかもしれない。

 わかるのは、あたしのほうが勝手に“意味”を探してるってことだけ。
 ただ、あたしを見ただけなのに。

 校舎に入ると、暖房の匂いがした。
 靴箱の前で、誰かが「おはよー」って言っている。
 あたしも「おはよー」って返した。声はちゃんと出る。ここでは出る。

 問題は、教室のドアの前。

 ドアノブが、やけに冷たそうに見える。
 手を伸ばすだけなのに、体が一秒だけ止まる。

 入ったら、いるよね。
 久住くんが。

 目が合ったら、どうしよ。
 いや、合うに決まってるでしょ。同じ教室なんだから。

 でも昨日みたいに、あの一瞬が来たら。

 あたしは、また逃げる。
 逃げたって、バレる。
 逃げたくせに、心臓だけは置いていかれる。

 ……深呼吸。
 息を吸うと、喉が少しだけ痛い。冬だ。

「よし」

 誰に言ったのか分からない声で、あたしはつぶやいて。

 教室のドアを、開けた。

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 最近は、あまり教室にいたくないからぎりぎりに登校してる。
 そうすると、ドアを開けた瞬間の音圧が強いんだよね。
 予想通り、ドアを開けると教室の音がどっと耳に入ってきた。
 机を引く音、椅子のきしみ、誰かの笑い声。いつもの朝。
 
 ……いつもの朝、のはずなのに。

 あたしの中だけ、警報が鳴ってる。ピピピピ、みたいなやつ。
 しかも止め方が分からないタイプ。

「おはよー」

 とりあえず、明るい声を出してみる。声だけは元気。声だけ。
 さやが手を振ってくるのが見えて、あたしも振り返す。これはいつも通り。

 問題は、そこじゃない。

 教室の前のほう。窓際。
 久住くんの席。

 ……いる。

 いるけど、昨日のあの人じゃないみたいに、静かだった。

 久住くんはいつも通り、机の上にプリントをそろえていた。
 角をぴしっと合わせて、上から軽く押さえる。
 教科書を開いて、必要なページに付せんをはさむ。
 ペンケースを、無駄なく置く。

 その一連の動きが、なんていうか、落ち着きすぎてる。

 なに? 朝のルーティン動画?

