昼休みの図書室は、いつもより少しだけ空気が軽い。
声を出す人が少ないせいで、ページをめくる音や、椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく聞こえる。
新学期。クラス替え。席替え。名前を覚えるのも、雑談の輪に入るのも、まだぎこちない。
だから昼休みくらい、こういう静かな場所に逃げてしまう。
そうして目的もなく背表紙を指で辿っていたとき、窓際の机にいる人が視界に入った。
――あ。
机の上に開かれた、分厚い英語の本。
ページの端には、色とりどりの付箋が幾重にも貼られていて、まるで小さな旗みたいに揺れている。
その本を、淡々と、でも丁寧に追っている横顔。
周防秋穂。
秋穂とはこの春から同じクラスになった。
誰かに馴染むより先に、自分の時間へ戻っていく子だ。
だから――見てしまう。
目立たないのに、形が崩れない。そういうところを。
彼女は本を開いて、黙々と読んでいる。
付箋が何枚も貼られていて、角が丸くなっていて――何度も同じ場所に戻っているのが分かる。
ただの読書じゃない。"目的がある読み方"。
私は背表紙の列に視線を預けたまま、窓際の気配だけを拾ってしまう。
見ないつもりだったのに、目の端が勝手に追ってしまう。
近寄りがたい。でも、目を離せない。
秋穂の目は、本にだけ向いている。
誰も見ていない。誰にも見られていない。
机の上の世界が、彼女の呼吸の幅だけに収まっていて。そこに誰も入れないのが、綺麗だった。
顔立ちの美しさじゃない。
誰にも見せない努力を、当たり前みたいに積んでいるところ。
誰にも見られない場所で、誰のためでもなく整っている姿が、眩しかった。
私が"空気"に合わせて形を変えている間、秋穂は目的のために無駄を削ってひとつの形を研いでいる。
――私には、できない。
……いい子でいるのは得意なのに。
こういう"まっすぐな努力"を見ると、胸の奥がざわつく。
秋穂の本の表紙が、少しだけこちらに傾いた。
表紙に英字と、少しだけ色褪せた苺タルトの写真が見える。
PATISSERIE。
その単語が、耳に残るみたいに目に刺さった。
パティスリー。……お菓子の店?
私は意味をちゃんと知らないのに、なぜか舌の上に残る。
甘い言葉みたいに。
息を止めたまま、棚の間を一歩だけ移動する。
"フランス語"の棚。
料理。
製菓。
それっぽい背表紙が並んでいる。
……別に、何かになりたいわけじゃない。
秋穂に話しかけたいわけでもない。
――そう思っているのに、手が先に動いた。
背表紙の文字が視界に入る。
『フランス菓子の歴史』
"歴史"って、固そうなのに。
"菓子"って文字が、さっきの単語と糸で繋がったみたいに、指を引いた。
私はそのまま、本を引き抜いてしまう。
ガサ、と紙が擦れる音。
図書室の静けさの中で、少しだけ大きい。
――今、音を立てた。
心臓が跳ねて、反射的に秋穂を見る。
ページをめくる音が、一拍だけ止まった気がして、私は息を止めた。
でも秋穂は、顔を上げない。
世界が、秋穂のページの中に閉じている。
……安心した。でも、少しだけ、寂しかった。
私は本を抱えてカウンターへ向かう。
借りる理由は、たぶん、あとから追いつく。今は言葉にならないだけ。
「美春、戻るよー」
れいなの声で、私は現実に引き戻された。
返事をしながらも、最後にもう一度だけ、窓際を盗み見た。
秋穂は、何も知らない顔で本を読んでいる。
私の心だけが、勝手にざわついていた。
あの子がなにを考えているのか、知りたい。
◇
廊下に出ると、空気が少しだけ変わった。
図書室の静けさが薄れて、代わりに、教室のざわめきが近づいてくる。
借りた本を胸に抱えたまま歩く。
背表紙の硬さが、指先に残っている。
チャイムが鳴った。
私は一度だけ足を止めて、息を整える。――姿勢を正す、みたいに。
教室の扉を引くと、いつもの昼の音が戻ってきた。
椅子を引く音。笑い声。机を叩く音。
私はそれらの間をすり抜けて、自分の席へ戻った。
担任が出席簿を閉じる音がして、教室の空気が"日常"に戻る。
「じゃあ、保健係。誰か、やってくれる人いる?」
担任の声が、四月の教室に落ちた。
高校二年生の教室。まだ新しい机の匂いがして、黒板消しの粉が光の中にふわっと浮かぶ。窓の外は、春の風でグラウンドの砂が少し舞っていた。
