最初の味見は、いつも君に

【秋穂】

 文化祭準備の教室は、音で満ちていた。

 手のひらには、まだレモンの香りが残っている気がした。
 試作ノートに「美春用」と書いた文字が、まだ頭の中でちらついている。

 椅子が床を擦る、ガムテープが裂ける、ホッチキスが乾いた音を鳴らす。
 誰かが笑って、誰かが焦って、誰かが「間に合う?」と叫ぶ。
 そういう雑多な響きが、空気をふくらませていく。

 その中心に、今日も私はいる。

 机の上に並べられた試作の焼き菓子。小さなパウンド、クッキー、カップに入ったコーヒー寒天。
 家庭科室の蛍光灯の下でも、輪郭が崩れない。色も、形も、余計なものがない。
 私の"整える力"が、そのままお菓子になっている。

「周防さん、これ作ったの?」
「香り、すご……」

 声が飛ぶたび、私は短く返す。

「……うん」
「……温度は、これくらい」

 言葉の端は淡い。でも、内容は正確だ。
 必要なところだけを切り取って差し出すから、みんなは安心して持ち上げられる。

 ――でも、私の目は、美春を探していた。

 美春は少し離れたところで、シフト表を見直していた。
 赤ペンを持って、誰かの名前を確認している。いつもの動き。いつもの位置。

 ――美春は、いつも端にいる。

 私がみんなに囲まれているとき、美春は紙を持って立っている。
 私が質問に答えているとき、美春は誰かのために動いている。

 ――なぜ、いつも端にいるんだろう。

 その疑問が、昨日よりも、もっと強くなっていた。

 昨日の夜、喫茶店で美春は言った。

 「完璧だよ」

 その声は、逃げない声だった。
 美春の声は、いつも少しだけ優しすぎて、でも昨日は違った。
 ちゃんと私を見て、ちゃんと評価してくれた。

 「美春の意見、ちゃんと聞きたい」

 私が言ったら、美春は少し驚いた顔をして、それから頷いてくれた。

 「美春がいい」

 私がそう言ったとき、美春の目が揺れた。
 嬉しそうに見えた。でも、すぐに不安げな顔になった。

 ――美春は、いつも不安そうだ。

 笑っているのに、目が笑っていないときがある。
 「大丈夫」と言うのに、声が震えているときがある。

 私は、美春のそういうところを、ぜんぶ覚えてしまっている。

 ――美春は、私にとって、特別だ。

 その言葉を思うたび、胸が温かくなる。
 温かいのに、怖い。

 期待したら、裏切られる。
 特別だと思ったら、そうじゃないって気づく。

 でも――

 私は、もう止められない。
 美春から目が離せない。
 美春の動きを追ってしまう。
 美春の声を聞きたくなる。

 ――これは、何?

