最初の味見は、いつも君に

 文化祭当日の朝。
 あの日から、三日が経った。

 秋穂は、私を避けていた。
 教室で資料を置く。廊下ですれ違う。家庭科室の扉が開く。
 そのたび、私は視線を逸らされる。
 逸らされるたび、胸の奥が冷える。

 昨日も、一昨日も、同じだった。
 「おはよう」も言えない。「ありがとう」も届かない。
 私たちは同じクラスで、同じブースを回しているのに、言葉だけが死んでいた。

 でも、今日は文化祭だ。
 逃げられない。ごまかせない。
 秋穂の夢が形になる日。
 その日に、私は秋穂と目を合わせられない。

     ◇

 校門をくぐった瞬間から、学校は"学校のふり"をやめる。
 普段は灰色のはずの廊下が、色紙とポスターで別の生き物みたいに見える。階段を上がるたび、どこかの教室から音楽が漏れ、笑い声が跳ね返り、揚げ物の匂いが鼻先をかすめる。制服じゃない服の色が混ざって、知らない人の足音がいつもより軽い。

 私たちのクラスの前には、すでに小さな渦ができていた。
 「喫茶店コラボ」「スイーツ」「限定」――手書きの文字に、廊下の人が吸い寄せられていく。

「美春、エプロン紐! ほどけてる」
 れいなが背中に手を伸ばし、きゅっと結び直した。
「ありがと」
「いや、似合いすぎ。メイド、天職」
「やめてよ」
 口では否定しても、笑顔は出せた。笑顔は、今まで何度も練習してきた"形"だ。

 白いエプロンの裾が揺れる。カチューシャが少し浮く。鏡で見た自分は、知らない誰かみたいだった。
 それでも、役割が決まっていると身体は動く。

 机を寄せて作ったカウンター。レジ代わりの箱。紙コップの束。アルコール、手袋、トング。
 そして、コーヒーの香り。

 湯気の立つサーバーの前に立つだけで、胸の奥が少し落ち着く。喫茶店で覚えた匂い。マスターがいつも淹れてくれた匂い。
 秋穂の作る焼き菓子に混ざると、そこだけ別の季節になる匂い。

「いらっしゃいませ!」
 私は声を張る。
 声は、今の私の"仕事の言葉"だ。迷いを押し込めるための音。

 最初の客は、近所の小学生二人組だった。
「これ、ほんとに高校生が作ったの?」
「周防さんって人、天才らしいよ」
 その名前が出るたび、胸の奥が微かに疼く。
 でも私は笑顔のまま、メニューを指でなぞった。

「おすすめは、レモンケーキとコーヒー寒天です」
「寒天! それにする!」
「レモンケーキ、すっぱい?」
「ううん、甘いよ。でも、ちゃんと大人の味」
 私は答えながら、喉の奥で言葉を飲み込んだ。

 ――秋穂の味だよ。
 そう言いたかった。言えなかった。
 秋穂の名前を口にしたら、胸の薄い膜が破れてしまいそうだった。

 小銭がトレーに落ちる音。紙コップが重なる音。
 "文化祭の音"が、カウンターの前でひっきりなしに鳴り続ける。

 列はすぐに伸びた。
 廊下の端まで人が連なり、途中で曲がって、別のクラスの前を通り過ぎていく。
 誰かがスマホを構えて「うわ、行列」と笑い、誰かが「回転早いから大丈夫」と言う。
 私たちのブースは、ただ売れているだけじゃなくて、ちゃんと"場"になっていた。

 ――成功だ。
 間違いなく、成功している。

 それなのに。

 私は、秋穂と目を合わせなかった。
 合わせられなかった。

 秋穂は家庭科室と教室を往復している。厨房役。補充役。仕上げ役。
 私はホール役。注文を聞き、会計をし、笑顔を返す役。
 役割分担としては完璧で、運営としては理想的だ。私たちは、滞りなく回っている。

 "滞りなく"回っているのに、心だけが空回りしている。

 家庭科室の扉が開くたび、私は視線を落とした。
 トレーに並ぶ焼き菓子の輪郭、粉砂糖の白、秋穂の指先の動き――それらを見たら、胸の奥の薄い膜が破れてしまいそうだった。

