ステージの向こうに君がいる

紫苑(しおん)さん、五分後です」
 控室のドア越しに、マネージャーの声が響いた。
「……はい」
 返事をしながら、私は鏡の中の自分を見つめる。  完璧に整えられた髪。  ライトを想定したメイク。
 紫苑。  それが今の私の名前。
 本名で呼ばれることは、もうほとんどない。
 (らん)、と呼ばれることなんて——  いつからなくなっただろう。
 胸の奥で、ひとつの名前が静かに響く。
 (はな)
 あの人だけは、私をそう呼んだ。
「行けますか?」
 もう一度、声がする。
「……行けます」
 深く息を吸って、立ち上がった。
 廊下の向こうから、歓声が聞こえる。  壁越しでも伝わってくる熱気。
 ステージに上がった瞬間、  ライトが視界を白く染めた。
 音楽。  拍手。  名前を呼ぶ声。
 全部が波みたいに押し寄せてくる。
 私は笑った。  全力で歌って、踊った。
 ——やり切った。
 最後のポーズを決めて、深く頭を下げる。
 そのとき、無意識に客席の奥を探していた。
 ——ステージの、向こう側。
 そこに、誰かがいる気がして。
 誰にも見えない場所へ、心の中でそっと言う。
 ……見てた?
 
終演後。  
夜風が、少し冷たかった。
 花屋の前で足を止めて、私はショーケースを覗き込む。
 白い花と、紫がかった花。
 どっちも、小さな束にしてもらった。
 紙袋を揺らしながら、駅とは反対の道を歩く。
 さっきまでの音が、まだ耳の奥に残っていた。
 墓地は静かだった。
夕焼けが、石の列を朱色に染めている。
 私は1つの石の前にしゃがみ込んで、花を供えた。
「……ただいま」
 小さく笑う。
「今日も、ちゃんとやったよ」
 風が吹いて、リボンが揺れた。
「ねえ、華」
 石に刻まれた名前を指でなぞる。
「私ね……まだステージ立ってる」
 少しだけ空を見上げる。
「全部、華のおかげだよ」
 沈黙の中で、胸がじんわりと熱くなる。
「……いつも、ありがとう」
 墓前で手を合わせてから、もう一度だけ振り返った。
 ——ステージの向こうには、きっと。
 あの人がいる。