最初の味見は、いつも君に

【美春】

 二月に入っただけで、世界の輪郭が少し甘くなる気がした。
 通学路のコンビニには、赤い包装紙の棚が増える。駅前のデパートには、普段は見ない行列ができる。教室の空気まで、いつもより浮ついていて――乾いた寒さの中に、溶けかけのチョコみたいな熱が混ざる。

 バレンタイン。

 この言葉を、去年の私は「イベント」だと思っていた。
 誰かが騒いで、誰かが照れて、誰かが義理で渡して、終わる。
 それだけのはずだったのに。

 今年は、違う。

 鞄の底にある、小さな計画が、私の心臓と一緒に鳴っている。

 ――秋穂に、何をあげよう。

 周防秋穂は、お菓子を作る人だ。
 ただ作るだけじゃない。粉の重さの差に眉を寄せて、湯気の立ち方に目を細めて、焼き色の一段階を「まだ」と言える人。
 そんな秋穂に、下手なものを渡すのは……なんだか、申し訳ない気がする。

 でも。

 作りたい。

 秋穂が、いつも私に「最初の味見」をくれるみたいに。
 今度は私が、秋穂に――。

「美春ー! ねえ、今年どうするの? バレンタイン!」

 れいなが机に肘をついて、からかうように目を輝かせた。机の上には、雑誌の切り抜きと、キラキラしたペン。恋の話題に合わせて、文房具まで浮かれて見えるから不思議だ。

「どうするって……別に……」
「別に、って顔じゃないじゃん。ほら、耳、赤い」
「赤くない」
「赤い。最近、周防さんと一緒にいること多いし……はい本命確定」

 ストレートに言われて、喉がひゅっと狭くなる。
 教室のざわめきの中で、私の鼓動だけが勝手に大きい。

「……声がでかいって」
「聞こえないように言ってるし?」
「いや、言ってないし」

 れいなが笑って、私の頬を指でつつく。

「いいなあ。美春、ちゃんと恋してるって感じ」
「……恋っていうか……」

 言いかけて、言葉が止まる。
 恋。
 いつから、そう呼べるようになったんだろう。

 初詣の帰り道、秋穂が「譲れない」って言ったとき。
 私が「経営学部に行く」って口にしたとき。
 あの瞬間から、私たちの未来は、ほんの少し現実の手触りを持ち始めた。

 だから。

「……作る」
「え?」
「チョコ、作る。私が」

 れいなの目が、さらに丸くなる。

「うわ、ガチじゃん。手作り!?」
「うるさい。普通に、静かに驚いて」
「無理無理、尊い。ねえ、周防さん喜ぶよ絶対」

 喜ぶ、かな。
 喜んでくれたらいい。
 笑ってくれたらいい。

「ねえ、美春」
「本命って、どうやって渡すの?」
「……え?」
「だってさ、相手が分かるでしょ。義理と違って」
「それって、すごく怖くない?」

 怖い。
 怖いけど。

 私は、机の下で指をぎゅっと握った。
 自分で決める練習を、今年も続ける。

     ◇

【秋穂】

 バレンタイン。

 菓子職人を目指す人間にとって、それは「恋の行事」だけじゃない。

 空気の密度が変わる日。
 売り場が戦場みたいになる日。
 そして――甘さに、嘘が許されない日。

 私は一月の終わりから、頭の中で何度も段取りを組み直していた。
 喫茶店の限定販売。包装の手順。温度管理。仕込みの順番。マスターの声が飛ぶ前に、自分で気づけるように。