 答えは、まだ言葉にできない。
 でも、胸の奥で小さな声がする。

 ――私は、美春が好きなんじゃないか。

 その言葉を思った瞬間、心臓が跳ねた。
 怖い。怖いのに、否定できない。

 ――好き。

 その言葉の重さが、胸に沈む。
 重いのに、甘い。

 私は、美春が好きだ。
 美春の笑顔が好きで、美春の声が好きで、美春の不器用な優しさが好きで、美春の全部が好きだ。

 ――でも、美春は私のことをどう思っているんだろう。

 その疑問が、怖くて、痛い。

 美春は「美春がいい」と言った。
 でも、それは「味見の相手」としてなのか、それとも――

 ――私も、美春にとって、特別なのかな。

 その期待が、胸の奥で灯る。
 灯って、すぐに怖くなる。

 でも、消せない。

 私は、美春の横顔を見ていた。
 シフト表に赤ペンで線を引く指。
 左上から書き始める癖。
 重要なところに二重線を引く癖。

 そういう小さなことを、私はぜんぶ覚えている。

 ――美春のこと、もっと知りたい。

 そう思った瞬間、教室の空気が変わった。

     ◇

【美春】

 ――秋穂が、みんなのものになっていく。

 そんな言葉が、また浮かぶ。
 昨日、喫茶店で秋穂は言った。

 「美春がいい」

 その一言が、今も胸に残っている。
 嬉しかった。嬉しいのに、今は苦しい。

 秋穂と仲直りして、いったん整えたはずの、甘い安心。
 でもその安心は、教室の笑い声の中で、少しずつ溶けていく。

 私は少し離れたところで、シフト表を見直すふりをしていた。
 目を伏せた紙の上に、黒いペンの線が重なる。
 手を動かせば、余計な気持ちは薄まる……はずだった。

 でも、胸の奥のざらつきが消えない。

 ――秋穂を独占したい。

 その欲望が、喉の奥で脈打っている。
 醜い。幼い。でも、消せない。

「ねえ、結城さん」

 女子生徒の声は軽かった。軽いから、油断した。
 試作の片付けが一段落して、クラスがそれぞれの作業に散った頃。教室が一瞬だけ"間"を作ったタイミングだった。

「なに?」
 私はいつもの調子で返す。合わせる。丸くする。
 女子生徒は口元をにやっとさせて、周りにも届く声で言った。

「結城さんってさ、周防さんと付き合ってんの?」

 一秒、空気が止まった。
 止まって、それから弾けた。

「え、マジ?」
「うそー!」
「確かに、いつも一緒だよね」
「喫茶店も行ってるって聞いた!」
「青春じゃん!」

 笑い。からかい。好奇心。
 悪意は薄い。薄いからこそ、逃げ道がない。
 面白がりながら、私たちの距離に勝手に言葉を貼る。

 付き合ってんの?

 その言葉が胸の奥を掻き混ぜる。
 ――ばれた?
 違う。ばれてない。
 本当に付き合ってるわけじゃない。まだ、言葉にしていない。
 それなのに、"付き合う"という言葉だけが先に走って、私の心のどこかを踏み抜いてくる。

 私は怖くなった。
 誰かに何かを決められることが怖い。
 決めてもいないのに、決まったことにされるのが怖い。
 そして、秋穂のことを"みんなの話題"にされるのが、たまらなく怖い。

 ――だから私は、反射で逃げた。
 場を丸くする方向へ、いちばん慣れた嘘へ。

「ち、ちがうよ!」

 声が、思ったより明るく出た。
 笑い声に負けないように、わざと大げさに。

「え、秋穂? ああ、喫茶店で勉強見てもらってるだけだよ」
 言葉が滑り出る。止められない。
「別にさ、深い意味はないっていうか……」

 深い意味はない。

 その言葉が、私の口の中で乾いた。
 否定の形をした安全策。
 でも本当は、いちばん鋭い刃だと、私は知っていた。

「えー、じゃあ親友って感じ?」
「周防さん、恋愛とか興味なさそうだもんね」
「美春の片想い?(笑)」

 笑いがまた起きる。
 私は笑って、手を振る。

「ちがうって! ほんとに、助けてもらってるだけ。文化祭も一緒にやってるし」
 私は言葉を重ねる。重ねるほど、嘘が固まる。
 固まるほど、撤回が難しくなる。

 私の手が、無意識に机の角を握っている。
 れいなが、その手をちらりと見た。

「美春、ちょっと買い出し行ってきて」
 れいなが軽く背中を押す。
 私は笑って頷き、れいなに感謝した。これで、都合よくこの場から逃げ出せる。

「うん、いいよ」

 その瞬間、胸の奥がひゅっと冷えた。
 安堵と、後悔。
 場は守れた。作業は止まらない。誰も気まずくならない。全部、正しい。

 ――だけど、私が守りたかったのは、場じゃない。

 秋穂の心だ。秋穂の夢だ。
 そして、私がやっと見つけた"自分で選ぶ場所"だ。

 なのに私は、そこを守るために、秋穂を切り捨てる言葉を選んだ。
 深い意味はない。
 助けてもらってるだけ。

 それは、秋穂がいちばん欲しかったもの――「自分を肯定してくれる人」――を、真横から折る言い方だ。

 私はそのことに気づいていて、気づいているからこそ、息が浅くなる。

     ◇

【秋穂】

 私は、教室のドアの影に立っていた。

 家庭科室の鍵を取りに戻ったのだ。
 忘れ物。ただの忘れ物。

 でも、ドアを開けようとした瞬間、女子生徒の声が聞こえた。

「結城さんってさ、周防さんと付き合ってんの?」

 手が、止まる。
 心臓が、跳ねる。

 ――付き合ってる?

