最初の味見は、いつも君に

 六月の雨がやっと細くなり始めたころ、体育の授業はプールになった。
 梅雨明けにはまだ早いのに、コンクリートの床はぬるく、塩素の匂いが鼻の奥に残る。水面は蛍光灯を映してきらきらして、そこだけ別の季節みたいだった。

 笛の音が短く鳴って、先生がいつもの調子で言う。

「今日はペアでやるよー。泳ぎが苦手な人は、うまい子と組んでー。サボり厳禁ー!」

 ざわっと空気が動く。水着姿のクラスメイトたちが、視線と足を同時に泳がせる。
 いつもは教室のざわめきに紛れる音が、今日は水しぶきと裸足のぺたぺたで、やけに直接届く。

 れいなは「はいはーい」と軽く手を挙げて、すぐ別の子に捕まった。笑い声が弾ける。
 
 その輪から少し離れたところに、秋穂がいた。
 腕を抱えるみたいにして、プールの青を見ている。顔は平気そうにしてるのに、指先だけが落ち着かなくて、爪の先でタオルの端をくしゃっと握っていた。

 ――そういえば、秋穂は「泳げない」って、前に。

 胸の奥がちいさく鳴った。守るとか守られるとか、そんな大げさな言葉じゃなくて。ただ、今は。
 私は秋穂のところへ歩いていって、声をかける。

「秋穂。私と組も」

 秋穂がびくっと顔を上げた。すぐに、困ったみたいに笑う。

「……いいの? 私、ほんとに……」
「いいよ。むしろ、私がやりたい」

 自分で言って、少しだけ恥ずかしくなる。秋穂のまつ毛が一瞬だけ揺れて、頬に薄い赤が差した。

「……じゃあ、お願いします」

 そう言って頭を下げるのが、秋穂らしい。私は笑って、秋穂のタオルを指でつんとつついた。

「こっちこそ。ほら」

 先生が配ったビート板を一枚受け取って、秋穂に渡す。秋穂は受け取りながら、板の角をやたら丁寧に撫でた。緊張すると、いつも几帳面になる。

 プールに入ると、水が太ももを冷たく抱いた。肌にまとわりつく感触に、秋穂が小さく息を飲む。私は秋穂の隣に立って、ビート板の端を押さえる。

「まず、顔はつけなくていい。板をぎゅって持って……そう。肩の力、抜ける?」

「……うん。たぶん」
「たぶん、じゃなくて」

 言い返すと、秋穂がほんの少しだけ口角を上げる。

「……できる。やる」

 その「やる」が、真面目すぎて可愛い。私は一回だけ目を逸らして、気持ちを整えるふりをした。

「じゃあ、バタ足。膝じゃなくて、足首から。水を切る感じ」
「足首……」
「そう。……うん、それ」

 秋穂は真面目に、ほんとに真面目に、脚を動かす。だけど最初は、力が入りすぎて水しぶきが大きくなる。周りの笑い声が少しだけ遠くなる。

「秋穂、速いとか遅いとかじゃなくて、リズム。いち、に、いち、に」

 私が声に出すと、秋穂の足の動きが少しずつ揃っていく。水面の跳ね方が、暴れる感じから、細かい波に変わる。

「……あ、ちょっと……分かる」
「うん、分かってきてる。今の、すごくいい」

 褒めた瞬間、秋穂が照れたみたいに唇を結ぶ。顔の赤さは水のせいにできる。でも、私の心臓のうるささは、水じゃ誤魔化せない。

 先生の笛がまた鳴って、クラスが少し移動する。水音が重なり、遠くの歓声が揺れる。

「次、顔つける練習しよ。いきなり泳がなくていい。泡ぶく、だけ」
「……泡ぶく」
「そう。息を吐けるようになると、怖さが減るから」

 秋穂の喉がこくんと動く。怖い、って言わない代わりに、目が少しだけ固くなる。私はビート板を持ったまま、秋穂の正面に回ってしゃがんだ。

「私、ここにいる。見える?」

 秋穂がこくんと頷く。

「……見える」
「じゃあ、いける」

 秋穂はビート板を抱えたまま、ゆっくり膝を曲げて、水面に顔を近づける。髪の先が水に触れた瞬間、肩がきゅっと上がる。