 あの日から、私たちは、言葉を交わしていない。
 あの嘘のせいで。
 "深い意味はない"という、逃げ道みたいな否定のせいで。

 否定したのは場のため。
 守ったのは空気。
 壊したのは――たぶん、秋穂のいちばん柔らかいところ。

     ◇

 午前の山が一段落した頃、ひとつ小さな事件が起きた。

「すみません、コーヒー、甘さ控えめってできますか?」
 年配の女性が、申し訳なさそうに言った。
 砂糖の袋はもう半分になっていた。ミルクポーションも残りわずか。
 列の後ろでは、「早く食べたい」「次どこ行く?」と声が弾む。

 私は一瞬だけ迷った。
 迷う癖が顔を出す。全部に応えようとして、全部を落とす癖。

 ――でも、夏祭りで学んだ。
 迷って止まるより、判断して進む方が場は回る。
 完璧じゃなくてもいい。"次"につながる答えなら、それでいい。

「できます」
 私はすぐに答えた。
「ブラックに近い味になりますけど、大丈夫ですか?」
「ええ、それで」
「ありがとうございます。少しだけお待ちくださいね」

 私はれいなに目配せし、砂糖の在庫を確認し、手順を頭の中で組み立てる。
 迷いの代わりに、判断が出た。

 ――私にも、できることはある。
 秋穂の焼き菓子みたいに"綺麗に整える"ことはできなくても。
 "回す"ことなら、私にもできる。

 それでも。
 その"できる"の真ん中に、秋穂がいないと、どうしてこんなに味気ないんだろう。

 年配の女性がコーヒーを一口飲んで、ほんの少しだけ目を細めた。

「いい匂いね。落ち着く」
「ありがとうございます」
「このお菓子も、高校生が?」
「はい。クラスメイトが作りました」

 クラスメイト。
 その言い方が、自分でも薄く感じる。
 秋穂は、クラスメイト以上の存在だ。

 でも、それを言えない。
 言葉にする資格がない。
 私は、秋穂を"深い意味はない"で切ったから。

     ◇

 午前の山が過ぎ、列が一瞬だけ短くなった。
 その隙間で、家庭科室の扉が開く音がした。

 秋穂が、新しいトレーを持って戻ってくる。
 焼き菓子が綺麗に並んでいる。いつもの秋穂の"整え方"だ。

 私は視線を逸らした。
 逸らしたのに、秋穂の足音だけは聞こえてしまう。
 教室を横切る音。カウンターに近づく音。
 トレーを置く、とん、という小さな合図。

「……補充」
 秋穂が短く言う。
 誰に、というわけでもない。空気に向けた報告。

「ありがとう!」
 クラスメイトが代わりに返す。
 私は、何も言えない。

 秋穂は背を向けて、また家庭科室へ戻っていく。
 その背中が、遠い。
 隣にいるのに、触れられない距離。

 私は、トレーの焼き菓子を見た。
 レモンケーキ。コーヒー寒天。マドレーヌ。
 全部、完璧だ。
 秋穂は一人でも、ちゃんと作れる。

 ――それが、いちばん苦しい。
 秋穂には、私がいなくても回せる。
 でも私は、秋穂がいないと、何も味がしない。

 私はコーヒーの香りを吸い込む。
 喫茶店で覚えた匂い。秋穂と過ごした時間の匂い。
 その匂いが、今は胸を締めつける。

     ◇

 昼過ぎ。
 列がほんの少しだけ短くなった瞬間に、空気が変わった。

 人混みの中でも、揺れない足音。
 視線が自然に道を空けるような、落ち着いた歩き方。

 香織さんだった。

 秋穂の母。
 プレゼンの日の、背筋が伸びる気配。
 正しさを、そのまま服にしたみたいな人。

 香織さんは教室の入口で立ち止まり、ブース全体をゆっくり見渡した。
 列の長さ。動線。衛生。値札。人の表情。
 観察の目が、ひとつずつ情報を拾っていく。

 そして家庭科室の方へ視線が向いたとき、香織さんの表情がほんの少しだけ変わった。

 秋穂が、トレーを持って戻ってくる。
 クラスメイトに「ありがとう!」と声をかけられ、短く「……うん」と返す。
 その"うん"が、いつもより柔らかい。
 忙しいのに、口角がほんのわずか上がっている。

 ――作業している秋穂は、笑えるんだ。
 私は胸の奥で思う。
 タスクがあれば、手を動かせば、秋穂は孤独を忘れられる。
 お菓子を"整える"ことで、自分も整えている。