 店の厨房に入ると、金属の冷たさが指先から伝わってくる。
 ボウルが鳴る。泡立て器がすれる。チョコを刻む包丁の音は、乾いた小さな雨みたいだ。

「秋穂ちゃん、今日も顔が真剣だな」
「……いつもです」
「いつも以上だよ。ほら、眉間。チョコ溶けるぞ?」

 マスターが、からかうように笑う。

「バレンタイン、ですから」
「ふーん。店のやつ?」
「……それも」

 言いかけて、口がきゅっと固くなる。
 美春の顔が、浮かぶ。

 美春にも、作りたい。
 当たり前みたいに、そう思う。

 でも、私は時々、怖くなる。
 美春に何かをあげたいと思うほど、欲張りになっていく自分が。

 美春は、私を見てくれる。
 私が笑うと、嬉しそうにする。
 私のお菓子を食べて、目を細める。

 ……それだけで、充分なはずなのに。

「秋穂ちゃん、美春ちゃんへの"特別"も仕込むのか?」
「っ……!」

 マスターの声が、的確すぎて心臓に刺さる。

「……はい」
「正直だな」
「……隠しても、無駄ですから」
「うん。顔に書いてある」

 私は、棚の奥からカカオの袋を取り出して、わざとラベルを読み込むふりをする。顔が熱い。

「何作る?」
「……トリュフ」
「ほう」
「美春、ビター寄りが好きで……でも苦すぎると、眉が寄るから」

 美春の「好き」を思い出すだけで、胸の奥が温まる。
 紅茶の香りが好き。甘いものは好きだけど、食べたあとに「ふぅ」って息をつくタイプ。
 それから――私が頑張っているのを見るのが、好き。

 だから、私は余計に真剣になる。

 ビターチョコに、オレンジピールをほんの少し。
 香りが先に立ちすぎないように。
 口に入れたとき、最後にふわっと柑橘がほどけるくらい。

 試作1回目。
 甘みが勝ちすぎる。
 
 2回目。
 まだ足りない。
 甘さが勝ちすぎている。
 美春は、この甘さを「やさしい」って言うかもしれない。
 でも、私が作りたいのは「やさしい」じゃない。「大人っぽい」だ。美春が、背伸びしたくなる味。
 
 3回目。
 ……今度は、いい。舌の上で滑らかに崩れて、深い苦味が残り、最後に光が射す。

 私は小さく息を吐いた。
 この瞬間だけ、胸の中のざわつきが静かになる。

「……これ」
「お、決まったか」
「はい」

 作業台に落ちるのは、チョコの滴じゃない。
 私の気持ちだ。形になったもの。

 箱に詰める。
 リボンをかける。
 指先が少し震える。

 美春、喜ぶかな。
 去年の私なら、そんな期待をするのが怖くて、きっと「別に」と逃げた。
 でも、今は。

 期待してもいいって、美春が教えてくれた。

 そして、もう一つ。

 私は、美春が私に何をくれるのか――気になってしまっている。

 期待する自分が、まだ少し恥ずかしい。
 でも、止められない。

     ◇

【美春】

 私は家の台所で、初めての戦いに挑んでいた。

 買い物袋の中には、生クリームと板チョコと無塩バター。
 ココアパウダーは、棚の前で三分くらい迷って、いちばん地味な袋を選んだ。
 派手なパッケージは信用できない。……というより、派手なものを手に取ると「本命です」って額に貼り紙が出る気がして、恥ずかしくて戻した。

 レジを通る時、店員さんが「バレンタインですか?」って軽く言っただけで、心臓が跳ねた。
 私は「友達に」と笑って答えた。笑い方が上手くなったのが、たぶんいちばん嫌だった。

 家に帰ると、台所の空気はいつも通りで、母が洗い物をしていた。水の音が規則正しくて、私の焦りだけが浮いて見える。

「美春、今日やけに荷物多いね。なにそれ?」
「……お菓子、作ろうかなって」
「へえ。誰に?」
「……友達」

 言った瞬間、喉の奥が苦くなる。守るための嘘なのに、秋穂に向けて小さな裏切りみたいで。
 でも"秋穂にあげる"って言葉を、まだ家の中に持ち込む勇気はない。
 私は袋の口をぎゅっと掴んで、「部屋で勉強してくる」と逃げるみたいに言ってから、また戻ってきた。逃げたくないから。

 夜。母が寝て、家が静かになってから、私は台所の電気をつけた。白い光。金属の冷たさ。
 秋穂の厨房は、きっともっと整っている。私は、まな板とボウルを並べるだけで、もう少しごちゃごちゃだ。