 私は反射で手を伸ばして、秋穂の手首に触れた。
 ぴたり。
 水の中なのに、触れたところだけ熱い。秋穂も同じだったみたいで、指が一瞬固まる。目が合う。

 ――まずい。可愛い。あと、近い。
 私は慌てて手を離し、何事もなかったふりをして笑う。

「大丈夫。板、離さなければ沈まない。ほんとに」
「……うん」

 秋穂が小さく息を吸って、そっと顔を水に沈めた。
 ぷく。ぷく。
 控えめな泡が浮かぶ。大げさじゃなく、丁寧で、やさしい泡。
 顔を上げた秋穂が、ぱちぱちと瞬きをして、息を吐いた。口元が、少しだけ上がる。

「……できた」
「うん。できた。えらい」

 秋穂が、濡れた前髪を指で払って、ぽつりと言った。

「……泡、なんか……メレンゲみたい」

 その一言に、私は吹き出しそうになる。

「……泡の大きさが。……きれいだったから」

 言い訳みたいなのに、真剣で、余計に可愛い。私は笑いを噛み殺しながら頷いた。

「じゃあ次は、泡をもっと均一に。……メレンゲ職人さん」

 秋穂がむっとする。でも耳の先が赤い。私の方が赤いかもしれない。

 先生が「じゃ、次は板で五メートル、行ける子から!」と声を張る。周りが一斉に動き、プールの水面がざわざわと大きく揺れた。
 秋穂はビート板を抱えて、私を見た。

「……もう一回、やる」
「うん。二回目は、絶対もっと楽になる」
「……うん」

 秋穂が水に入る。私は横に並ぶ。さっきより、手が少しだけ近い気がして、また胸が落ち着かない。
 五メートルだけ進む。途中で足が止まりそうになって、秋穂が慌てる。私は小声で「息、吐いて」と言う。秋穂が頷いて、泡を吐きながら進む。
 到達した瞬間、秋穂が小さく息を吐いて笑った。

「……今の、ちょっと……できた」
「できた。ちゃんとできた」

 それだけのことなのに、世界が少し明るくなる。秋穂が"できた"を積み上げていくのを見るのは、私の胸の奥を温かくする。
 笛が長く鳴って、授業終了の合図が来た。

「はい、上がってー! タオル、ちゃんと拭いてー! 風邪ひかないようにー!」

 水面のきらめきが、ばしゃばしゃと乱れて、みんなが一斉に梯子へ向かう。秋穂もビート板を返しに行き、私はその後ろを追った。
 更衣室へ向かう廊下は、足の裏に冷たさが残っている。髪から落ちる水が、床に点々と続いていく。タオルを首にかけて歩きながら、私は横目で秋穂を見る。
 秋穂は、少しだけ顔が明るい。自分でも気づいてないみたいな、淡い表情。

 ――可愛い。
 それだけで胸がいっぱいになって、私は息を吸った。

     ◇

 更衣室の扉を開けると、女子の声が一気に跳ね返ってくる。ドライヤーの音、笑い声、タオルを絞る音。いつもの教室に近いざわめき。
 私はロッカーの前でタオルを広げた。その瞬間、背中側から、弾む声がした。

「ねえねえ、美春!」

 れいなが、濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら腕を絡めてくる。

「夏休み前にさ、海行かない? みんなで!」
「……海?」

 言葉の端がひっくり返った。自分で自分の声にびっくりする。

 海。秋穂と海。水着姿の秋穂。
 想像が勝手に走って、頬に熱が集まる。塩素じゃなくて、私のほうが濃くなっていく。

「いいじゃん! このメンバーでさ。周防さんも来よ。ね?」

 れいなが視線を投げる先で、秋穂がプールサイドに立っていた。髪を低い位置で結んでいて、首筋が少しだけ見えている。いつもは制服の襟に隠れる場所だ。
 その首筋を見ただけで、心臓が変な音を立てる。

