最初の味見は、いつも君に

 年が明けた。
 カレンダーが一枚めくれるだけなのに、空気まで少し新しくなる気がする。窓ガラスの向こう、まだ眠っている街は白っぽくて、吐く息が薄い煙みたいにほどけた。
 
 クリスマスから一週間。
 年末は家族とそれぞれ過ごして、大晦日の夜、スマホを握りしめながら『おやすみ』って送り合った。

 そして、今日――元日の朝。
 ――秋穂と迎える、最初の新年。

 そう思っただけで、胸の奥がふわっと温まる。去年の今ごろ、私はまだ、喫茶店の扉のベルが鳴る音にすら慣れていなかったのに。

 クリスマスの夜。
 改札で手をほどいて、秋穂の姿が人の波に溶けていくのを見送ったあと、私はホームへ向かう足を止められなかった。
 言いたいことが、どうしても残ってしまって。

 電車のドアが閉まる直前、スマホを握りしめて打った。

『秋穂、初詣、一緒に行きたい』
『また、二人で』

 送信した瞬間、胸がやけに静かになる。
 返事が来るまでの数秒が、やたら長い。

 ――すぐ、画面が震えた。

『行く』
『……行きたい』

 短いのに、秋穂の声がそのまま文字になったみたいだった。
 "行く"って言い切って、あとから"行きたい"をそっと足すところが、ずるい。かわいい。

 そのあと、もう一通。
『待ち合わせ、お正月の朝でいい? 駅前のロータリー。寒いから、無理しないで』

 心配性。
 でも、その心配が、私をほどく。
 私はすぐに返した。

『うん、行く。行きたい』
『寒かったら、私が温める』

 送ってから、自分の言葉に赤くなる。
 でも、取り消さない。
 こういうのを、私はもう、逃げたくない。

 恋人になって、まだ数ヶ月。
 教室では"仲のいい友達"。秘密のまま、世界の端っこで手を触れ合う。

 でも、初詣は――人が多い。
 手は繋げない。

 それでも、行きたい。
 同じ場所に並んで立って、同じ願いを胸にしまえるだけで、十分に特別だと思えたから。

     ◇

 待ち合わせは、元日の朝。

 駅前のロータリーは、いつもより静かで、代わりに吐息と足音がよく響く。
 自販機の灯りがやけに明るい。眠そうな顔の家族連れが、紙袋を揺らしながら歩いていく。
 どこかの家の玄関から、テレビの新年の挨拶が漏れていた。

 私は手袋の上から指を握って、落ち着かない心をなだめる。

 ――秋穂、来るかな。

 来るに決まっているのに、こういうときだけ不安になる。

 もし、急に風邪を引いたら。
 家族の用事が入ったら。
 それとも……私のこと、重いって思い始めたら――。

 頭を振る。
 ダメだ。そんなこと、考えても仕方ない。
 自分の弱さが、年越しそばのつゆみたいに、じわっと出てくる。

「……美春」
 名前が、背中に触れた。

 振り向くと、秋穂がいた。
 コートの襟を少し立てて、マフラーの端を指先で押さえている。髪はいつも通りにまとめているのに、頬が少し赤い。寒さのせいだと言い切れない赤さ。

「おはよう」
 私が言うと、秋穂は小さく頷いた。

「……おはよう」
 声が、いつもより柔らかい。冬の朝に溶けかけた氷みたいに、少しだけ丸い。

 私たちは並んで歩き出す。
 肩が触れそうで触れない距離。人が少ない道なのに、手を繋ぐ勇気はまだ出ない。勇気がないというより、秘密の形が身についてしまっている。

 でも、袖が触れたとき、秋穂の指先がほんの一瞬だけ私の手袋の上をなぞった。
 確かめるみたいに。
 それだけで、私は歩ける。

     ◇

 鳥居をくぐると、空気が変わった。
 屋台の湯気と甘い匂い、焼けた醤油の香ばしさ。
 鈴の音が、風に乗ってどこからか落ちてくる。
 参道の砂利を踏む音が、ざく、ざく、と小気味いい。
 しんと静まった冷たさの中に、焚き火の香りが混ざる。
 
