朝の空気は、冷蔵庫の前を開けたときみたいに冷たい。
なのに校門の前だけ、なぜかみんな元気で、声がやたら大きい。
あたしは昇降口で上ばきを履きながら、自分の胸に言い聞かせた。
普通。今日は普通。スーパーで売っているいちばん安い牛乳みたいに、普通。
……よし。意味はわからないけど、気合いは入った。
教室のドアを開ける。
昨日と同じ教室。いつもと同じ黒板。いつもと同じ机の列。
でも、あたしの中だけ、昨日の続きがついてきてる。
席に向かおうとした、そのとき。
「おはよ。寒くね?」
森田陽太が、いつも通りのテンションで現れた。
いつも通りの明るい声。いつも通りの軽い笑顔。
まるで、昨日なんてなかったみたいに。
あたしの心臓が、勝手にエビみたいに跳ねた。
「お、おはよ。ねー、寒い寒い」
返せた。
言えた。
しかも、ちゃんと2回「寒い」を入れて気軽さを演出。えらい。
陽太は「だよなー」と笑って、机にカバンを置いた。
その動きも、いつも通り。
その“普通”が、約束の回収なんだって、頭ではわかる。
なのに。
……普通って、目で見る分には簡単なのに。
あたしがやると、なんか違う。
自分の口の端が、いつもより固い気がする。
声の高さが、ふだんのあたしじゃなくて、知らない人からの電話に出るあたしになってる気がする。
陽太は、気づいてない。
気づいてないふりなのかもしれないけど、どっちでもいい。
問題は、あたしだけが、心臓の仕事量を増やしすぎてるってことだ。
そして、教室の空気って、だいたい意地悪だ。
陽太とあたしの会話が終わった瞬間。
周りの見てない“ふり”して見てる視線が、スッと集まった。
男子が、机の影から小声でささやく。
「え、なんかふつうじゃね?」
「逆に怪しいよな」
……ほら来た。
普通が、普通じゃなく見えるやつ。
女子のほうからも、ひそひそが飛んでくる。
声は小さいのに、なぜか耳にまとわりついてきた。
「……昨日のあれ、ほんとなのかな?」
その言い方に、あたしは思わず肩をすくめた。
誰も責めてない。攻撃もしてない。
でも、空気が“おもしろがり”に片足だけ入ってる。
しかも、なんで知ってるの。
昨日のこと。体育館裏のこと。
あれ、周りには壁しかいなかったはずなんだけど。壁、口かたくないの?
陽太は、いつも通りに席に座って、筆箱を取り出している。
陽太から昨日のこと話したりしないだろうし。
あたしからも、何も言えないし。
あたしは笑ってごまかしたくなった。
いつもの癖が、舌の先まで出てきた。
でも、その瞬間に気づいた。
昨日の夜、あたしが思ったんだ。
“普通”って、いちばん難しいって。
うん。
今日の教室は、もう証明してくれてる。
目で見る分には、たしかに簡単。
なのに、あたしの心臓だけが、ずっと走ってる。
そして、その走る音は、たぶん――周りにも、聞こえはじめてる。
*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+
陽太が“普通”をやってくれたせいで、教室の空気は1回だけ落ち着いた。
……1回だけ。
次の瞬間、その“普通”は、別のスイッチを押してしまったらしい。
机の間をすりぬけるみたいに、ひそひそが移動してくる。
あたしの耳の近くで止まって、勝手に大きくなる。
「陽太振られたってことは、相手別にいる?」
「この前のメッセ、やっぱ好きな人の話だったんだ」
「ってことは、あの誤爆……確定じゃん」
……確定。
その言葉、テストの答え合わせみたいに言わないでほしい。
あたしの人生、まだ採点してない。
昨日までは冗談っぽい推理だった。
笑いながら「誰だよー」って騒ぐ感じ。
でも今は違う。声の温度が、ちょっとだけ低い。
楽しんでるというより、当てにいってる。
遊びというより、詮索。
あたしは、机の上の筆箱をやたら丁寧に並べた。
鉛筆の向きまでそろえた。
心の中では、全部バラバラなのに。
そのとき。
「陽太を振ったってことはさ、本命、別にいるってこと?」
前の席に座った白石さやの声が、明るく飛んできた。