「……私、泳げないけど」

 秋穂は困ったみたいに笑った。笑うと目尻がやわらかくなるのが、私は好きだ。

「浮き輪あるし! 砂浜だけでも楽しいって!」
「美春も来るよね? ね?」
「……え、うん……」

 返事はしたのに、胸の中で小さな警報が鳴る。

 "見られる"ってこと。
 水着って、布の面積が少ないから、肌が多いから、それだけで目立つ。目立つと、余計な言葉が寄ってくる。私は、去年の文化祭のときに感じた視線の温度をまだ覚えている。
 仲がいいね、って言われるだけなら笑ってやり過ごせる。でも、もしもそこから一歩踏み込まれたら。
 私たちの秘密に、指が触れるような形になったら。

 ――怖い。

 隣の秋穂を盗み見ると、秋穂もまた、少しだけ唇を噛んでいた。
 私の不安が伝染したみたいで、嫌になる。
 守りたいのは秋穂なのに。怖がらせたくないのに。

 授業が終わって、タオルを肩にかけたまま廊下を歩く。湿った空気がまとわりつく。雨上がりの匂い。

「秋穂」

 呼ぶと、秋穂が小さく振り向いた。

「海……行く?」
「……行く」

 短い返事。でも、そのあと少しだけ、私の袖をつまんだ。

「……美春がいるなら」

 その一言で、胸の奥がほどける。
 ずるい。そういう言い方、ずるい。

「うん。いるよ。ずっと」

 私はわざと軽く言って、笑った。軽くしないと、声が震えそうだった。

 ――"治ったら、ね"。

 あの雨の夜、そう言って、キスを我慢させたときの顔がふっとよぎる。熱に浮かされたみたいに赤くて、でも真面目で、まっすぐで。
 私の体調が戻ったら、って。
 約束。
 その言葉が、胸の奥で静かに灯っていた。

     ◇

 海に行くことが決まった週末、私たちはデパートの水着売り場にいた。
 そこは別世界だった。ピンクや水色、ラメやフリル、見ただけで眩しくなる色が並び、鏡が多くて、光が増幅されているみたいにきらきらしている。

「……すごいね」

 秋穂が呟く。声が小さい。いつもの喫茶店だと、秋穂は落ち着いているのに、ここでは背中が少し固い。

「人、いっぱい」
「うん……でも、見るだけなら……」

 私も平気なふりをする。でも、視線は泳ぐ。水着のラックを眺めながら、自分の体のことばかり考えてしまう。
 春から始めた朝ランのおかげで、スカートのホックはすんなり留まるようになった。鏡の前でため息をつく日も減った。
 それでも、水着は別だ。布が少ない分、気持ちの逃げ場がない。

「秋穂、どんなのがいい?」
「……シンプルなの」

 秋穂は迷いなく言った。
 似合うんだろうな、と確信できてしまうのが悔しい。シンプルなものほど、着る人の輪郭が出る。

「じゃあ、ワンピース型、見よう」

 いくつか手に取って、色を当ててみる。秋穂の肌に近づけると、どれも絵になる。ネイビー、ボルドー、グレー。

「ネイビー、いい」

 私が言うと、秋穂が小さく頷いた。

「……美春が選ぶと、安心する」
「なにそれ」

 笑ってごまかしながら、胸の中でほんの少しだけ痛い。私は秋穂に頼られて嬉しい。でも、本当は私も秋穂に頼りたい。
 水着を抱えて、秋穂が試着室へ入っていく。私は外で待つ。カーテンの向こうから、布の擦れる音が聞こえて、落ち着かない。