 それが秋穂の強さで、同時に、弱さだ。
 一人でも回せてしまうから、誰かを必要としない顔ができる。
 でも本当は――

 本当は、秋穂はずっと誰かを求めていた。
 "特別"を求めていた。
 なのに私は、それを否定した。

 香織さんの目が、その笑顔に止まった。

「……あの子」
 誰にも聞こえないくらいの小さな声。
「……あんな顔で笑うのね」

 私はその言葉に、胸の奥が熱くなった。
 嬉しい、ではなく。
 痛い。
 秋穂が笑えていることが、誇らしいはずなのに、私の中では罪悪感の熱に変わってしまう。

 香織さんの視線が戻り、私を見つけた。

「結城さん?」
 名前を呼ばれると、喉が詰まる。
 私は接客用の笑顔を作って、頷いた。

「はい。結城美春です」

 香織さんは一歩近づいた。
 空気が少しだけ締まる。"大人"の距離。

「秋穂が、あなたの話をよくするわ」
 淡々とした声。責めるでも、褒めるでもない。事実だけが刺さる。

「文化祭の準備も、喫茶店のことも」
 香織さんは続けた。
「あなたがいると、秋穂が少し落ち着くんだと思っていた」

 ――落ち着く。
 その言葉が、胸のいちばん痛い場所を押した。

 私は秋穂を落ち着かせたかった。
 秋穂の夢を守りたかった。
 なのに、私は教室で、あんな言い方をした。

「……今日は、ありがとうございます」
 香織さんが言う。
「秋穂が頑張れているのは、あなたやクラスの協力があるからでしょう」

 お礼を言われる資格なんてない。
 受け取ったら、罰みたいだ。

「……いえ」
 私はそれだけ返した。
 続きが出ない。私は何をした? 支えた? 守った? 壊した?

 香織さんは教室の奥を見た。
 秋穂が、トレーを置いて、別のクラスメイトに何かを説明している。
 付箋の貼られた小さなノートを開いて、指で行をなぞりながら。
 あのノート。喫茶店で見た、レシピの走り書き。
 秋穂は、夢を"手の中に"持っている。

 香織さんの顔が、ほんの少し柔らかくなった。

「……この顔なら」
 小さな独り言。

 香織さんは去り際に、もう一度だけ私を見た。

「美春さん」
「はい」
「秋穂は、あなたを信じている」

 その言葉が、胸に突き刺さった。
 刃じゃない。むしろ温度のある言葉なのに、逃げ場がない。

 信じている。
 信じていた。
 私は、その信頼の上に嘘を置いた。

 香織さんが人混みに消える。
 私は、その背中を見送った瞬間に、決めた。

 ――今日、話す。
 後夜祭まで待たない。
 "決める"のを先延ばしにしない。

 ただし、今は動けない。
 列がある。お金が動く。役割が回っている。
 ここを崩したら、秋穂の夢の"形"まで崩れる。
 だから私は、動ける時間を作る。自分で、作る。

