最初の味見は、いつも君に

 五月の朝は、春の名残を引きずったまま、急に夏みたいな顔をする。カーテンの隙間から差す光がやけに鋭くて、寝起きの目を細くした。

 制服に袖を通して、最後にスカートのホック。

 ――留まらない。

「え?」

 もう一度、深呼吸して、ホックを寄せる。指先に力を込める。金具が、あと数ミリのところで意地悪く逃げた。

 留まらない。

 鏡に映る自分の顔は、いつもと大差ない……と思う。寝癖も直した。目の下のクマもコンシーラーで隠した。笑えばいつもの「平気な私」だ。

 でも、お腹の辺りだけが、ほんのちょっと――言い訳できないくらい、ふわっとしている気がした。

 プールの授業が近い。
 水着になったら、誤魔化せない。
 それに、秋穂と並んだときに――。

 頭を振る。
 考えすぎ。でも、現実は現実だ。

 私の脳内に、ここ一ヶ月の記憶が、甘い香り付きで再生される。
 クッキー。マフィン。タルト。試作の端っこ。焼き色チェックの一口。クリームの残りを指でぬぐって舐めるやつ。閉店後に「これ、どう?」と差し出される、小さな"最初"。

 最初の味見。
 秋穂の、私への合図みたいな言葉。

 ……毎日してた。

 毎日、ちゃんと食べてた。

 ちゃんと、全部。

 そりゃ――こうなる。

 鏡の中の私が、口を動かさずに言った気がした。

(ばか)

 それでも、妙に胸が温かいのは、たぶん原因が1つしかないからだ。犯人の顔がはっきりしている。しかも、その犯人が――私の恋人だなんて、笑うしかない。

 でも笑ってる場合じゃない。今日も学校だし、スカートは留まらないし、三年生の春は思った以上に現実的だ。

 私は、ホックを諦めて、そっと安全ピンを取り出した。
 ……これ、去年の文化祭で使ったやつだ。
 こういうところだけ、私は器用だ。

     ◇

 喫茶店の厨房は、朝の学校のざわめきを、粉砂糖みたいにさらさらと忘れさせてくれる。放課後の制服をエプロンに着替えた瞬間、世界の音が変わる。

 コーヒー豆を挽く低い音。冷蔵庫のモーター。小さく鳴るタイマー。泡立て器がボウルを叩く、軽い金属音。

 そして、秋穂の――ページをめくるような静かな呼吸。

 秋穂は今日もレシピノートを開いていた。角が少し丸くなったノート。ペンで書き込まれた数字や温度や、赤い丸。付箋が何枚も貼られていて、めくるたびに小さく「ぺら」と鳴る。あの音、私は結構好きだ。

「美春」
 呼ばれて、背中が条件反射で熱くなる。学校では呼べない距離が、ここでは普通に許されるから、余計に。

「これ、試作」
 秋穂が差し出したのは、小さなレモンケーキの切れ端。

「……また新作?」
 私はレモンケーキに手を伸ばしかけて、引っ込めた。心が揺れるのが、自分でも分かる。

「……どうしたの?」
 秋穂が首を傾げる。小さな癖。困っているときほど、視線が少しだけ上に行く。

「秋穂……あのさ」
 言うの、恥ずかしい。言ったら、私の中の"恋人としての可愛さ"と"高校生としての現実"が、同じ場所でぶつかって破裂しそう。
「私、たぶん……太った」
 言った瞬間、厨房の音が一拍遅れて聞こえた気がした。

 秋穂が瞬きをする。2回、ゆっくり。
「……太った?」
「スカートが……入らない」
「……」

 秋穂の視線が、私の顔から下に落ちる。じっと見ない。見ないけど、見てる。微妙な間合い。
 そして、秋穂が――ほんの少しだけ、口元を柔らかくした。

 笑った。
 笑ったのに、笑い声は出さない。秋穂の「小さな笑い」は、見逃すと風に溶ける。

「……気にしなくていい」
「気にするよ!」
 私は即座に突っ込んだ。声が裏返りそうで、慌てて咳払いをした。

「だって、制服は入らないと困るし……それに、私……」
 言いかけて、止まる。

 "秋穂と並んだら"とか、"見られたら"とか、そういうの。
 四月に芽を出した怖さが、まだ根っこで生きている。女の子同士で、近い距離で。仲がいいね、の先にある、変な目――そういうものを想像してしまう自分が、嫌だ。