 しばらくして――

「美春」

 呼ばれて、息が止まる。
 カーテンが少しだけ開き、秋穂が顔だけ出した。

「……見て」

 そこから先は、早送りみたいに記憶が飛ぶ。
 カーテンが開く。秋穂が立っている。ネイビーのワンピース型。肩が出ていて、鎖骨の線が浮かぶ。日差しじゃない照明の光でも、肌が白く見える。
 綺麗。
 可愛い、より先に、綺麗が来た。

「……どう?」

 秋穂は視線を落としがちで、指先がカーテンの端を握っている。緊張してるのが分かる。
 私は、真面目に答えた。

「似合ってる。すごく。秋穂、……そのまま海のポスターになれる」
「……大げさ」

 そう言いつつ、秋穂の頬が少しだけ色づく。
 胸がぎゅっとなる。言い足りない。もっと言いたい。でも言いすぎると、空気が変わりそうで怖い。

 次は私の番だ。
 私はシンプルな黒のワンピースを選び、試着室の中で深呼吸する。布を伸ばして着る。鏡を見る。
 思ったより、悪くない。
 ダイエットの成果が、こういうところで不意に見える。少しだけ、肩の線がすっきりしている。腹のあたりも以前ほど気にならない。

 ……でも、恥ずかしいのは変わらない。
 カーテンを開ける。

「秋穂、どう……?」

 秋穂が、じっと私を見る。視線が一瞬、首元から肩へ、そして私の顔に戻る。顔が熱くなる。

「……可愛い」

 秋穂は小さく言って、視線を逸らした。逸らし方が不器用で、私のほうが余計に意識してしまう。

「秋穂のほうが可愛い」
「……比べなくていい」

 秋穂がぼそっと言う。
 比べてない。比べてないのに。秋穂の隣に立つと、私はどうしても自分を測ってしまう。見た目とか、才能とか、勇気とか。
 でも秋穂は、そういう私の悪い癖を、そっと止めてくれる。

 水着を買い、レジ袋を持ってデパートを出ると、外の風が生暖かくて、急に現実に戻る。

「海、楽しみ?」

 私が聞くと、秋穂は少し迷ってから頷いた。

「……楽しみ。……怖いけど」
「怖い?」
「……見られるの」

 秋穂の声が、いつもより低い。真剣だ。
 私は息を飲む。
 同じことを、私も思っていた。

「……私も、ちょっと」

 正直に言うと、秋穂が少しだけ笑った。

「……一緒だね」

 一緒。
 その言葉が、今はお守りみたいだった。

     ◇

 七月最後の週末。蝉の声がぎりぎりまで張り上げた日の朝、私たちはれいなたちと駅前で集合した。
 夏休み直前の空気は、どこか浮ついている。制服じゃない私服の集団は、それだけで少し大人っぽく見えた。
 電車に揺られて、海水浴場に到着する。改札を出た瞬間、潮の匂いが鼻を刺す。風が髪を持っていく。

 青。

 空も海も、青の種類が多い。白い砂浜が目を眩ませる。波の音はずっと続いていて、胸の内側を揺らす。
 更衣室で水着に着替え、パーカーを羽織って砂浜に出る。女子たちは早い。歓声を上げて走っていく。

 私は、隣を見た。
 秋穂がパーカーのフードを指でいじっている。いつもより表情が硬い。

「秋穂」
「……うん」
「大丈夫?」
「……美春がいるから」

 また。
 私は笑いながら、秋穂の手首を軽くつかんだ。

「じゃあ、私も大丈夫」

 パーカーを脱ぐ。
 砂浜の日差しが肌に落ちて、熱い。水着の布が体に沿う感覚が、妙にくすぐったい。

 秋穂も、ゆっくりパーカーを脱いだ。
 ネイビーの水着。
 それだけで、周りの景色が一瞬ぼやける。秋穂の輪郭だけがくっきりする。
 髪を後ろで結んでいて、首筋が見える。プールで見た首筋より、もっと夏の光を浴びていた。

