冬の匂いを覚えている










店を出ると、夕方の光が街の角に薄く残っていた。

空はまだ明るいのに、寒さだけが先に夜を連れてくる。







「送るよ」


彼が言った。



「いい」


私は反射的に拒んだ。





拒んだあとで、自分の声が棘を含んでいたことに気づく。





彼は何も言わずに歩き出した。

私も少し遅れてついていく。

距離がある。




近づけば戻ってしまいそうで、離れれば終わってしまいそうな距離。





「君、今どこに住んでるの」


「駅の向こう」


「そうか」





彼はそれ以上聞かない。

聞けば踏み込んでしまうからだろう。






街灯が一つ、また一つと灯る。

白い息が二人の間で消えていく。




「……あのさ」

彼が言う。


「うん」









「俺、結婚した」





私は足を止めた。


言葉の意味が分からなかったわけではない。

ただ、意味が現実になる速度に心が追いつかなかった。









「そう」

私はようやく言った。


「驚かないんだな」




驚いている。

胸の奥が崩れている。




でも驚いた顔をする権利が、もう私にはない。




「幸せ?」




私は聞いた。


彼は少し笑った。


「幸せって、もっと簡単なもんだと思ってた」




その答えは、幸せではないと言っているようで、
でも不幸でもないと言っているようだった。








「子どももいる」


彼は続けた。


私は頷いた。








頷くしかなかった。









恋愛は過去のものになる。

でも過去になった恋愛ほど、




未来を刺してくるものはない。