 レシピをスマホで開く。指先がチョコの包装紙でカサついて、画面がうまく動かない。
 深呼吸。――作る。秋穂のために。

 板チョコを割る音が、思ったより大きかった。
 ぱきん、ぱきん。
 乾いた小さな破片が飛んで、慌てて拾う。
 
 湯煎にかけると、甘い匂いが立ち上る。
 ああ、これだけで"それっぽい"。でも、匂いだけじゃ駄目だ。秋穂は匂いでごまかせない人だ。

 1回目。
 生クリームを温めすぎた。勢いよく混ぜたら、表面が妙にざらついた。焦げたみたいな苦みが鼻につく。
 冷蔵庫に入れて待っても、いつまで経っても"固まる気配"が薄い。スプーンですくうと、やわらかく崩れて、形にならない。

「……え、なんで」

 声に出した瞬間、自分が泣きそうなのが分かった。
 秋穂は、こういうとき黙って手を動かすんだろうな。私はどうしてすぐ、言葉にしてしまうんだろう。

 2回目。
 温度を落として、混ぜ方をゆっくりにして、今度こそ、と意気込んだ。
 ……なのに、冷やしてから切ろうとしたら、包丁にべったりくっついて、台所が悲惨なことになった。まな板も、布巾も、指先も。チョコの茶色が、あちこちに拭き跡を作っていく。

「うそ……」

 焦って水で洗おうとして、さらに広がる。
 私は一瞬だけ立ち尽くして、頭の中が真っ白になった。――やめたい。買ったやつにすればよかった。秋穂はプロなんだし、私が無理に作らなくても。

 でも、その"逃げの言い訳"が浮かんだ瞬間、胸の奥が痛んだ。
 秋穂は、怖くてもやる人だ。厳しい母親の前でも、夏祭りのピンチでも、最後に「やり切る」と言った。
 私は、あの子の隣に立ちたい。隣に立つなら、ここで逃げたくない。

 3回目。
 台所を一度全部片付けて、布巾を替えて、包丁を洗って、まな板を拭いた。
 整えると、呼吸も戻ってくる。秋穂の家みたいに完璧にはできないけど、私の"今できる範囲"で、ちゃんと整える。

 チョコを刻む。今度は、焦らない。
 湯煎の湯気が頬に当たって、少し熱い。
 生クリームは沸かさない。縁が揺れるところで止める。――ここ、覚えた。

 混ぜる。ぐるぐるじゃなくて、底からすくい上げるみたいに。
 とろり、と表面が光った瞬間、なぜか涙が出そうになった。料理で泣きそうになるなんて、私、どんだけ必死なんだろう。

 冷蔵庫で待つ時間が、試験より長く感じる。
 固まっているか確認したいのに、開けたら温度が上がる気がして我慢する。私、ちゃんと我慢できるじゃん、って変なところで自分に驚く。

 ナイフを入れる。
 断面が、ちゃんと滑らかだ。角は少しいびつだけど、形になっている。
 ココアパウダーが、均等に馴染んでいる。
 
 味見をする。

 ――これなら。

 口の中で、チョコが溶ける。
 甘さと、ほんの少しの苦み。
 秋穂が好きそうな、バランス。

 箱に並べると、急に現実味が増した。
 秋穂がこれを見て、笑うのか、困るのか、分からない。
 でも――渡したい。渡さないと、ここまでの全部が宙ぶらりんになる。

 ラッピングのリボンが、最後まで言うことを聞かなかった。結び目が斜めになる。
 直して、直して、それでも少し曲がったまま。
 私はそれを見て、ふっと笑った。

「……私らしい」

 小さな箱を両手で持つと、掌の熱で溶けそうで、そっと置いた。
 そして、またあの嘘の苦みが戻ってくる。

 母に「誰に?」と聞かれて、「友達」と答えたこと。
 秋穂を守るためなのに、秋穂の"特別"を、私が勝手に隠しているみたいで。

 私は箱の蓋に指を置いて、心の中でだけ言った。

 ――ごめん。だけど、これは嘘じゃない。
 ――これは、あなたに渡すための、私の本当。

 明日、秋穂に会う。
 そのとき私は、ちゃんと渡す。
 義理と本命の境界線を、私の手で越える。

     ◇

【秋穂】

 当日。二月十四日。
 放課後の喫茶店は、いつもより静かだった。外は冷たい風で、窓ガラスが薄く鳴る。店内には、焙煎した豆の香りと、焼き菓子の甘い匂い。奥のスピーカーから流れる音楽が、遠い雪みたいにふわふわしている。