 人の波に押されて、自然に距離が詰まる。
 肩がぶつかる。
 コートの布が擦れる。
 ――近い。

 近いのに、手は繋げない。その矛盾が、なぜか今日は苦しくない。むしろ、胸の中に小さな火があるみたいで、温かい。

 秋穂が小声で言った。
「……人、多い」
「うん。お正月だもん」
「……迷子になりそう」

 秋穂がそんなことを言うのが意外で、私は笑いそうになる。笑ったら、からかったみたいになるから、口元だけで堪えた。
「大丈夫。秋穂は迷子にならないよ」
「根拠は?」
「……秋穂、目がいいから」
「目?」
「うん。味も、温度も、ちゃんと見てるでしょ。きっと人混みも見える」

 秋穂が一瞬だけ固まって、それから、ほんの少しだけ口元がほどけた。
 笑いかけて、やめたみたいな笑み。

 私はその"途中"が好きだと思う。
 秋穂の笑顔は、いつも完成品じゃなくて、焼き上がり前の生地みたいに、これから膨らむ余地がある。

 列に並ぶ。
 賽銭箱の前まで、少しずつ近づく。
 
 前の人が手を合わせるたびに、鈴の音が揺れる。
 手水舎の水が、きん、と冷たい音を立てる。
 誰かが息を吸って、白い雲を作る。

 私の番が来る。
 賽銭を入れて、二礼、二拍手、一礼。
 柏手の音が、冬の空気を切る。ぱん、と乾いた音。その音が、妙に心地いい。

 目を閉じる。

 ――何を願おう。

 秋穂の夢が叶いますように。
 秋穂と、ずっと一緒にいられますように。

 その二つは、どちらも本当。
 でも、そのまま願ってしまったら、どこか他人任せになる気がした。神様に預けて、私は安心してしまいそうで怖い。

 だから私は、別の言葉を選ぶ。
 私の道を、見つけられますように。
 秋穂の隣にいるために、私ができることを、私自身で見つけられますように。

 目を開けると、秋穂がまだ祈っていた。

 長い。

 真剣。

 目を閉じた横顔が、朝の光に少しだけ白く見える。まつげの影が頬に落ちている。その影さえも、丁寧に整えられているみたいだ。

 ――秋穂は、いつも"ちゃんと"している。
 私と違って。
 私がぐらぐらしている間も、秋穂は自分の願いの形を見失わない。だから私は、秋穂に惹かれたのかもしれない。

 祈り終えた秋穂が、目を開ける。
 私と目が合って、少しだけ驚いた顔をする。
「……見てた?」
「見てた。長かったから」
「……長いの、だめ?」
「だめじゃない。むしろ、好き」

 秋穂が一瞬だけ視線を泳がせる。照れの逃げ場所を探す仕草。それを私は、もう見逃さない。
 
 おみくじを引く。
 木の箱を揺らすと、中で棒がぶつかって、からん、と乾いた音がする。秋穂はその音に少しだけ肩をすくめた。驚いたのか、寒かったのか分からないけど、可愛い。

 引いた紙を広げる。
 秋穂は「中吉」。
 私は「吉」。

 紙がぱり、と鳴る。薄い紙なのに、音が妙に大きい。
 秋穂は自分の紙をじっと見て、眉をほんの少し寄せた。

「……願望。努力次第で叶う」
「いいじゃん。努力、得意でしょ」
「得意じゃない。……してるだけ」
「それが得意ってことだよ」

 秋穂が小さく息を吐く。否定したいのに、否定しきれない顔。

 私は自分の紙を見る。
「願望:迷うなら進め」
 その文字が、胸に刺さる。

 迷うなら、進め。
 まるで見られているみたいだ。私の中の、ぐるぐる回っているものを。

 さらに下を読む。
「恋愛:相手の夢を支えよ」

「……」
 私は思わず、紙を握りしめた。
 支えよ、って。命令形が強い。強いのに、嫌じゃない。むしろ、背中を押される感じがした。

 秋穂が覗き込む。
「……美春、何?」
「……恋愛のとこ」
「……何て書いてある?」

 私は少し迷って、それから言った。
「相手の夢を支えよ、って」

 秋穂が一瞬だけ目を見開く。
 それから、ふっと小さく笑った。
 完全な笑顔じゃない。声も出ない。でも、確かに"笑った"と分かる。

「……当たってる」
 秋穂が言う。

 その一言が、嬉しいのに、苦い。
 当たってる。

 当たってるからこそ、私は怖い。
 秋穂の夢は、はっきりしている。

 私は――?