 私は、見とれてしまった。

「美春……見すぎ」

 秋穂が小さく言う。目は私を見ないで、砂を見ている。

「ご、ごめん」
「……怒ってない」

 秋穂は言いながら、私の腕をちょん、と指で触れた。その触れ方が、逆に心臓に悪い。

     ◇

【秋穂】

 美春が水着で立っている。
 いつも制服の中に隠れていた肩が出ている。肌は少し日焼けしていて、健康的で、夏の匂いがする気がした。

 可愛い。
 可愛い、のに。
 "見られる"が頭をよぎる。
 クラスメイトの視線。知らない人の視線。冗談みたいな言葉が、刃物に変わる瞬間。

 でも、美春が隣にいる。
 美春が「大丈夫」って言った。
 それだけで、足が前に出る。

 波打ち際に近づく。潮風が強くなる。白い泡が砂を撫でて、引いていく。

「秋穂、入る?」

 美春が手を差し出した。
 私はその手を取る。
 温かい。
 海は冷たいのに、美春の手はいつも通りだった。

 ――約束。
 梅雨の夜の、あの約束が胸の奥で揺れる。
 "治ったら、ね"。

 美春の風邪はもう治っている。元気だ。笑っている。
 なのに、まだ言い出せない。
 場所が悪い。人がいる。見られる。
 でも、波の音がうるさくて、世界が少しだけ私たちを隠してくれる気もした。