 その言葉が、胸の奥で甘く響く。
 私と、美春が。

 ――そんなわけ、ない。

 頭では分かっている。分かっているのに、胸が期待してしまう。

 美春の声が、聞こえる。

「ち、ちがうよ!」

 ――ああ、やっぱり。

 否定。当然の否定。
 私は、そう思った。
 思ったのに、胸が少しだけ痛んだ。

 でも、美春の声は続く。

「え、秋穂? ああ、喫茶店で勉強見てもらってるだけだよ」

 ――勉強、見てもらってる、だけ?

 一緒に喫茶店にいるのは、お菓子の話をするため。
 味見をしてもらうため。

 ――ただ、それだけ?

「別にさ、深い意味はないっていうか……」

 ――深い、意味は、ない。

 その言葉が、胸に刺さる。
 刺さって、そのまま沈んでいく。

 深い意味はない。
 助けてもらってるだけ。

 ――そう、なんだ。

 私の中で、何かが音を立てて崩れる。
 崩れて、崩れて、崩れていく。

 ――私が、勘違いしてた。

 美春が喫茶店に来てくれるのは、ただの「勉強のため」だった。

 ――私が、期待しすぎた。

 胸の奥で、自己否定の声が響く。
 期待したら、裏切られる。
 特別だと思ったら、そうじゃないって気づく。

 ――また、私が勝手に。

 美春は、私にとって特別だ。
 でも、私は、美春にとって特別じゃない。

 ――深い意味はない。

 その言葉が、何度も何度も、胸の奥で反響する。

 私は、動けなくなった。
 足が、重い。
 息が、浅い。

 教室の笑い声が、遠くで響く。
 誰かが「周防さん、恋愛とか興味なさそうだもんね」と言った。

 ――恋愛、興味ない?

 興味ないわけじゃない。
 ただ、怖いだけだ。

 期待したら、裏切られる。
 特別だと思ったら、そうじゃないって気づく。

 だから、興味がないふりをしてきた。

 ――でも、美春のことは。

 美春のことは、違った。
 美春のことは、特別だった。

 なのに――

 ――深い意味はない。

 その言葉が、全部を否定する。

 私は、視線を落とした。
 涙が出そうになる。でも、出ない。
 泣く余白がない。

 胸の中で自分を責める音だけが、響いている。

 ――勘違いしてた。
 ――期待した私が悪い。
 ――また、私が勝手に。

 私は、教室からのドアから離れた。
 誰にも気づかれないように、静かに。

 廊下が、冷たい。
 窓から入る風が、頬を撫でる。

 ――もう、期待しない。

 その言葉を、心の奥に刻む。
 刻んで、涙を押し込める。

 期待しなければ、裏切られない。
 特別だと思わなければ、傷つかない。

 ――私は、また一人に戻る。

 靴音だけが、廊下に響く。
 私の足音。誰も追いかけてこない音。

 その覚悟を決めた瞬間、背後で声がした。

「秋穂!」

 美春の声だ。

     ◇

【美春】

 教室のドアの影に、秋穂が立っていた。

 最初に気づいたのは、れいなでも、クラスの誰かでもなく、私だった。
 視線がふっと引き寄せられて、そこに"影"があるのを見た。

 秋穂。
 戻ってきたのだろう。家庭科室の鍵か、備品か、買い出しの確認か。
 タイミングが悪い。――最悪のタイミング。

 秋穂は動かなかった。
 扉の陰に半分隠れて、ただ立ち尽くしている。目が焦点を失っているみたいで、こちらを見ているのかどうかも分からない。

 私の喉が、音を失う。
 さっきの言葉は、全部届いている。
 教室の笑い声に紛れても、秋穂の耳は鋭い。必要な情報だけを拾ってしまう人だ。
 そして今の言葉は、秋穂にとって"必要すぎる情報"だった。