 ――迷うなら進め。
 その言葉が、胸の奥でざわざわ動く。
 進めって、どこへ?
 何を?

 秋穂の方を見ると、秋穂はまだ紙を見つめている。
 その横顔が真剣で、私は声をかけられなくなる。

 「……当たってる」
 秋穂が小さく呟いた。

 「何が?」
 「……内緒」
 
 秋穂が少し笑って、おみくじを畳む。
 その仕草が、妙に慎重で、私は胸がきゅっとなる。

     ◇

 二人で境内の端のベンチに座る。
 屋台で買った甘酒を手にすると、紙コップ越しに熱が伝わってくる。湯気が頬に当たって、冬の冷たさが少しだけ薄まる。

 秋穂は甘酒を一口飲んで、目を細めた。
「……甘い」
「嫌だった?」
「嫌じゃない。……でも、もう少し、塩が欲しい」

 秋穂らしい感想で、私は笑ってしまった。
「秋穂、ほんと職人」
「違う。……ただ、舌がうるさいだけ」
「うるさい舌、好き」

 言ってから気づく。私、今、さらっと言った。
 
 秋穂が固まる。
 耳まで赤くなる。
「……そういうの、ずるい」
「何が?」
「……言い方」

 私は甘酒を持ったまま、肩をすくめた。
「ずるくないよ。思ったこと言っただけ」

 秋穂は視線を落とす。紙コップの縁を指でなぞって、落ち着こうとしている。

 ――こういうところ。

 秋穂は、感情を隠すのが下手じゃない。むしろ上手い。でも、隠している"つもり"の瞬間が、少しずつ透けるようになってきた。

 それが、私は嬉しい。
 でも今日は、その嬉しさだけじゃ済まない。

 私は、深呼吸をして言った。
「秋穂」
「……なに」
「私、まだ決められてない」

 秋穂の指が止まる。

「進路のこと」
 言葉にした途端、自分の胸の中が騒がしくなる。甘酒の熱で温まったはずの手が、少し冷たくなる。

「秋穂には、夢がある」
「……うん」
「菓子職人になって、いつか自分の店を持つって、言った」
「……言った」

 秋穂は逃げない。目を逸らさない。そういうところも、私が惹かれる理由。

「でも、私には……まだ、ない」
 声が少しだけ震える。
「秋穂を応援したい。秋穂の夢を一緒に叶えたいって、本気で思ってる」
「……うん」
「でもそれって……秋穂の夢でしょ? 私の夢じゃない」

 言いながら、自分の中で何かがきしむ。言葉にするって、痛い。痛いのに、必要だ。

 秋穂は少し考えてから、静かに聞いた。
「美春は、何がしたい?」

 その問いが、まっすぐすぎて、私は言葉に詰まる。

 何がしたい?