 でも嫌でも、現実はある。

 秋穂は、私の言葉の続きが出てこないのを、責めない。いつもみたいに、少しだけ眉を寄せるだけだ。
「……美春は、どっちでも可愛い」
「ちょ、ちょっと待って!」

 私は両手を上げた。危ない。今のは危ない。胸に直撃するやつだ。
「それは……今じゃない!」
「今じゃない、って何」
 秋穂が少しだけ首を傾げる。本人は真面目なのに、私だけが動揺しているのが悔しい。

「……ダイエットする。私、本気で」
 言い切った。

 言い切ったら、秋穂が一瞬だけ目を見開いて、それから、真顔に戻った。
「……本気?」
「本気」

 秋穂は、レモンケーキを持ったまま、少しだけ考えた。
「……じゃあ、手伝う」
「え」
「ダイエット。手伝う」

 秋穂がそう言うと、"一緒にやる"が、本当に"二人の予定"になる。私はその言葉に、妙に救われてしまって――いや、違う。救われるじゃなくて。

 伴走、だ。
 並んで走るやつ。

 秋穂はレモンケーキを、ゆっくり引っ込めた。
「……でも、最初の味見は」

 小声で言うから、私は聞き返した。
「ん?」
「……無理、しないで」
 秋穂の目が、少しだけ不安そうだった。

 ――私が「最初の味見」をやめることを、秋穂も想像したんだ。
 胸の奥が、きゅっとする。
 
 私は、笑って、でもちゃんと真面目に言った。
「最初の味見は、やめない」

 秋穂が、瞬きを止めた。
「……え」

「ダイエットはするけど。最初の味見は、譲れない」
 秋穂の頬が、ほんの少しだけ赤くなる。レモンの香りじゃなくて、秋穂自身の熱が近づくみたいに。

「……わかった」
 そして、秋穂はあのレモンケーキを、半分だけ小さく切って、私に渡した。

「じゃあ……これだけ」
「うん」

 一口。レモンの酸味が先に来て、あとからバターの甘さが追いかける。口の中で、春と夏が入れ替わるみたいな味。

 私は思った。

 ……太るのも、分かる。

     ◇

 その日の閉店後、マスターがカウンターに肘をついて、私の顔を見た。

「美春ちゃん、顔が必死だな」
「必死です」
「秋穂ちゃんのお菓子、食べすぎたか」
「……はい」

 私が正直に頷くと、マスターは笑って、でもすぐに真面目な声になった。
「ダイエットはな、我慢だけじゃ続かない。運動と、食べ方の工夫だ。極端なのはやめとけ」
 秋穂が隣で、静かに頷く。

「……でもな、美春ちゃん」
 マスターが少しだけ真面目な顔になった。
「秋穂ちゃんのお菓子を食べるのも、君の仕事だ。味見役は、職人にとって一番大事な相手。忘れるな」

 その言葉に、私は少しだけ救われた。

 味見は、私の役目。
 秋穂のためにある、私だけの場所。

「てなわけだ。秋穂ちゃん、手伝ってやりな」
「……うん」

 秋穂は少しだけ言いにくそうに視線を落としてから、ぽつりと言った。
「……私、運動、得意」
「え、そうなの!?」
 声が大きくなって、私は慌てて口を押さえた。厨房の換気扇が、静かに回っている。私の驚きだけが浮いていた。

 秋穂は、恥ずかしそうに頷く。
「中学のとき、陸上部だった」
「えええ……」

 驚いたのは、"走れる"こと自体じゃない。体育の授業で、秋穂がちゃんと動けるのは知っていた。フォームが崩れないし、無駄に騒がないし、転んだりもしない。

 ただ――そういえば、息を切らしている秋穂を見たことがない。
 全力で競って、勝ちにいく顔を見たこともない。
 いつも、さらっと流して、目立たない場所に戻っていく人だったのに。