     ◇

【美春】

 秋穂と手を繋いで、波打ち際に足を入れる。水が足首に触れた瞬間、冷たさで声が出そうになる。

「つめたっ」
「……冷たい」

 秋穂の指が私の手をぎゅっと握る。普段より強い。

「大丈夫。いきなり深く行かない」

 膝まで。腰まで。
 波が来るたび、秋穂の肩がぴくっと揺れる。可愛い。可愛いけど、真面目に支えないと。

「怖い?」
「……少し」
「じゃあ、私のほう見て」

 秋穂が私を見る。視線が合う。波の音が一瞬遠のく。
 そのとき、大きな波が来た。

「秋穂、気をつけて――!」

 言い切る前に、波が秋穂を押し上げる。秋穂がバランスを崩して、身体がぐらりと傾いた。

「きゃっ……!」
「秋穂!」

 私は反射的に腕を伸ばし、秋穂の肩を抱き起こした。濡れた肌が触れ合う。海の冷たさと、秋穂の体温が混ざる。
 近い。
 近すぎて、呼吸の熱まで分かる。

「大丈夫!? 飲んでない?」

 秋穂が咳き込みながら頷く。

「……うん、だいじょうぶ」

 秋穂の髪から水が落ちて、私の腕を伝う。塩の匂い。秋穂のシャンプーの匂い。混ざって、胸の奥がくすぐったい。

「もう……びっくりした」

 怒ったふりをする私に、秋穂が小さく笑った。笑えるなら大丈夫だ。
 その瞬間。

「ねえねえ、二人さ、仲良すぎじゃない?」

 クラスの女子が波の向こうから叫んだ。周りの女子も笑う。

 空気が一瞬、硬くなる。
 私は、息が止まる。
 心臓が嫌な音を立てる。笑って流せ。笑って流せ。分かっているのに、顔が固まる。

 秋穂が、私の腕の中で顔を上げた。濡れた前髪の隙間から私を見る。
 そして、いつもより自然に、軽く笑った。

「……そんなこと、ないよ」

 否定の言葉なのに、棘がない。笑い話みたいに言う。

「美春は、私の命綱なだけ」
「命綱ってなにそれ!」

 れいなが爆笑する。

「溺れそうだったもんね!」

 女子たちが笑って、波の音に溶けていく。

 私は、胸の奥がじん、とする。
 秋穂は平気そうに見せた。でも、きっと平気じゃない。私も平気じゃない。
 なのに秋穂は、その場を壊さない形で守ってくれた。

 私も、もっと堂々としなきゃ。
 守りたいって言うなら、震えるだけじゃだめだ。

     ◇

 砂浜の熱がいったん落ち着くころ、れいなが手をぶんぶん振った。

「ねえ、海の家行こ! お腹すいた! 命綱コンビも!」
「命綱って……まだ言うの、それ」

 笑いながら歩き出すと、海の家の屋根の下だけ空気が少し冷たい。木の床がじんわり湿っていて、潮と日焼け止めと、揚げ物の匂いが混ざっていた。
 焼きそば、フランク、かき氷――定番の文字が並ぶ中で、秋穂がぴたりと足を止めた。

「……クレープ」

 手書きのメニュー板の端に、ちょっと場違いなくらい可愛い文字。
 その横、鉄板の上で薄い生地が丸く広がって、じゅわっと音を立てている。

 ……あ。秋穂の目が、完全に"仕事の目"になってる。

「秋穂、食べたいの?」
「……食べたい。というか……作り方、気になる」
「そっち!?」

 私は思わず笑ってしまった。海に来ても、秋穂は秋穂だ。

 店員さんが生地を流して、お玉の背で円を描くようにする。薄く、均一に伸びていく生地。表面の気泡が小さく弾けて、焼けた甘い香りがふわっと立った。
 焼き色を確かめてから、手際よくひっくり返す。ヘラの角度が迷いなくて、見てるだけで気持ちいい。

「……鉄板、温度が安定してる。あと、あの……生地の粘度」

 秋穂が小声で、真剣に分析している。
 私はクレープの列に並びながら、横目で秋穂の横顔を盗み見た。真面目すぎて、可愛い。

「喫茶店で出したこと、ないよね」
「……ない。あれは……道具が違う」

 秋穂の視線が、鉄板の奥の機材に移る。丸い鉄板、温度つまみ、ヘラ、あの木の棒みたいなやつ――。

「……生地、寝かせてるのかも。今日、伸びがいい」
「秋穂、もうメモ取りたい顔してる」
「……してない」

 否定が遅い。
 私が笑うと、秋穂の耳がほんの少し赤くなった。

 先に受け取ったれいなが、紙に包まれたクレープを振って見せた。

「私はバナナチョコ~! 見て、映え~!」
「れいな、口の周りにつくよ」
「え、マジ? 見ないで!? ……てか二人も食べなよ! 絶対!」

 れいなが私たちを押すみたいに背中を叩く。
 秋穂が一瞬だけ迷ってから、メニュー板を指した。

「……バターシュガー。いちばん、構造が分かる」
「研究対象なんだ……」
「……うん」

 真顔で頷くの、ずるい。

 出来上がったクレープは、紙の中でふわっと温かくて、持つだけで指先が嬉しい。
 焼けた生地の香りに、バターの甘い匂い。砂糖のざらりとした粒が、表面にきらっと残っている。