 秋穂を応援することが、私の幸せだった。
 秋穂が笑うと嬉しい。
 秋穂が「ありがとう」と言うと、胸が満たされる。

 でも、それは"私の夢"じゃない。
 私自身の輪郭は、まだ曖昧で、冬の朝の霧みたいに掴めない。

「……分からない」

 やっと言う。
「分からないけど……怖い」
「何が?」
「秋穂は、前に進む」

 私は言葉を選びながら続ける。

「専門学校に行って、もっとすごいお菓子を作って、いつか店を持って……」
 その未来を想像すると、胸が熱くなる。嬉しい。誇らしい。なのに同時に、焦りが湧く。

「そのとき私が、ただ隣にいるだけの人だったら……嫌だ」

 秋穂が目を瞬かせる。
 驚いている。
 でも、否定しない。

 秋穂は少し間を置いて、言った。
「美春、焦らなくていい」

 その声が、甘酒の湯気みたいに、私の胸に広がる。
「私だって、最初は分からなかった」
「……秋穂は分かってたじゃん」
「分かってなかった」
 秋穂は首を振った。

「好き、って言うのも怖かった。続けたい、って言い切るのも怖かった。……でも、美春が、選んでいいって言ってくれた」
 そこで、秋穂は小さく息を吸った。

 言いづらいことを言う前の呼吸。
「だから、今度は私が応援する」

 胸が、きゅっとなる。
「美春が、やりたいことを見つけるまで」

「……待ってくれるの?」
「待つ」
 秋穂は、言い切った。

 この"言い切る"が、秋穂の成長だと分かる。前は、言葉の端を曇らせて逃げ道を残していたのに。今は、逃げない。
「でも、一つだけ」

 秋穂が、私の手袋に触れる。
 人が通る。すれ違う。だから、触れ方はさりげない。手袋の端をつまむみたいに。
 それでも、確かな温度がある。

「美春が、どんな道を選んでも」
 秋穂が言う。
「私の隣に、いてほしい」

 その一言で、胸の奥の何かがほどけて、目が熱くなった。
 ずるい。
 秋穂は、こういうときだけずるい。

 普段は自分を小さく畳むくせに、大事なところで私を掴む。
 私は笑いたいのに、泣きたい。

「……それだけは、譲れない」
 秋穂が小さく付け足す。

 譲れない。
 その強さが、愛おしい。

「……うん」
 私は頷く。
 頷きながら、胸の奥で何かが、かちん、と音を立ててはまる。

 ――そうだ。
 秋穂は、菓子を作る。
 私は、それを支える。

 支えるって、ただ見守ることじゃない。手を取って喜ぶことだけでもない。もっと現実の、硬い部分。

 秋穂が店を持つなら。
 仕入れがある。家賃がある。人件費がある。売上がある。計算がある。手続きがある。秋穂が苦手そうな"数字"と"交渉"と"書類"。
 その全部を、秋穂ひとりに背負わせたくない。

 私は、秋穂の隣で、秋穂が"作ること"に集中できる場所を作りたい。
 それが、私のやりたいことかもしれない。

 やっと、輪郭が見える。
 夢が、手の届くところにある気がした。

 ――たぶん、私はずっと「夢がある人」を眩しく見てきた。
 自分には、胸を張って言えるものがないから。
 だから誰かの夢の隣にいると、安心するくせに、同時に怖かった。置いていかれそうで。

 でも秋穂は違う。
 眩しいだけじゃない。手が汚れてる。指先が粉っぽい。数字と手順で、自分を支えてる。
 "好き"を、仕事の形に押し固めようとしてる。

 ――店を、回す目。

 ふいに、マスターの声が脳内で再生される。
 夏祭りのとき、私は笑って誤魔化したのに、言葉だけが残っていた。
 作る人と、回す人。どっちもいないと、店は続かない。

 秋穂の夢は、きっと「菓子職人」だけじゃ終わらない。
 いつか、店を持つ。名前をつける。看板を出す。
 季節でメニューを変えて、仕入れを読んで、売上を見て、スタッフを守って――それでも、作り続ける。

 その未来のどこかに、私は立てるだろうか。
 横に、じゃない。後ろでもない。
 "同じ地面"に、立てるだろうか。

 秋穂が前に進むほど、私は置いていかれる気がしていた。
 でも――違う。
 置いていかれるんじゃない。私が、進んでいないだけだ。

 秋穂が前に向けて持っている夢を、横から支えられる。
 それが私の役割かもしれない、と前に思った。
 あれは優しい言い訳じゃなくて、本当に、私が"叶えたい形"なんだと思う。