明るいのに、狙いがまっすぐ。
矢の先が、ちゃんとあたしに向いてる。
さやの顔がずいっと、あたしに近づく。
いつもなら“親友の距離”なのに、今日は“逃げ道をふさぐ距離”だ。
「ねえ、あかり。教えてくれてもよくない?」
その言葉のあと、さやと目が合う。
そして、ほんの一瞬だけ。
瞳の奥に揺らぎが見えた。
悲しいか、悔しいか、わからないけど。
さやが泣いているのかと思った。
でも、その揺らぎは一瞬で、さやはすぐに笑顔を作った。
いつものノリみたいに。
この笑いが、今日はいちばんずるい。
あたしは、いつもの弱点を出すしかなかった。
怒って止めるなんて、できない。
だから、笑って消す。
消えるといいなって思いながら、ガソリンを足す。
「ちがうってば! なんもないって!」
声が、思ったより高い。
自分で自分の声にびっくりして、さらに笑ってしまう。
笑いも、思ったより硬い。カチカチ。
「この前のは誤爆しただけだし!」
誤爆。誤爆。
便利な言葉だ。
でも便利すぎて、今は言い訳っぽく聞こえるらしい。最悪。
「ほら、みんなも、授業始まるって!」
その瞬間、教室の何人かが顔を見合わせた。
わかる。言い方が「今ここで終わらせたいです!」って叫んでる。
すかさず、追撃。
「それが怪しいんだって」
お調子者の男子が笑って言う。
笑ってる。悪意は薄い。
だけど、火は消えない。むしろ酸素が入って勢いを増す。
「で、誰?」
別の男子が短く言った。
短いのが一番こわい。
選択肢のない質問は、逃げ道を作ってくれない。
あたしは笑ったまま、息をのんだ。
心臓だけが忙しい。
口の中は、からからだ。
……お願い。チャイム、秒速で鳴って。
でも、時間はいつも通り進む。
教室の空気だけが、あたしの周りで勝手に走っていく。
なのに校門の前だけ、なぜかみんな元気で、声がやたら大きい。
あたしは昇降口で上ばきを履きながら、自分の胸に言い聞かせた。
普通。今日は普通。スーパーで売っているいちばん安い牛乳みたいに、普通。
……よし。意味はわからないけど、気合いは入った。
教室のドアを開ける。
昨日と同じ教室。いつもと同じ黒板。いつもと同じ机の列。
でも、あたしの中だけ、昨日の続きがついてきてる。
席に向かおうとした、そのとき。
「おはよ。寒くね?」
森田陽太が、いつも通りのテンションで現れた。
いつも通りの明るい声。いつも通りの軽い笑顔。
まるで、昨日なんてなかったみたいに。
あたしの心臓が、勝手にエビみたいに跳ねた。
「お、おはよ。ねー、寒い寒い」
返せた。
言えた。
しかも、ちゃんと2回「寒い」を入れて気軽さを演出。えらい。
陽太は「だよなー」と笑って、机にカバンを置いた。
その動きも、いつも通り。
その“普通”が、約束の回収なんだって、頭ではわかる。
なのに。
……普通って、目で見る分には簡単なのに。
あたしがやると、なんか違う。
自分の口の端が、いつもより固い気がする。
声の高さが、ふだんのあたしじゃなくて、知らない人からの電話に出るあたしになってる気がする。
陽太は、気づいてない。
気づいてないふりなのかもしれないけど、どっちでもいい。
問題は、あたしだけが、心臓の仕事量を増やしすぎてるってことだ。
そして、教室の空気って、だいたい意地悪だ。
陽太とあたしの会話が終わった瞬間。
周りの見てない“ふり”して見てる視線が、スッと集まった。
男子が、机の影から小声でささやく。
「え、なんかふつうじゃね?」
「逆に怪しいよな」
……ほら来た。
普通が、普通じゃなく見えるやつ。
女子のほうからも、ひそひそが飛んでくる。
声は小さいのに、なぜか耳にまとわりついてきた。
「……昨日のあれ、ほんとなのかな?」
その言い方に、あたしは思わず肩をすくめた。
誰も責めてない。攻撃もしてない。
でも、空気が“おもしろがり”に片足だけ入ってる。
しかも、なんで知ってるの。
昨日のこと。体育館裏のこと。
あれ、周りには壁しかいなかったはずなんだけど。壁、口かたくないの?