 だから「得意」と言い切る声が、思ったよりまっすぐで。
 私の胸の奥が、遅れて熱くなった。

「……明日、朝。公園」
「朝?」
「六時」
「……ろ、六時!?」

 秋穂は真面目な顔のまま、少しだけ目を細めた。
「……無理?」
「……無理じゃない。たぶん」

 たぶん、という言葉を、秋穂が見逃さない。
「……たぶん、じゃなくて」
「……行く。行きます」

 私が言い切った途端、秋穂は小さく頷いて――迷いなくスマホを取り出した。

 画面を開く指が、やけに慣れている。
 春休みに二人で作った、あの共有カレンダー。遊びも、バイトも、空白の日も、全部そこに詰め込んだ、私たちの"未来の箱"。

 秋穂はそこを、ためらいなくタップしていく。
「……明日。六時、公園。ジョギング」

 入力欄に文字が並ぶ。すらすらと。
 私の心臓は、その速度に追いつけない。予定って、こんなふうに簡単に"現実"になるんだ。

 秋穂は続けて、指先で画面を滑らせた。
「……二週目。筋トレ。閉店後」
「え、二週目ってなに……もう確定なの……?」
「確定」
 秋穂がさらっと言う。
 さらっと言うのに、予定が増えるたび、胸の奥が1つずつ熱くなる。

 "明日の朝、会う"
 "来週も、閉店後に会う"
 文字として並ぶと、逃げ道がない。逃げ道がないのに、怖くない。むしろ、くすぐったい。

 秋穂が最後に、ふっと画面を私の方へ傾けた。
「……見て」

 そこには「ジョギング」「筋トレ」と並んだ予定があって、私の名前は書かれていないのに、全部が私のことだった。
 私の生活の中に、秋穂が当たり前みたいに入り込んでいる。

「……増えたね」

 私が言うと、秋穂はほんの少しだけ目を伏せる。
「……増えるの、嫌?」
「嫌じゃない、けど……」

 どきどきする、って言いそうになって、飲み込んだ。言ったら負けな気がして。

 秋穂は私の返事を待つみたいに、一秒だけ動きを止めた。それから画面を閉じて、いつもの静かな声で言う。
「……じゃあ、決まり」

 その言い方が、ちょっとだけ先生っぽくて――なのに、恋人っぽい。
 私は笑って誤魔化しながら、頬の熱をごまかすように咳払いした。

「……分かったよ。行きます。……行きますけど、秋穂、予定入れるの速すぎ」
「速い方が、逃げない」
「逃げないって……」

 胸の奥が、また小さく跳ねる。
 "逃げない"なんて言葉が、運動の話なのに、私たちの話みたいに聞こえた。

 秋穂は、ほんの少しだけ満足そうに頷いた。
「……明日、待ってる」

 たったそれだけで、明日の朝が――"六時の公園"が、怖いものじゃなくなる。
 むしろ、ちょっとだけ楽しみになってしまう自分が、悔しい。

     ◇

 私はコートを羽織って家を出た。吐く息が白い。学校に向かう朝とは違って、誰もいない道は静かで、音が自分の足元からしか生まれない。

 ――玄関で鍵をかけたとき、手提げの持ち手に小さな重みが揺れた。クラゲのキーホルダー。いつの間にか「当然」みたいに、私の持ち物の一部になっているやつ。
 淡い透明の飾りが街灯の光を拾って、ぷるり、と小さく光った。
 あの薄暗い水槽の前で、秋穂の横顔がやけに綺麗に見えたこと。「可愛い」と言い合って、互いに目を逸らしたこと。思い出が勝手に胸を温めて、私は自分で自分に突っ込みたくなる。

(朝から何を思い出してるの)