誰かが周りを見回す。誰かが笑って肩をすくめる。
その"間"に――私の手は、勝手に上がった。
「はい、結城」
担任が迷いなく指す。
私は座ったまま、反射みたいに笑ってうなずく。
「はい。やります」
声が明るすぎて、自分でも少しだけ浮いたのが分かった。
でも教室の空気は、その浮きをすぐに飲み込んでくれる。
ほっとする。
息がしやすくなる。
誰かが"困らない"だけで、私はこんなに安心できる。
私の「はい」は、弾むようで、薄い紙みたいだった。
貼り付ければ、角が立たない。
丸くなれば、ぶつからない。
ぶつからなければ、嫌われない。
"いい子"でいるのは上手い。
でも、"自分"でいるのは、たぶん下手。
◇
昼休み。
「で、連休どこ行く? ゴールデンウィークだよ?」
周りの席でも、同じ話題が弾けている。
旅行。遊園地。部活。バイト。お泊まり。
予定、という言葉が、教室中で跳ね回る。
「美春は? なにするの」
れいなの問いが、いちばん近いところで跳ねた。
答えが、ない。
予定がない、とは言いたくない。
言ったら空気が少し尖る気がして、尖った空気が怖い。
誰も責めないのに、私だけが勝手に怖がる。
私は曖昧に笑った。
「んー……ちょっと、いろいろ?」
「なにそれ。ふわっとしすぎ」
れいなが笑う。
笑いは優しいのに、胸の奥がひゅっと縮む。
ふわっと。
それは褒め言葉みたいに聞こえるのに、私には"決めてない"の別名に聞こえる。
「美春って、どこでも生きてけそうだよね」
「そうかな」
「うん。……でもさ」
れいながパンをかじって、少しだけ首を傾ける。
「美春って、優しいけどさ。たまに、どこ見てるのか分かんない時ある。……一緒にいるのに、ふっと遠くなる感じ」
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
――わからなくていい。
わかってもらわなくていい。
角を出さなければ、安全だから。
教室の後ろで、秋穂が静かに立ち上がり、机の横に置いていた本を一冊だけ抱え直した。
誰にも声をかけず、鞄を持って、教室を出ていく。
ドアが開く音。
廊下に出る音。
そして閉まる音。
その三つが、ざわめきの中で妙にくっきり聞こえた。
私は一瞬だけ、秋穂の背中を追いかけたくなる。
でも追わない。
追う理由がない。
追ったら、私の心が見えてしまう気がする。
――私は、ずるい。
予定がないのに、あるふりをする。
行きたい場所があるのに、言えない。
胸の奥で、小さく擦れる音がした。
◇
その夜、私は自分の部屋で、制服を脱いだあともしばらく動けなかった。
今日の自分が、引っかかっていた。
何かを見て、何かを思って、でも結局、何もしない。
――決められない。
別に、重大なことじゃない。
進路とか、告白とか、そういう"人生"じゃない。
ただ、放課後に寄り道する店ひとつ。
それすら、私はいつも"誰かに合わせて"決めている。
私はベッドに座って、膝の上に今日借りたばかりの本を置く。
『フランス菓子の歴史』
今日、図書室でなんとなく手に取った本。表紙は古めかしくて、ページは少し黄ばんでいる。
なんで、こんな本を借りたんだろう。
理由を探しても、見つからない。
ただ――秋穂の机の上にあった本の、英字の文字が頭に残っていた。
PATISSERIE。製菓。
私は、お菓子作りに興味なんてなかった。
食べるのは好きだけど、作る側には立ったことがない。
レシピを見ても、分量を測るのが面倒で、途中で投げ出してしまう。
なのに、この本を開いている。
最初のページには、フランスの古い街並みの写真。
石畳の道、小さな店、ショーウィンドウに並ぶ色とりどりのケーキ。
文章は難しくて、読むのに時間がかかる。
でも、なぜか目が止まる。
"味を記憶する"みたいなことが書いてあった。温度とか、焼き色とか。
今日、図書室で見た秋穂の姿が、頭に浮かぶ。
ノートに何かを書き留める手。
迷いのないペンの動き。
窓の外を一度だけ見て、また本に戻る仕草。
――知りたい。
その思いが、急に強くなる。
秋穂のことを、もっと知りたい。
彼女が何を考えて、何を目指して、何に夢中になっているのか。
でも、どうやって?