 そう決めた瞬間、胸の空洞が少しだけ輪郭を持った。
 空っぽの正体が見えた。

 成功が虚しいんじゃない。
 秋穂と笑えない成功が、虚しいんだ。

     ◇

「大成功だね!」
 クラスメイトが私の肩を叩いて笑う。
「列、まだある! やば!」
「美春、接客うますぎ!」

 私は笑って頷く。
 笑顔は作れる。声も出る。お釣りも返せる。
 "ちゃんとできる自分"でいれば、ここに居ていいと思える。

 でも、心はどこか別の場所にある。
 秋穂の背中の方。
 家庭科室の扉の向こう。
 あの日の教室の、扉の影。

 れいなが、私の横に来た。
 いつもの軽い声じゃない。ちゃんと心配の声。

「美春」
「なに?」
 私は笑いそうになって、やめた。今日は、笑いで誤魔化したくない。

「……今、顔がさ」
 れいなが言葉を探す。
「勝ってるのに、負けてる顔してる」

 私は息を吐いた。
 的確すぎて、笑えない。

「……空っぽなんだ」
 私は小さく言った。
「やれてるのに、嬉しくない。……秋穂が笑ってるのに、私、笑えない」

 れいなは少しだけ目を見開いて、それから、静かに頷いた。

「……周防さんのこと?」
 れいなが、さらりと言った。
 軽い声じゃない。ちゃんと受け止める声。

 私は喉が詰まった。

「……分かる?」
「分かるよ。だって美春、周防さんのこと見てる時、目が違うもん」
 れいなが少し笑う。

「……でも、私」
 言葉が出にくい。
「嘘をついた。秋穂を傷つけた」

 れいなは少し黙ってから、静かに言った。

「じゃあ、撤回しなよ」
「……撤回?」
「嘘を、取り消す」
 れいなの声が強くなる。
「美春、いつも空気に負けるじゃん。今日はさ、空気に勝ちなよ」

 勝つ、じゃない。
 守る、でもない。
 "選ぶ"だ。
 私はやっと、その言葉に触れた気がした。

「……怖い」
 私は正直に言った。
「撤回したら、また同じ空気になる。笑われる。からかわれる」
「うん」
 れいなは頷いた。
「でも、周防さんを取るか、空気を取るか。美春、どっち?」

 その問いが、胸に落ちる。
 答えは、もう決まっている。
 決まっているのに、口にするのが怖い。

 でも、怖いままじゃ何も変わらない。

「……秋穂」
 私は小さく言った。
「秋穂を、取る」

 れいながにやりと笑った。
 いつもの軽い笑いじゃない。背中を押す笑い。

「よし。じゃあ、今日中に言いなよ」
「……うん」
「応援してる」

 れいなが肩を叩いて、また接客に戻る。
 私は、その背中を見て思う。

 ――友達って、こういうものなんだ。
 迎合じゃなくて。
 押してくれる。

 私は深呼吸をした。
 今日、秋穂に会う。
 今日、撤回する。
 怖くても、やる。

     ◇

 午後。
 列がまた伸び、短くなり、伸びて、短くなる。
 人気のピークは波みたいに何度も来る。
 そのたび、教室の中の空気が変わる。

 小さな子が寒天をスプーンで掬って「ぷるぷる!」と笑う。
 男子生徒が「甘いの苦手だけど、これならいける」と言って顔を赤くする。
 他校の制服の子が「来年ここ来たい」と言って写真を撮る。
 近所のおじさんが「この香り、昔の喫茶店みたいだな」と目を細める。
 コーヒーの苦みと、レモンの酸味と、焼き菓子のバターの香りが混ざって、教室が一瞬だけ本物の店になる。

 そのたび私は、嬉しさの"ふり"をしてしまう。
 本当の嬉しさがどこにあるか、知っているから。

 秋穂のスイーツが評価されるたび、私は誇らしい。
 同時に、痛い。
 秋穂が輝くほど、私が秋穂を傷つけた事実だけが浮き上がる。

 そして――その"浮き上がり"が、私の決意を削らない。
 むしろ固めていく。

 今日、話す。
 今日、撤回する。
 "深い意味はない"を、引き剥がす。

 列が途切れたとき、ふと気づく。
 秋穂が、いない。

 家庭科室も、教室の隅も、補充用のカウンターも。
 どこにも、秋穂の姿がない。

 私は胸がざわつく。
 まさか、帰った?
 逃げた?