 秋穂は一口かじって、目を細めた。
 噛むたびに薄い生地がほどけて、バターと砂糖がじわっと広がる。

「……おいしい」

 その一言が、普段の「……うん」よりずっと柔らかい。
 私はそれだけで、なぜか胸がふわっとした。

「どうやって作るんだろう、って顔してる」
「……してない」

 また遅い。
 秋穂はクレープを見下ろしながら、ぽつりと付け足した。

「……喫茶店でやるなら、鉄板じゃなくても……ホットプレート? でも温度ムラが……」
「やめて、海の家が一瞬で研究室になる」

 れいなが私の肩を抱いて、にやにやする。

「周防さん、ほんと職人だな~。美春は? 美春も食べてみて。ほら、あーん」
「れ、れいな!?」

 冗談の"あーん"に、私は反射で頬が熱くなる。
 横で秋穂が、そのやりとりを見て、一瞬だけ視線を落とした。……むっとしたみたいに。

「……れいな、楽しそう」
「え、なに? 嫉妬? 嫉妬? かわい~」
「ちがう」

 否定が速い。
 でも、その速さが逆に怪しい。

 私は自分のクレープを一口食べて、思わず息を吐いた。

「……あ、これ。思ったより軽い」
「……うん。外は少し香ばしくて、中は……やわらかい」

 秋穂がそう言うと、なんだか"味"が言葉になって、きちんと形になる気がした。
 私は秋穂の横顔を見て、笑ってしまう。

「秋穂、海の家でもちゃんと"作る人"だね」
「……美春は、ちゃんと……食べる人」
「それ役割固定!?」

 れいなが大笑いして、私の背中を叩く。
 笑い声に混ざって、波の音がずっと鳴っていた。

 ――夏の一日って、こういうふうに、甘くて、あっという間に溶ける。

 クレープの温度が、紙越しに指に残る。
 その熱を、私はこっそり大事に握ったまま、もう一度砂浜へ戻った。

 砂浜に戻って、パラソルの下で休憩する。砂が熱い。足の裏がじりじりする。冷えた麦茶を飲むと、喉の奥が生き返る。
 秋穂が隣に座る。肩と肩が触れそうな距離。でも、触れない。触れたら、今度は私が波みたいに崩れそうだから。

「秋穂、楽しい?」
「……うん」

 短い返事のあと、秋穂が海を見た。横顔が綺麗で、見ているだけで落ち着く。

「最初は怖かったけど……美春がいると、平気」

 また。ずるい。
 私は麦茶の紙コップを握りしめる。言葉の代わりに。

 れいなが走ってくる。

「ビーチバレーやろ! 人数足りない!」
「え、私たちも?」
「もちろん! 運動会であんな走ったんだからいけるいける!」

 運動会。春の熱。秋穂がゴールテープを切った瞬間。私はそれを思い出して、少しだけ笑えた。

 ビーチバレーは想像以上にきつかった。砂が足を取る。ジャンプができない。ボールが変な方向へ飛ぶ。

「ごめん、秋穂!」
「大丈夫。次、取れる」

 秋穂は意外と上手い。受け方が綺麗で、動きに迷いがない。中学の陸上部、あれはただの過去じゃなくて、ちゃんと身体に残っているんだ。
 私が転びそうになると、秋穂がすっと支えてくれる。手が触れて、体温が流れ込む。
 この人は、走るときも、支えるときも、まっすぐだ。