 いや、動画じゃない。現実。
 あたしの目の前で、普通が普通に進行してる。

 昨日あんなことがあったのに。
 教室が一回死んだみたいに静かになったのに。
「もしかして久住」って投げられたのに。

 本人、今日もプリントを整えている。
 メンタル強いとかじゃなくて、通常運転すぎて、逆にこわい。

 あたしは自分の席に向かいながら、心の中で宣言した。

 見ない。見ない見ない。今日は見ない。

 決めた。
 決めたから、できる。たぶん。できるはず。

 そう思った瞬間に、視界の端に、久住くんが入ってくる。

 ……なんで。
 見ないって決めた瞬間に、視界に入ってくるのやめてほしい。
 いや、席の位置からそうなるのはしかたないんだけどね。

 机にカバンを置こうとして、手がちょっとだけもたつく。
 ファスナーが引っかかった。普段引っかからないのに。今日に限って。

 あ、そういう日ね。

 あたしは無理やり笑って、カバンの口を開ける。
 その間も、視界の端の久住くんは、静かにページをめくっていた。

 紙の音が、やけにきれいに聞こえる。
 ぺら。ぺら。
 まるで、あたしの心臓のバタバタを、静かにからかってるみたいに。

 あたしだけが、ぐちゃぐちゃ。
 久住くんは、いつも通り。

 ……温度差で、風邪ひきそう。

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「はい、日向野。これ返しておいて」

 先生がノートの束を、どさっと教卓に置いた。
 紙の山が、冬の雪かきみたいに重い。

「りょーかいでーす」

 声は元気。声は。
 心は、さっきからずっと小走り。
 どうしてこんな日に限って日直なの、恨むよ神様。

 あたしはノートを抱えて立ち上がった。
 教室の列の間を、なるべく自然な顔で進む。なるべく。
 そして、当然のように、近づかなきゃいけない席がある。

 窓際前方。久住恒一(こういち)の席。

 はい来た。ミッション:久住くんにノートを自然に返す。難易度:S。

 あたしは目線をノートに固定する。
 “手元を見る人”になれば、世界は平和。たぶん。

 配る。配る。配る。
 ……あっ、久住くんのだ。

 心臓が「もう戻ろうよ」って言ってる。
 でも足は「日直の仕事だからね」って進む。
 あたしの中で、会議の結果が割れてる。

 そのまま、久住くんの机の横に来てしまった。

 ノートを一冊、そっと机に置こうとした、その瞬間。
 持っていたノートの束が制服の袖をすべって、落ちそうになる。 

「あっ……!」

 落ちる!
 雪崩注意報。ノートの雪崩。

 あたしは慌てて押さえようとした。
 でも慌てた手って、だいたい役に立たない。

 次の瞬間、久住くんの手が、すっと出た。
 あたしに触れない、ぎりぎりの距離で、ノートの端を支える。

 え。
 え、待って。
 手、近い。近いけど、触れてない。なのに近い。

 予想外の近さに、体が引いてしまう。
 そのせいで、支えるバランスがくずれてノートが床にばらまかれた。

「ご、ごめん!」

 だれに向かって謝っているのか、あたしはしゃがんでノートを拾う。
 手元がちょっと震える。やだ、止まって。気づかれたくない。

 久住くんが拾うのを手伝ってくれそうな雰囲気を感じていたから、急いでノートをかき集めた。

「大丈夫ですか」

「だっ、大丈夫! 大丈夫大丈夫!」

 頭の上から落ちてくる久住くんの声に、くらくらしながら返事をする。

 大丈夫を3回言った。
 その時点で、たぶん大丈夫じゃない。

 立ち上がって、拾ったノートを机に置く。
 置けた。置けたよ、あたし。えらい。
 久住くんがどんな表情をしているのか、見るのもこわい。

 そして、次の席へ行こうとしたのに。

 背中に、まだ久住くんの“静か”が刺さってる気がして。

 あたしは足を速めた。
 逃げじゃない。業務上のスピードアップだよ、これは。

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 休み時間。
 あたしは廊下に出た。空気がちょっと冷たくて、頭も冷えたらいいのに、心臓だけは熱いまま。

 学校の廊下って、道が広いようで狭い。
 そして、曲がり角の先から“会いたくない人”が来る確率は、なぜか高い。

 前方。
 向こうから歩いてくる影が見えた。

 ……久住くん。

 遠いのに、すぐわかる。
 歩き方が静かで、まわりの音を邪魔しない感じ。
 それがまた、目立つ。

 いや、目立ってない。あたしが勝手に見つけてるだけ。

 あたしは反射で、進路を変えようとした。
 自然に。さりげなく。空気のように。

 なのに。

 身体が先に動いた。

 壁の掲示物の前で、急停止。
 そして、なぜか、めちゃくちゃ真剣に読み始めた。

 今日のあたし、掲示物のガチ勢。

 掲示物のタイトル。
『保健だより 冬号』
 ……冬。うん、冬だね。知ってる。

 次の文字。
『手洗い・うがいで風邪予防』
 ……はい。大事だよね、特に冬はね。

 さらに下。
『早寝早起き』
 ……うーん、耳が痛い。でも今じゃない。

 内容どうでもいいのに、目だけが必死に追ってるの、怖い。

 足音が近づいてくる。
 廊下の空気が、その部分だけ少し薄くなる気がする。

 すれ違いざま、低い声が落ちた。

「休み時間終わりますよ」

 敬語。
 あたしの心臓が、その二文字だけ拾って、ポケットに入れる。

 返事。返事返事返事。

 でも、あたしの口は、掲示物と一緒にフリーズしてた。
 返事って、どうやって出すんだっけ。
 息を吸って、吐いて、その間に言葉を出す。簡単。人間はみんなできる。
 ……あたし以外は。

 一拍遅れて、あたしは顔を上げた。

「……あっ、あ……いきますっ!」

 言った瞬間、自分で思った。
 なんで敬語。どこにいく?

 久住くんは、一瞬だけ目をこちらに向けた。
 笑わない。からかわない。
 ただ、いつもの、静かな顔。

「はい」

 小さく、そう返して、通り過ぎていった。

 廊下に残ったのは、掲示物と、あたしの赤い耳と、変な敬語。

 やば。敬語、うつった……。

 あたしはもう一回だけ掲示物を見るふりをして、そっとその場を離れた。
 誰かに見られてた気がするのが、いちばん怖かった。