本を閉じる。
でも、ページの匂いが鼻に残る。
古い紙と、インクと、少しだけ甘い匂い。
窓の外、春の夜の空気が冷たい。
でも、胸の奥は少しだけ温かかった。
秋穂のことを考えている自分に、気づいてしまったから。
付箋だらけの英語の本。
ペン先。
声を出さない笑い方。
(私は、何を知りたいんだろう)
秋穂のことを、もっと。
……いや、"知りたい"って言うと、まるで最初から仲良しみたいで図々しい。
ただ、確かめたい。
昼のあの横顔が、私の勘違いじゃないってこと。
あの人が、遠いガラスの向こうの人じゃなくて――同じ街で、同じ時間を生きてるってこと。
スマホを開いて、検索窓に指を置く。
「喫茶店」――そこで止まる。
別に、喫茶店じゃなくてもいい。ファミレスでも、どこでも。
でも、今日は"選ぶ"って決めたかった。
もう一度、指を動かす。
「喫茶店 静か」
「喫茶店 落ち着く」
「喫茶店 焼き菓子」
候補が並ぶ。
知らない名前が、いくつもある。
私はその中から、ひとつだけ選んだ。
――明日、そこへ行く。
自分で決めた場所へ、自分の足で行く。
それだけのことが、今の私には大きい。
そして私は、まだ知らない店の扉を開ける。
そこに何があるかは分からない。
でも、分からないままでも――私は、行くと決めた。
行く理由は、練習。
自分で決めて、自分で行く練習。
誰かに会うためじゃない。
何かが起きるためでもない。
ただ、私が私の足で、場所を選ぶ。
スマホを閉じると、部屋が少しだけ静かになる。
静かになって、心臓の音が目立つ。
……緊張してる。
店を選んだだけで。
――大丈夫。
決めたのは、私だ。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな芯ができた。
頼りないけど、確かにそこにある。
◇
ゴールデンウィーク初日。
朝の部屋は静かだった。
母は出かけていて、家の中に私だけがいる。冷蔵庫のモーター音が、やけに大きい。
私はベッドに座ってスマホを眺める。
SNSには「旅行!」「朝からカフェ!」みたいな写真が流れてくる。
いいな、と思う。
でも、私にはそういう華やかな予定はない。
――でも、今日は違う。
れいなに「ふわっとしてる」と言われて、私は"決められない自分"にまた気づいてしまった。
でも、今日は――自分で決めた場所がある。
私は立ち上がって、鏡の前で髪を整えた。
制服じゃない服を選ぶだけで少し迷う。
けれど今日は、迷ってもいい。迷った末に、決めればいい。
鞄に、『フランス菓子の歴史』を入れた。
喫茶店で読もう。そうしたら――少しだけ、秋穂の世界に近づける気がする。
玄関で靴を履くとき、心臓が少し速くなる。
"自分で決めて出かける"ことが、こんなに緊張するなんて知らなかった。
自分で決めたのに、怖くて逃げ出したくなる。
でも、もう、決めた。これは、決める練習。
ドアを開ける。
外の光が眩しい。
春の風が頬を撫でる。
私は一歩、外へ出た。
――その店で、私は彼女に出会った。
声を出す人が少ないせいで、ページをめくる音や、椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく聞こえる。
新学期。クラス替え。席替え。名前を覚えるのも、雑談の輪に入るのも、まだぎこちない。
だから昼休みくらい、こういう静かな場所に逃げてしまう。