 遊んで、笑って、波に足を浸して、アイスを食べて。時間が砂みたいに指の間から落ちていく。

     ◇

 夕方。太陽が海に沈み始めると、空がオレンジになった。波の白が金色を含む。
 女子たちは写真を撮りに行ったり、貝殻を拾いに行ったりして散っていく。

 私と秋穂は、波打ち際を歩いた。
 さっきより波は穏やかで、足首を撫でる程度だ。濡れた砂が冷たく、気持ちいい。

「綺麗だね」
「……うん」

 秋穂が立ち止まって、私を見た。

「美春」
「なに?」
「今日、ありがとう」
「何が?」
「一緒に来てくれて」

 言い方が、いつもより真剣だ。夕日の色のせいで、秋穂の瞳が少し琥珀みたいに見える。
 胸が苦しい。

「私、海、苦手だったけど」
「うん」
「今日は、……楽しかった」

 秋穂が、言葉を選ぶみたいに息を吸う。

「美春がいたから」

 私は笑ってしまう。泣きそうなのをごまかす笑い。

「それ、ずるいって何回言ったら分かるの」
「……何回でも言う」

 秋穂の声が小さくなる。
 その次に、秋穂がぽつりと言った。

「……ねえ」
「うん?」
「……約束、覚えてる?」

 胸が跳ねる。
 梅雨。風邪。看病。キスを我慢した秋穂。

「……うん」

 私の声が、少しだけ震えた。
 秋穂が、波の音に紛れそうな声で言う。

「美春、もう……本当に元気?」

 確認。
 優しさ。
 私は頷く。

「うん。完全に。もう咳もしないし、熱もない」
「……よかった」

 秋穂が少しだけ笑う。でもすぐ、真面目な顔に戻る。

「……じゃあ」

 秋穂が一歩近づく。潮風が強くなって、私の髪が頬に貼りつく。
 秋穂の指が、私の髪をそっと払った。指先が頬に触れる。そこだけ熱い。

 波が寄せて、引く。
 世界が呼吸しているみたいだ。

 秋穂が、ゆっくり顔を近づける。
 私は目を閉じる。

 唇に、柔らかい感触。
 塩の味がほんの少しだけ混ざる。秋穂の体温が伝わって、胸の奥があふれそうになる。
 ほんの一瞬。
 でも、確かに"約束"の形だった。

 秋穂が離れて、息を吐く。

 秋穂の耳が赤い。私の顔もきっと赤い。
 私たちは、波の音に隠れるように、並んで歩き出した。

 手は繋げない。でも、指先が時々触れる。触れては離れて、また触れる。
 それだけで、世界が少しだけ優しくなる。

     ◇

 帰りの電車は混んでいた。海帰りの人たちで、車内に砂の匂いが混ざっている。
 座れなくて、私たちは吊り革の近くに立った。れいなたちは少し離れたところで話している。

 秋穂が、私の肩にもたれかかってきた。

「秋穂?」
「……ちょっと、眠い」

 声が幼い。海では頑張っていた分、疲れが一気に来たんだろう。

「寝ていいよ」

 私が言うと、秋穂は遠慮するみたいに少しだけ首を振った。

「……重い?」
「全然。むしろ……」

 むしろ嬉しい、って言いそうになって飲み込む。言うと、また顔が熱くなる。
 秋穂の髪が私の肩に触れる。潮の匂いと、汗と、いつものシャンプーの匂いがする。
 私は、窓に映る自分たちを見ないようにした。

 見られるのが怖いから、じゃない。
 見たら、幸せだって顔に書いてあるのが分かって.
 それを誰かに読まれるのが、まだ怖い。

 でも。
 今日の秋穂の笑い方を思い出す。
 「命綱」なんて言って、冗談みたいに守ってくれた。
 秋穂は、少しずつ強くなっている。
 私も、強くならなきゃ。

 夏休み。きっと夏期講習がある。受験が近づく。喫茶店も忙しくなる。文化祭の準備だって始まる。
 いろんなものが、私たちに向かってくる。
 それでも。

 秋穂が私の肩で眠っている。
 その重みが、現実だ。

 私の隣にいる人が、秋穂だってこと。
 波みたいに押して引いてを繰り返しても、約束が残るなら、大丈夫。

     ◇

 駅に着いて、夜風が肌を撫でた。昼間の熱は少しだけ落ち着いていて、夏が次のページをめくろうとしている匂いがした。

 秋穂が目をこすりながら言う。

「……美春、今日は……」
「うん?」
「……忘れない」

 私は笑う。

「私も。絶対忘れない」

 約束のキス。
 海の青。
 波の音。
 隠すみたいに触れた指先。

 高校生活、残り半年ちょっと。
 その中で、こんな日があと何回あるんだろう。

 ――ある。作る。秋穂と、作る。
 そう思いながら、私は秋穂の隣を歩いた。

 夜風が髪を撫でる。潮の匂いがまだ残っている。
 秋穂の足音が、私の足音と重なる。

 波打ち際で交わした約束は、もう言葉じゃなくて、温度だ。
 いつか、この温度を隠さなくていい日が来るまで――。
 私たちは、並んで歩き続ける。

 波みたいに、何度も何度も、繰り返し寄せては返す、この気持ちを抱いて。