 いや。秋穂は逃げない。
 秋穂は、自分の役割を投げ出さない。

 私はれいなに目配せして、教室を出た。
 廊下の人混みをかき分けて、家庭科室へ向かう。

 扉を開けると、秋穂がいた。

 シンクの前で、トレーを洗っている。
 水音だけが響いて、秋穂の背中は小さく見える。

「……秋穂」
 私が呼ぶと、秋穂の手が止まった。

 振り向かない。
 背中のまま、短く言う。

「……なに」

 声が冷たい。
 冷たいというより、疲れている。
 "期待しない"に慣れてしまった声。

 私は一歩だけ近づく。
 ここで逃げたら、また同じだ。

「……ごめん」
 私は言った。
「ごめん、じゃ足りないけど」

 秋穂の肩が、わずかに震える。

「……今さら?」
 秋穂が、やっと振り向いた。

 目が赤い。
 泣いてない。でも、泣きそうな目。

「今さら、だから」
 私は言った。
「遅くなった分、ちゃんと言う」

 秋穂は視線を逸らした。
 逸らして、また戻す。
 その揺れが、秋穂の迷いだ。

「……今、忙しい」
 秋穂が言う。
「文化祭、終わってない」

「分かってる」
 私は頷いた。
「だから、今は短くていい」

 私は息を吸った。
 ここで言う。今、言う。

「後夜祭、屋上にいて」
 秋穂の目が揺れる。
「そこで、ちゃんと話す」

 秋穂は黙った。
 返事がない。
 でも、否定もしない。

 私はそれだけで、十分だった。

「……待ってる」
 私は言って、家庭科室を出た。

 廊下の喧騒が戻ってくる。
 でも、胸の奥は少しだけ軽くなっていた。

 秋穂に、"約束"を作った。
 それだけで、前に進める気がした。

     ◇

 夕方前。
 教室の入口に、見慣れた背中が現れた。

 マスター。

 紺のシャツに、いつもの穏やかな顔。
 でも目だけが、いつもより真剣だった。

「お邪魔するよ」
 マスターが教室を見渡し、短く笑った。
「……すごいねえ。ほんとに店みたいだ」

 クラスメイトが「本物の店主さんです!」と盛り上がる。
 マスターは照れたように手を振って、奥へ進む。

 ちょうど秋穂がトレーを持って戻ってきた。
 マスターがそれを見て、顔をほころばせる。

「秋穂ちゃん、よく頑張ったな」
 秋穂は一瞬だけ止まり、短く頷く。
「……うん」

 笑顔が硬い。
 それが、私には分かる。分かるから、苦しい。

 マスターも気づいたのだろう。
 秋穂の目をじっと見て、何も言わず、焼き菓子をひとつ手に取った。

「味は、いつもの秋穂ちゃんだ」
 小さく言って、噛みしめる。
 それから、私の方を見た。

「美春ちゃん」
「はい」
 声が震えそうで、喉の奥に力を入れる。

「……成功してるのに、顔が無糖だ」
 マスターの言い方は、優しいのに刺さる。
「売れてるかどうかじゃない顔だ」

 私は笑えなかった。
 答えも、すぐには出ない。

「喧嘩でもしたか?」
 マスターが続ける。

 その一言で、胸の奥に溜めていたものが揺れた。
 泣きそうになる。泣いたら終わる。
 でも、終わっていいのかもしれない。
 "薄くして"続けるのが、もう限界だから。

「……私」
 やっと声が出た。
「嘘をついた」

 マスターは驚かなかった。責めもしない。
 ただ、黙って頷く。聞く準備がある目。

「成功ってのはね」
 マスターが小さく言う。
「誰と作って、誰と笑うかで味が変わる」

 その言葉が、胸に落ちる。
 甘いのに苦い。
 私たちの話だ。

 私は決意を、もう一度確かめた。
 前倒しした決意を、逃げない形にする。

 ――今日。絶対に。

 マスターが肩を軽く叩いた。

「美春ちゃん、君は優しいから」
「……」
「でも、優しさで誤魔化したら、優しさが嘘になる」

 その言葉が、胸を貫く。
 優しさが嘘。
 私の優しさは、嘘だった。

「……はい」
 私は頷いた。
「今日、ちゃんと言います」

 マスターが小さく笑った。
 信じてる、という笑い。

「そうか。なら、大丈夫だ」

     ◇

 空が少しずつ濃くなり、校庭の方から後夜祭の準備のアナウンスが聞こえる。
 教室の中の熱は、まだ残っている。けれど、人の波は"次の場所"へ流れ始めていた。

 私はエプロンの紐を握り、深呼吸をした。
 心臓がうるさい。
 でも、うるさいくらいでいい。今日は、薄くしない。

 れいなが、私の横に来た。

「行ってきなよ」
「……うん」
「美春なら、大丈夫」

 その言葉が、背中を押す。

 私は、秋穂の顔だけを見る。
 空気じゃなくて。
 みんなの視線じゃなくて。
 自分の怖さじゃなくて。

 私は教室を出た。
 廊下を抜けて、階段を上る。
 一段ずつ、足音が響く。

 屋上への扉が見える。
 立入禁止の札が、風で揺れている。

 私は、その扉の前で立ち止まった。
 息を吸う。吐く。
 心臓が跳ねる。

 ――怖い。
 でも、怖いままじゃ何も変わらない。

 私は、ドアノブを握った。
 金属が冷たい。
 でも、その冷たさが現実の温度だ。

 ギィ、と扉が開く。
 夜風が流れ込んで、頬を撫でる。

 秋穂が、フェンスの近くにいた。