 でも、こういう"証拠"がぶら下がってるだけで、妙に落ち着くのも事実だった。
 約束は、スマホの中だけじゃなくて、手元にもある。

 公園の入口が見えたところで、もう一度だけスマホを見た。
 画面の予定は消えない。消えないのが、なぜか嬉しい。

 そして――

 秋穂が、先にいた。

 六時の公園は、まだ誰のものでもないみたいに静かだった。空気が少し湿っていて、芝の匂いが濃い。土は夜の冷たさを残したまま、靴底が触れるたびに「とん」と小さく音を返す。鳥の声が高くて、遠くの車の走る音だけが薄く混ざっていた。

 眠い。正直、めちゃくちゃ眠い。
 でも秋穂は、眠いとか言わない顔でそこにいた。

 ジャージ姿。いつもと違って髪を高めに結んで、首筋がすっきり見える。
 制服のときは「整ってる」人なのに、今は「動ける」人だ。紐の結び目まで、きっちりしている。眩しい。

 ……そして、その腰のあたり。
 小さなポーチ――なのか水筒カバーなのか、そこからペンギンのキーホルダーが揺れていた。
 ちょっと不器用そうに、でも真面目にぶら下がってる感じが、秋穂にそっくりで。

 気づいた瞬間、胸がきゅっとなる。
 見てはいけないわけじゃないのに、見つけたのが嬉しすぎて、視線の置き場がなくなる。

 秋穂も、私の手提げを見た。
 視線が、クラゲの方に落ちて――ほんの一拍だけ止まる。

 それから、秋穂の頬がほんのり赤くなった。

「……おはよう、美春」

 名前を呼ばれただけで、眠気が一段階飛んだ。ずるい。

「おはよう……秋穂」

 私も、なるべく普通の声を出したつもりなのに、語尾が少しだけ柔らかくなってしまう。
 秋穂は咳払いを1つして、目を逸らしかけて――逸らしきれずに、もう一度、私のクラゲを見た。

 たぶん、言いたいことは同じだ。
 "つけてる"ってことと、"嬉しい"ってこと。

 言葉にしないまま、二人で小さく息を吐いた。
 冷たい空気の中で、それだけがやけに甘く見えた。

     ◇

 秋穂は軽くストレッチを始める。腕を回して、足首を丁寧にほぐして、呼吸を整える。動きが静かなのに、迷いがない。

「準備運動、する」
「するんだ……」
「する。急に走ると危ない」
「真面目……」

 私も真似して肩を回す。関節がぎしっと言いそうで恥ずかしい。秋穂はそれを見て、笑わない。笑わないで、少しだけ近づいてきて、私の手首を軽く取った。
「ここ、力抜いて」

 指先が触れたところから、熱がじわっと広がる。運動の前なのに、心臓だけ先に走り始めてる。
「……はい」
「よし」

 秋穂が頷いて、私の隣に立つ。その距離が、安心するほど近い。朝の冷たい空気より、秋穂の体温のほうが先にわかる。

「……ゆっくり走る」
「うん」

 走り出した最初の一分は、意外といける気がした。空気が冷たくて、肺が少しだけ喜ぶ。足音がリズムになる。遠くで同じように走る人の影が見えて、犬の散歩の人がすれ違って、挨拶するでもなく視線だけ交わす。

 二分目で、私は自分の油断に気づく。
 息が、上がる。胸の奥が熱い。足が重い。心臓が、私の許可なく全力を出そうとしてくる。

「……秋穂、まって」
「もう?」

 秋穂が振り向く。涼しい顔。ずるい。
「ごめん……運動、苦手で……」
「大丈夫」

 秋穂はペースを落とす。落とす、じゃない。合わせる。私の呼吸に、私の足音に。置いていかない、っていう合わせ方。
 並んで走ると、秋穂の靴が地面を蹴る音が聞こえる。軽い。規則的。私はまだばたばたしている。でも、その規則性に引っ張られると、少しだけ落ち着いた。