 秋穂の店。そこに私がいる未来。
 ――叶えたい。
 叶えたいから、選ぶ。私も、自分の進路を。

 私は息を吸って、言った。
「秋穂」
「……なに」
「私、決めた」

 秋穂の目が少しだけ揺れる。

「……私、大学に行く」
 言葉にした瞬間、自分の声が少しだけ遠く聞こえた。
 怖い。けど、逃げたくない種類の怖さ。

 秋穂が瞬きをする。
 驚きというより、確認みたいな目。

「大学……?」
「うん。経営学部」
 口に出すと、胸の奥がじんと熱くなった。
 熱いのに、妙に冷静でもあった。決めた、という感覚が背骨のあたりに残っている。

「……どうして」
 秋穂の声は小さい。
 責める小ささじゃない。大事なものに触れるときの小ささだ。

 私は一度、息を吸ってから言った。
 順番を間違えたくなかった。秋穂の母親に話すみたいに、でも"プレゼン"じゃなくて、"本音"として。

「秋穂が作るお菓子、私は大好き」
「……うん」
「でも、店って、味だけじゃ回らない。材料も、値段も、人も、時間も、全部……」
 言いながら、夏祭りの保冷ボックスの冷たさが指先に蘇る。
 あの日、崩れかけたのは材料だけじゃない。連携が崩れたら、味も壊れるって、マスターが言った。

「マスターが、前に言ってた」
 私は、自分の言葉を探しながら続ける。
「"店を回す目"って」
「秋穂は"作る目"を持ってる」
「だったら、私は――"回す目"を持ちたい」

 秋穂が少しだけ眉を上げる。
 その表情が、可笑しいくらい秋穂らしくて、私は笑いそうになって堪えた。

「作る人と、回す人。両方必要だって」
「……」
「私は、秋穂の夢を"支えたい"」
 言って、そこで止まりそうになる。

 ――それだけだと、私の人生が秋穂の付属品みたいになる。
 違う。私は"自分で決める"って、ここまで練習してきた。

「……でも、支えるため"だけ"じゃない」
 秋穂が、目を丸くする。

「私も、自分の足で立ちたい」
「……美春」
「秋穂の隣にいる未来、ただ憧れるんじゃなくて、ちゃんと"作りたい"」
 言葉が震えそうになって、私は手を握りしめた。
「秋穂が安心して作れる場所を、私は回したい。……そう思った」

 秋穂の喉が、小さく動く。
 それから、ぽつりと――秋穂が言った。

「……美春が経営やるなら、私、安心」
 その言い方は、軽くない。
 願いじゃなくて、信頼の重さだった。

 私は泣きそうになって、笑った。
「でしょ。だから、決めた」
「……簡単に言う」
 秋穂が言って、でも責める顔じゃない。
 むしろ、少しだけ眩しそうだ。

「簡単じゃないよ」
 私は首を振る。
「まだ、何も始まってない。受験科目も、親への説明も、先生への相談も……怖いことだらけ」
「……うん」
「でも、怖いままでいたくない。秋穂と同じ」
 秋穂が、ほんの少しだけ笑った。
 その笑顔が、今まで見たどれより"未来"の形をしていた。

 秋穂の目が潤む。
 泣きそうな顔で、笑っている。
 どちらにも行けなくて、揺れている。

「……ずるい」
 秋穂が、さっき私に言ったのと同じ言葉を返す。
「え、私が?」
「そういうの……勝手に、未来に入ってくるの」
「勝手に入るよ」

 私は言ってしまう。
「だって、秋穂が"いてほしい"って言った」
 秋穂が息を呑む。
 その反応が、嬉しい。

 私は小さく続けた。
「私も、譲れない」

 秋穂の口元が震えている。
 声は出ない。でも、確かに笑っている。
 私はその笑顔を見て、胸がいっぱいになる。

 神社の鈴の音が遠くで鳴る。誰かの柏手。屋台の呼び込み。子どもの笑い声。全部が混ざって、冬の空気の中で少し柔らかくなっていく。

 秋穂が、私の手袋をもう一度つまむ。
 ほんの一瞬。
 誰にも分からないくらい短く。
 でも、私には分かる。

「……ありがとう、美春」
「何が?」
「私の未来に、来てくれて」

 私は喉が詰まりそうになって、笑って誤魔化した。
「私が勝手に決めただけだよ」
「でも、嬉しい」
「私も」
 その二つの"嬉しい"が、同じ温度で重なる。

 ――そのまま立ち止まっていたら、溶けてしまいそうだった。
 だから私は、わざと軽い声を出す。

「……ねえ、秋穂。甘酒、もう一杯いける?」
「いけない。砂糖、多い」
「さっき"塩が欲しい"って言ってたもんね」
「言った」

 秋穂は少しだけ口元を尖らせて、屋台の列を横目で見た。
「……でも、今度は、焼き団子はあり」
「え、意外。秋穂って団子派なの?」
「団子は、温度がいい」
「温度」
「……外が乾いてて、中が柔らかい。噛むと、ちゃんと"戻る"」