陽太は、いつも通りに席に座って、筆箱を取り出している。
陽太から昨日のこと話したりしないだろうし。
あたしからも、何も言えないし。
あたしは笑ってごまかしたくなった。
いつもの癖が、舌の先まで出てきた。
でも、その瞬間に気づいた。
昨日の夜、あたしが思ったんだ。
“普通”って、いちばん難しいって。
うん。
今日の教室は、もう証明してくれてる。
目で見る分には、たしかに簡単。
なのに、あたしの心臓だけが、ずっと走ってる。
そして、その走る音は、たぶん――周りにも、聞こえはじめてる。
*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+
陽太が“普通”をやってくれたせいで、教室の空気は1回だけ落ち着いた。
……1回だけ。
次の瞬間、その“普通”は、別のスイッチを押してしまったらしい。
机の間をすりぬけるみたいに、ひそひそが移動してくる。
あたしの耳の近くで止まって、勝手に大きくなる。
「陽太振られたってことは、相手別にいる?」
「この前のメッセ、やっぱ好きな人の話だったんだ」
「ってことは、あの誤爆……確定じゃん」
……確定。
その言葉、テストの答え合わせみたいに言わないでほしい。
あたしの人生、まだ採点してない。
昨日までは冗談っぽい推理だった。
笑いながら「誰だよー」って騒ぐ感じ。
でも今は違う。声の温度が、ちょっとだけ低い。
楽しんでるというより、当てにいってる。
遊びというより、詮索。
あたしは、机の上の筆箱をやたら丁寧に並べた。
鉛筆の向きまでそろえた。
心の中では、全部バラバラなのに。
そのとき。
「陽太を振ったってことはさ、本命、別にいるってこと?」
前の席に座った白石さやの声が、明るく飛んできた。
明るいのに、狙いがまっすぐ。
矢の先が、ちゃんとあたしに向いてる。
さやの顔がずいっと、あたしに近づく。
いつもなら“親友の距離”なのに、今日は“逃げ道をふさぐ距離”だ。
「ねえ、あかり。教えてくれてもよくない?」
その言葉のあと、さやと目が合う。
そして、ほんの一瞬だけ。
瞳の奥に揺らぎが見えた。
悲しいか、悔しいか、わからないけど。
さやが泣いているのかと思った。
でも、その揺らぎは一瞬で、さやはすぐに笑顔を作った。
いつものノリみたいに。
この笑いが、今日はいちばんずるい。
あたしは、いつもの弱点を出すしかなかった。
怒って止めるなんて、できない。
だから、笑って消す。
消えるといいなって思いながら、ガソリンを足す。
「ちがうってば! なんもないって!」
声が、思ったより高い。
自分で自分の声にびっくりして、さらに笑ってしまう。
笑いも、思ったより硬い。カチカチ。
「この前のは誤爆しただけだし!」
誤爆。誤爆。
便利な言葉だ。
でも便利すぎて、今は言い訳っぽく聞こえるらしい。最悪。
「ほら、みんなも、授業始まるって!」
その瞬間、教室の何人かが顔を見合わせた。
わかる。言い方が「今ここで終わらせたいです!」って叫んでる。
すかさず、追撃。
「それが怪しいんだって」
お調子者の男子が笑って言う。
笑ってる。悪意は薄い。
だけど、火は消えない。むしろ酸素が入って勢いを増す。
「で、誰?」
別の男子が短く言った。
短いのが一番こわい。
選択肢のない質問は、逃げ道を作ってくれない。
あたしは笑ったまま、息をのんだ。
心臓だけが忙しい。
口の中は、からからだ。
……お願い。チャイム、秒速で鳴って。
でも、時間はいつも通り進む。
教室の空気だけが、あたしの周りで勝手に走っていく。