「美春」
「なに……」
「呼吸。吸って、吐いて」
「いま、吸ってる……吐いてる……たぶん……」
「たぶん、じゃなくて」
「……吸って、吐いてます……!」

 秋穂が、小さく口の端を上げた。声のない笑い。あれ、ずるい。
 そのまま少し走って、私は足がもつれかけた。

「……あっ」

 つまずきかけた瞬間、秋穂がすっと腕を伸ばして、私の肘を支えた。引っ張るんじゃない。落ちないように、支えるだけ。

「危ない」
「ごめん……!」
「謝らなくていい。歩こう」

 歩く。歩くと、世界の音が戻ってくる。鳥の声が近い。木の葉が擦れる音。自販機の低い唸り。自分の呼吸の音。胸の中の熱が、苦しさから別の形に変わっていく。

「秋穂、こういうの……慣れてるんだね」
「中学のとき、走ってたから」

 短い答え。でも、その短さが、秋穂らしくて好きだと思う。私はそのまま口に出してしまいそうになって、慌てて飲み込む。

「……私も、慣れたい」
「慣れる」
「断言するなぁ……」
「断言する。美春は、続けるから」

 続ける。
 その言葉が、運動の話なのに、別の約束みたいに聞こえる。胸の奥がきゅっとするのに、嫌じゃない。

 もう1回、走る。
 私は覚悟を決めて、軽く頷いた。

「……じゃあ、もうちょっとだけ」
「うん」

 走り出して、三十秒。
 やっぱり苦しい。苦しいけど、さっきより少しだけ息が整っている気がする。秋穂の足音に合わせて、私も足を出す。揃えたい、と思ってしまう。

 ふいに、秋穂が私の手を取った。

「え……?」

 驚いた。公園とはいえ、人がいないわけじゃない。犬の散歩の人もいるし、ジョギングしてる人も遠くにいる。視線が怖い、って思う自分もまだいる。
 でも秋穂の手は迷いなく、私の指を包んだ。

「一緒に走る」

 温かい。力がある。引っ張るんじゃない。支える感じ。
 握られた瞬間、呼吸が少しだけ楽になる。変なの。手を繋ぐだけで、心が落ち着く。

「……なんか、走れる」
「……でしょ」

 秋穂が、少しだけ笑った。頬がほんのり赤いのが、朝の光のせいだけじゃない気がして、私はまた目を逸らしたくなる。
 でも、手は離さない。
 走りながら、私は小さく言ってしまう。

「これ、ダイエットっていうより……デートでは?」

 秋穂が、ぴたりと目を瞬いた。

「……デート?」
「だって……朝の公園、手繋いで……」

 秋穂は一秒だけ考えて、信じられないくらいさらっと言った。

「……なら、デート」
「えっ」

 軽い声。軽いのに、胸の奥に落ちる重さ。心臓がまた勝手に全力を出しそうで、私は困って笑いそうになる。

「そんな、簡単に言う……」
「簡単じゃない」

 秋穂の声が少しだけ低くなる。
 その変化だけで、私は息を飲んだ。

「美春が、そう言ったから」

 ……ずるい。
 私が言った一言を、ちゃんと拾って、ちゃんと返してくるところ。真面目なくせに、こういうところでだけ、まっすぐに甘い。

 それからは、言葉が減った。減ったのに、気まずくならなかった。
 足音と呼吸だけが続く。朝の光が少しずつ強くなる。手の温度が、変わらない。

 走って、歩いて、また少し走って。
 最後にベンチで止まったとき、私は膝に手をついて、ぜえぜえ言った。

「……無理。しんだ……」
「死んでない。生きてる」
「言い方が冷静すぎる……!」

 秋穂が水筒を差し出してくる。冷たくて、ありがたい。飲むと、喉の奥から自分が戻ってくる感じがした。

「美春、今日はこれで十分」
「え、もう?」
「最初から飛ばすと続かない」

 ここで、秋穂がほんの少しだけ笑って付け足す。

「……お菓子も、焦ると失敗する」
「最後にそれ言うんだ……!」

 私がむくれると、秋穂は「ごめん」と言って、でも目だけは優しいまま。

 私は水筒を返して、ふと秋穂を見る。
 汗をかいているのに、綺麗だ。頬が少し赤い。睫毛に朝の光が引っかかって、目が柔らかく見える。

 私は心の中だけで言った。

(これ、ほんとに……デートじゃん)