 秋穂の唇が、ほんの少し動いた。
 声は出ないのに、その形だけで、私は読めてしまった。

 ――深い意味はない。

 秋穂の目が、わずかに揺れる。
 泣きそうじゃない。泣く余白がない。
 胸の中で自分を責める音だけが、きっと響いている。

 「……勘違いしてた」
 そんな声が、秋穂の中から聞こえた気がした。
 「期待した私が悪い」
 「また、私が勝手に」
 「また、私が……」

 自己否定が秋穂を包む。
 私は一歩動こうとした。口を開こうとした。

「秋穂――」

 でも、その瞬間。
 秋穂は視線を切って、無言で踵を返した。

 影が、扉の向こうへ消える。
 教室の音が戻ってくる。誰かが「装飾どうする?」と叫んで、誰かが笑って、世界は何も変わらない顔で動き続ける。

 変わったのは、私の中だけだ。

 指先が冷たくなった。
 汗をかいていたはずなのに、手のひらが冬みたいに冷たい。

「……美春?」
 れいなが覗き込む。
「顔、白いけど。大丈夫?」
 私は笑おうとして、笑えなかった。

「……なんでもない」
 嘘が、もうひとつ増える。

     ◇

【美春】

 放課後。
 私は秋穂を探した。

 階段の踊り場、図書室の前、家庭科室、校舎裏。
 廊下を何往復したか、もう分からない。
 
 どこにもいない。
 教室に戻っても、秋穂の席は空だった。資料だけが綺麗に揃えられている。
 感情の痕跡がないほど整っているのが、逆に怖い。

 やっと校門の方へ向かう背中を見つけて、私は走った。
 近いのに遠い。追いつけそうで、追いつけない距離。

「秋穂!」

 呼ぶと、秋穂は足を止めた。
 振り向かない。背中だけが固い。

 私は息を切らして近づき、痛いほど息を吸って言う。

「さっきの、違うの」
 声が震える。
「違うっていうか……私、あれは……」

 秋穂が、ゆっくり振り向いた。

 目に温度がない。
 冷たいというより、体温が抜け落ちたみたいな無色さ。
 あの喫茶店で見せる、小さな笑いの気配がない。

「……忙しいから」
 秋穂が淡々と言う。
「しばらく、喫茶店はいい」
「え、でも――」
 私は一歩踏み出す。
 秋穂は、その一歩を止めるみたいに言葉を重ねた。

「文化祭も、私は作る役だけやる」
「秋穂……」
「余計なことはしない」

 余計なこと。
 その言い方が胸に刺さる。私の存在が余計だと言われたみたいで、息が詰まる。

「私、余計なことなんか――」

 言いかけて、止まる。
 喉に詰まるのは、さっきの嘘だ。

 深い意味はない。
 助けてもらってるだけ。

 撤回するなら、今しかない。
 でも撤回したら、教室に戻って、みんなの前で訂正しなくちゃいけない。
 私が守ろうとした"場"を、私自身が壊さなくちゃいけない。

 怖い。
 怖いのに、怖いと言うのも嫌だ。
 ――でも私は、怖さに縛られている。

 秋穂は、私の沈黙を見て、小さく息を吐いた。
 その息が、何かの区切りみたいに聞こえた。

「……分かった」
 その「分かった」が、何を意味するか。私は分かってしまう。

 "撤回しないんだ"
 "本当に深い意味はないんだ"
 "私が勘違いしてただけなんだ"

 秋穂は視線を落として、最後に言った。

「結城……美春」
 名前を呼ばれる。
 いつもより距離のある呼び方。丁寧な壁。

「……私、もう期待しない」

 その一言で、世界がすっと静かになった気がした。
 周りの風の音だけがやけに鮮明になる。遠くで部活の掛け声がして、校門の鉄がきしむ音がして――それが全部、別の世界の音みたいに遠い。

 秋穂は踵を返して歩き出す。
 私は追いかけられない。足が動かない。声が出ない。
 迎合で作った嘘は、その場では撤回できない。

 私はただ、背中が遠ざかるのを見ていた。

 夕方の空は高くて、夏の名残の匂いに、秋の乾いた気配が混じっていた。
 季節だけが先へ進む。
 私は置いていかれる。

 ――それから、二人は喋らなくなった。

 翌日、秋穂は家庭科室に来なかった。
 その翌日も、秋穂は必要な資料だけを机に置いて、私を見なかった。
 
 文化祭まであと三日。
 私たちの間に、言葉は戻らなかった。