 戻る、って言い方が秋穂らしくて、私は笑ってしまう。

「職人の感想だ」
「違う。……ただ、口がうるさいだけ」
「うるさい口、好き」
 言った瞬間、秋穂がぴたっと止まった。
 人混みの中なのに、その"止まり方"だけが目立つ。

「……また、それ」
「何?」
「……言い方」
「今日の私は、言い方が正月仕様なの」
「正月仕様って何」
「ちょっと縁起がいいこと言いたくなる」
「縁起……」
 秋穂は小さく息を吐いて、視線を落とした。

「……じゃあ、私も一個言う」
「なに?」
「美春、大学、受かったら……お守り、ちゃんと返しに来る」
「受かったら、じゃなくて」
 私はすぐに返す。

「受かる。だから、返しに来る」
 秋穂のまつげが震えた。
 ほんの少しだけ、笑いかけて、やめるみたいな笑み。

「……強い」
「秋穂が、そう言えって言った」
「言ってない」
「言ったよ。"迷うなら進め"って」
 私はおみくじの紙を軽く振ってみせる。紙がぱり、と鳴る。
 秋穂がそれを見て、少しだけ眉を寄せた。

「……紙、ぐしゃってなってる」
「握りしめたから」
「……大事なところ、そういうとこ」
「え、褒めてる?」
「褒めてない。……でも、嫌じゃない」
 その言い方が、照れの逃げ道を残してるのに、前よりずっと正直で。
 私は胸の奥で、小さく頷いた。

 参道を抜けると、風が少し強くなって、頬が冷える。
 息が白く伸びる。歩くたびに砂利の音が遠ざかって、代わりに街の生活音が近づく。

「……美春」
「ん?」
「大学、経営って、具体的に何するの」
「えっと……数字とか、計画とか、仕組みとか」
「曖昧」
「今は曖昧。でもね――」
 私は言葉を選ぶ。選びながら、ちゃんと前を見る。

「秋穂が"作る"のに、手を離しても倒れない台を作る。そういうの」
 秋穂が、少しだけ足を緩めた。
 私の言葉を、噛んでる。

「……台」
「うん。秋穂が安心して、焼ける台」
 秋穂は短く息を吸って、言った。
「……美春なら、私、安心」

 私は胸が熱くなるのを隠すために、わざと話題を変える。
「じゃあさ、受験勉強のご褒美、決めよ」
「ご褒美?」
「模試ひとつ終わるごとに、喫茶店で一個ずつ」
「……太る」
「太らない。歩くから」
「根拠」
「私が歩かせる」
「……ずるい」
「正月仕様だから」
「それ便利」
 秋穂が、ほんの少しだけ笑う。声は出ない。でも、笑ったと分かる。
 
 参道を抜けると、風が少し強くなって、頬が冷える。息が白く伸びる。歩くたびに砂利の音が遠ざかって、代わりに街の生活音が近づく。
 私たちは並んで歩く。

 人が少ない道に出たとき、秋穂が小さく言った。
「……寒くない?」
「大丈夫」
「……手、冷たくなってる」

 秋穂が自分の手袋を外して、私の手袋の上から包む。
 手袋越しなのに、秋穂の体温がじんわり滲む。

「秋穂の手、あったかい」
「……ずるい」
「またそれ?」
「そういうこと、言うから」

 私は笑ってしまう。
 笑いながら、思う。
 冬が始まった。

 秋穂の夢は、もう動いている。
 私の夢も、今、動き出した。

 まだ小さくて、まだ不安もある。大学に行けるかどうかも、これから頑張らないといけない。勉強だって、逃げられない。

 私たちは並んで歩く。
 冬の道の上に、薄い光が散らばっている。
 今日の帰り道は、クリスマスみたいに甘いだけじゃない。
 現実の冷たさも、風も、人の声も、ちゃんとある。

 それでも、隣がいる。

 秋穂と一緒なら。
 秋穂の手の温度が、背中を押してくれるなら。
 私はきっと、進める。

 迷うなら進め。
 おみくじの文字が、今は優しく聞こえた。