 秋穂が、私の視線に気づいたのか、小さく首を傾げた。

「……どうしたの」
「なんでもない。……次も、来る」
「うん」

 短い返事。
 でも、その「うん」は、ちゃんと「二人の予定」になっていた。

 私はベンチから立ち上がって、勇気を出して言う。

「……秋穂、手、もう1回」

 秋穂は一瞬だけ目を見開いて、それから、何でもないみたいに手を差し出した。

「……うん」

 握る。

 朝の公園の空気はまだ少し冷たいのに、私の中だけ、妙に温かかった。
 それが運動のせいなのか、恋人の手のせいなのかは――たぶん、両方だ。

     ◇

 二週目。筋トレ。

 場所は、喫茶店の閉店後。マスターが「奥でやれ」と、古いヨガマットを貸してくれた。たぶん昔、誰かが置いていったものだ。
 床に広げると、少しだけ埃っぽい匂いがして、私はそれだけで気持ちが引いた。

「まず、プランク。三十秒」
「むり」
「やる」
「秋穂、鬼……」
「鬼じゃない。温度管理」

 温度管理?

 私は渋々うつ伏せになって、肘をついた。腹を持ち上げる。背中がまっすぐになるように――と言われても、すぐに腰が落ちそうになる。

「腰、落ちてる」
「落ちるよ! 重力が強い!」
「生地も重い。だから支える」
「え、なにそれ、格言みたいに言わないで……っ」

 秋穂は真顔でスマホのタイマーを押し、私の背中を指先で軽く叩いた。合図みたいに。

「今は……"冷やしプリンの冷蔵庫待ち"だと思って」
「待ってるだけでつらい冷蔵庫って何!?」
「固まるまで、開けない。揺らさない。途中で触らない」
「触らないのが一番無理なんだけど!」

 ぷるぷる震える私の腕を見て、秋穂が小さく頷く。

「いい。泡立て器の振動」
「それ褒めてる!? 私、泡立ってないよ!? 震えてるだけだよ!?」

「十、九、八……」
「秋穂、数えるのだけ上手い……」
「五、四、三、二、一。終わり」

 私は崩れ落ちた。マットが天国みたいに冷たい。

「次。サイドプランク。左右二十秒」
「待って、休憩は!?」
「休憩は、焼き上がる前に扉開けない」

 またお菓子の話だ。

 横向きになって、片肘で身体を支える。脇腹がギュッと縮んで、今まで使ったことのない場所が文句を言い始めた。

「……秋穂、こんなところでも菓子職人なの!?」
「職人は、いつでも職人」
「じゃあ私は何なの、素材? 今まさに絞り袋みたいに潰されてるんだけど!」
「大丈夫。絞り袋は、押した分だけ形になる」

 励ましなのか何なのか分からない。でも秋穂が真剣だから、ツッコミながらも笑ってしまう。笑うと脇腹がさらに痛い。

「笑ったら崩れる」
「笑わせたのは秋穂でしょ……!」

「次。マウンテンクライマー。20回」
「山、登らないで済むやつない?」
「ある。スクワット」
「山より怖い!」

 両手を床につき、膝を交互に引き上げる。息が一気に上がる。頭の中が白くなる。

「ほら、ホイップを手早く立てるときの腕」
「腕じゃなくて脚! 私、今ホイップじゃなくて酸欠!」
「酸欠は……焼成中のオーブンみたいなもの」
「私、ケーキじゃない!」

 続けてスクワット。秋穂は私の膝の向きを見て、淡々と直す。

「膝、内に入ってる。バターを溶かすとき、焦って混ぜると分離する」
「私の膝が分離したら終わりだよ……っ」
「だから丁寧に。混ぜすぎない。折りたたむ」
「折りたたむのは生地だけでいい……!」