 美春は、いつもより早く来た。
 コートのポケットを何度も触っている。
 その仕草が、もう答えみたいだった。

「美春」
「……秋穂」

 目が合うと、二人とも少しだけ笑って、すぐに視線を逸らした。
 恋人なのに。
 まだ、こういうところは慣れない。

 でも、その不器用さが、私は好きだ。

「……美春、これ」
「え、もう?」

 私は、鞄から箱を取り出して渡した。
 早く渡してしまわないと、手の中で熱が上がって溶けてしまいそうだった。チョコじゃなくて、気持ちのほうが。

「……開けていい?」
「……うん」

 美春が蓋を持ち上げた瞬間、オレンジの香りがふわっと立った。
 美春の瞳が、少し大きくなる。

「……きれい」
「……作った」
「分かる。だって、秋穂の箱の詰め方って……几帳面で、優しい」

 優しい。
 その言葉に、胸の奥がほどける。

「食べて」
「うん」

 美春が一粒口に入れて、目を閉じた。
 その時間が、長い。
 長すぎて、私は膝の上で指を握った。

「……おいしい」
「……ほんと?」
「ほんと。苦いのに、最後が明るい。秋穂って、こういう味作るよね」
「……どういう?」
「……強いのに、あったかい」

 私は、言葉が出なくて頷いた。
 美春は、時々こういうふうに、私を丸ごと掬い上げてしまう。

 だから、私も。

「……美春は」
「え?」
「……美春の、は」

 言い切る前に、美春の肩がわずかに跳ねた。返事より先に、息が小さく引っかかる。
 鞄の中を探る指先が、やたら丁寧だ。乱暴に扱ったら壊れてしまうものを扱うみたいに。

 やがて取り出された小さな箱は、私の箱より角が少しだけ不器用で、リボンもきれいに真っ直ぐじゃない。
 でも、そこがいい。目の前の子が、夜の台所で何度も手を洗って、冷蔵庫の扉を開け閉めして、失敗のたびに眉を寄せた気配が、そのまま残っている。

「……作った。3回、やり直した」
 短く言って、美春は笑おうとして、うまく笑えなかった。
 "褒められる準備"じゃなくて、"怖がる準備"をしてしまう顔だ。

「……途中、固まらなくて。焦って、キッチン……大変で」
「うん」
 私は頷くだけにした。余計な言葉を足すと、美春の勇気の温度が逃げそうだったから。

「開けて、いい?」
「……うん。こわいけど」

 "こわい"と言いながら、美春は視線を逸らさない。逃げない。
 それがどれだけのことか、私は知っている。

 蓋を持ち上げた瞬間、ココアの匂いがふわっと立った。
 生チョコ。少しいびつで、粉の濃淡も揃っていないところがある。だけど、並べ方が几帳面だ。端から端まで、同じ幅で、同じ向きで――美春の性格が、そのまま形になっている。

 美春は何も言わない。ただ、私の口元を見ている。
 "評価"じゃなく、"安心"を取りに来る視線だ。

 一粒をつまんで口に入れる。

 甘い。
 最初にふわっと広がって、次にゆっくり沈む。冷たいのに、芯があたたかい。
 上手いとか、下手とかじゃなく――これは、私のために作られた味だ。
 
 最初に来るのは、ミルクチョコの甘さ。
 それから、ココアパウダーの苦みが追いかけてくる。
 甘さは控えめ。でも、どこか温かい。
 
 形が不揃いで、プロの仕上がりからは遠いけれど、それでも、いや、だからこそ。
 
 美春が、これを作った。
 私のために、何度も失敗して、それでも諦めずに、作った。
 
 その想いが、味の奥に溶けている。

「……おいしい」
 言った瞬間、美春のまつげが震えた。息が、やっと下まで落ちる。

「……ほんと?」
「ほんと」
 私は、もう一粒を指で転がしてから、続けた。
「美春の手が分かる味」
「……それ、ずるい」
 照れ隠しの抗議。けれど口角が、少しだけ上がる。