 最後に、仰向けでヒップリフト。

「お尻、上げて。10回」
「え、なんで最後に一番恥ずかしいやつ!」
「これは、タルト生地を底から支える工程」
「私の尻がタルトの底……!?」

 脳内に、巨大なタルト型の底で、私が四つん這いになってる絵が浮かんだ。
 やめて。想像したくない。

 叫びながらも、私は10回やりきった。やりきってしまったのが悔しい。悔しいのに――秋穂が、少しだけ目を細めたのが見えて、その悔しさが甘く溶ける。

「美春、今日、いい焼き色」
「人を焼き菓子扱いしないで……」
「褒めてる」
「褒められてるなら、まあ、……いい」

 私は床に大の字になって息を整えた。天井が遠い。喉の奥が熱い。なのに、横で秋穂が小さくタオルを差し出してくる仕草が、喫茶店の灯りみたいに落ち着いて見えた。

「続けられそう?」
 秋穂が小さく尋ねる。

「……うん。たぶん」
「たぶん、じゃなくて」
「……続けます。職人先生」
「……うん」

 秋穂が、ほんの少しだけ笑った。
 その笑いが、筋肉痛の予告よりも、ずっと効いた。

     ◇

 三週目。成果が出た。
 スカートのホックが、留まった。

「……よし」

 鏡の前で、私は小さくガッツポーズをした。たった一センチの勝利。だけど、私の生活はその一センチで救われる。

 その日の放課後、喫茶店。
 秋穂が、いつものように小さな皿を出してきた。

「美春、新作」

 レモンじゃない。今度は、抹茶のフィナンシェ。焼き色の縁が香ばしくて、表面に薄く粉糖がかかっている。抹茶の匂いが、湯気と一緒に立った。
 私の頭の中で、2つの声が喧嘩を始める。

(ダイエット中でしょ)
(でも、最初の味見でしょ)

 秋穂が、私の顔を見て、少しだけ眉を寄せた。

「……ダイエット中だから、やめる?」

 その言い方が、怖かった。
 "やめてもいいよ"じゃなくて、"やめる?"。
 選択を、私に渡してくる。
 私は、ちゃんと受け取りたかった。

「……食べる」
「え」
「最初の味見は、譲れない」

 言ったら、秋穂の表情が一瞬だけほどけた。安心したみたいに、肩が小さく落ちる。

「……ありがとう」
「だって、秋穂の作ったものだもん」
「でも、太るよ?」
「いい。秋穂のお菓子で太るなら、本望」

 言い切った瞬間、自分でもびっくりした。口が勝手に恋人みたいなことを言う。
 秋穂の頬が赤くなって、視線が逸れた。

「……ずるい」
「何が」
「そういうこと言うの」

 私は笑って、抹茶フィナンシェを一口食べた。
 香ばしさと、抹茶の苦みと、最後に来る甘さ。春の終わりと初夏が、舌の上で混ざる。

 私は思った。
 我慢しない。
 でも、流されない。

 秋穂の"最初"を受け取るなら、その分、自分も動く。
 それが、私たちのバランスだ。

     ◇

 朝の公園を走るのが、日課になった。息はまだ上がるけど、前ほどじゃない。秋穂の靴音と、私の足音が、少しずつ揃ってきた気がする。

 運動会が近づいて、クラスの話題も増えた。リレーの話。ペア競技の話。誰と組む、なんて笑い声。

 学校では相変わらず「仲のいい友達」のままだけど、放課後にはエプロンを結び合って、閉店後には同じマットの上で筋トレして、そして――最初の味見をする。

 私は、鏡の前で一度だけスカートのホックを触った。
 留まる。
 ちゃんと。
 それがなんだか、私自身が少しだけ前に進んだ証拠みたいで、可笑しかった。

 喫茶店のカウンターで、秋穂が小さく言う。

「美春、また走ろう」
「うん」
「毎朝、一緒に」
「約束」

 私たちは、声を小さくして、でも確かに約束する。

 最初の味見を、続けるための約束。

 誰にも見せられない場所で、私たちは何度も選び直す。

 ――譲れないものを、ちゃんと譲らないために。