「秋穂のやつ、私のより、全然……」
「比べなくていい」
 言い切ると、美春は一瞬だけ固まった。いつもなら引っ込めるところで、止まった。

「美春が、私のために作ってくれた」
 それだけを、真ん中に置く。飾りをつけない。
 美春は、その"それだけ"に弱い。私も同じだ。

「プロの味じゃなくていい」
 私は、喉の奥から溢れそうな言葉を、慎重にすくい上げる。
「……美春の味が、いちばん好き」

 美春の目が潤んで、指先が私の手を探す。
 こっそり、テーブルの下で触れ合う。
 指が絡まって、手の熱が伝わる。

「……ずるい」
「何が」
「そんなこと言われたら……もっと好きになっちゃう」
「いいよ」

 私は笑ってしまった。
 自分でも驚くくらい、自然に。

「もっと好きになって」

 美春が、息を止めたみたいに固まって、次の瞬間、顔を両手で隠した。
 耳まで真っ赤だ。

 可愛い。

     ◇

【秋穂】

「はいはい、お二人さん」

 背後から、やけに軽い声が飛んできた。
 マスターが、カウンターからこちらを見ていて、片手に小さな箱を二つ持っている。

「……見てました?」
「そりゃ見える場所でやってるからね。ほら、これ」

 テーブルに箱が置かれる。包装は、店のロゴ入り。きっちりしていて、無駄がない。

「なに、これ……」
「逆チョコ」
「逆チョコ?」
「逆チョコって、男から女へのお返しのことだけど……ま、店から君たちへの"ありがとう"ってことで」

 美春が目を丸くして、私は「ありがとうございます」と小さく頭を下げる。
 マスターは鼻で笑って、指で箱を指した。

「開けてみ」

 蓋を開けると、ボンボンショコラが並んでいた。艶があって、表面に小さな模様が刻まれている。まるで、夜の街灯が落とした光を閉じ込めたみたいだ。

「……すごい」
「ほら、食べな」
「いただきます」

 美春が一口食べて、目を見開いた。

「……やばい。おいしい……」
「だろ」

 マスターが満足そうに頷く。

「美春ちゃんさ」
「はい?」
「秋穂ちゃんから習ったら?」
「え?」
「お菓子作り。秋穂ちゃん、先生」

 美春が一瞬、驚いた顔をして、それからゆっくり笑った。
 そして私を見る。

「……秋穂、教えてくれる?」
「……教えるの、下手かもしれない」
「それでも、秋穂に教えてほしい」

 私は、頷いた。
 この先の未来に、そんな時間が増えるのが嬉しい。

 美春は経営を学ぶ。
 私はお菓子を磨く。
 それぞれの「得意」を持ち寄って、いつか同じ場所に立つ。

 その想像が、甘さよりも胸に残った。

     ◇

【秋穂】

 店を出ると、夜の空気が頬を刺した。
 吐く息が白く、街灯の下でふわっと散る。
 美春の手には、私の箱。私の手には、美春の箱。
 マスターの箱は二人で分けたから、鞄の中に小さく残っている。

 歩幅を揃えて歩く。
 人通りが少ない道に入った瞬間、私たちは自然に手を繋いだ。

「ねえ、秋穂」
「なに」
「ホワイトデー、何がほしい?」

 言われて、胸の奥がふっと熱くなる。
 欲しいもの。
 たくさんある。
 でも、言葉にできるのは一つだけ。

「……美春の、時間」
「時間?」
「一緒に、いられる時間」

 美春が笑って、少しだけ私の手を握り返した。

「……反則」
「何が」
「そんなの……私も、同じのがほしい」
「じゃあ」
「うん」

 冬の夜の冷たさの中で、私たちの手だけが、やけに温かい。
 甘さと苦さの境界線みたいに、曖昧で、でも確かにここにある温度。

 美春の手が、少しだけ震えている。
 寒いのか、それとも。

「……秋穂」
 美春が、小さく呼ぶ。
「うん」
「来年も、作っていい?」

 来年。
 その言葉が、胸に響く。
 来年も、私たちは一緒にいる。
 そういう約束。

「……私も、作る」
 私は答える。
「毎年、作る」

 美春が、少しだけ笑った。
 その笑い方が、泣きそうで、でも幸せそうで。

 本命と義理の境界線。
 私たちは、その線を越えた。
 
 もう、戻れない。
 戻りたくもない。