そうして目的もなく背表紙を指で辿っていたとき、窓際の机にいる人が視界に入った。
――あ。
机の上に開かれた、分厚い英語の本。
ページの端には、色とりどりの付箋が幾重にも貼られていて、まるで小さな旗みたいに揺れている。
その本を、淡々と、でも丁寧に追っている横顔。
周防秋穂。
秋穂とはこの春から同じクラスになった。
誰かに馴染むより先に、自分の時間へ戻っていく子だ。
だから――見てしまう。
目立たないのに、形が崩れない。そういうところを。
彼女は本を開いて、黙々と読んでいる。
付箋が何枚も貼られていて、角が丸くなっていて――何度も同じ場所に戻っているのが分かる。
ただの読書じゃない。"目的がある読み方"。
私は背表紙の列に視線を預けたまま、窓際の気配だけを拾ってしまう。
見ないつもりだったのに、目の端が勝手に追ってしまう。
近寄りがたい。でも、目を離せない。
秋穂の目は、本にだけ向いている。
誰も見ていない。誰にも見られていない。
机の上の世界が、彼女の呼吸の幅だけに収まっていて。そこに誰も入れないのが、綺麗だった。
顔立ちの美しさじゃない。
誰にも見せない努力を、当たり前みたいに積んでいるところ。
誰にも見られない場所で、誰のためでもなく整っている姿が、眩しかった。
私が"空気"に合わせて形を変えている間、秋穂は目的のために無駄を削ってひとつの形を研いでいる。
――私には、できない。
……いい子でいるのは得意なのに。
こういう"まっすぐな努力"を見ると、胸の奥がざわつく。
秋穂の本の表紙が、少しだけこちらに傾いた。
表紙に英字と、少しだけ色褪せた苺タルトの写真が見える。
PATISSERIE。
その単語が、耳に残るみたいに目に刺さった。
パティスリー。……お菓子の店?
私は意味をちゃんと知らないのに、なぜか舌の上に残る。
甘い言葉みたいに。
息を止めたまま、棚の間を一歩だけ移動する。
"フランス語"の棚。
料理。
製菓。
それっぽい背表紙が並んでいる。
……別に、何かになりたいわけじゃない。
秋穂に話しかけたいわけでもない。
――そう思っているのに、手が先に動いた。
背表紙の文字が視界に入る。
『フランス菓子の歴史』
"歴史"って、固そうなのに。
"菓子"って文字が、さっきの単語と糸で繋がったみたいに、指を引いた。
私はそのまま、本を引き抜いてしまう。
ガサ、と紙が擦れる音。
図書室の静けさの中で、少しだけ大きい。
――今、音を立てた。
心臓が跳ねて、反射的に秋穂を見る。
ページをめくる音が、一拍だけ止まった気がして、私は息を止めた。
でも秋穂は、顔を上げない。
世界が、秋穂のページの中に閉じている。
……安心した。でも、少しだけ、寂しかった。
私は本を抱えてカウンターへ向かう。
借りる理由は、たぶん、あとから追いつく。今は言葉にならないだけ。
「美春、戻るよー」
れいなの声で、私は現実に引き戻された。
返事をしながらも、最後にもう一度だけ、窓際を盗み見た。
秋穂は、何も知らない顔で本を読んでいる。
私の心だけが、勝手にざわついていた。
あの子がなにを考えているのか、知りたい。
◇
廊下に出ると、空気が少しだけ変わった。
図書室の静けさが薄れて、代わりに、教室のざわめきが近づいてくる。
借りた本を胸に抱えたまま歩く。
背表紙の硬さが、指先に残っている。
チャイムが鳴った。
私は一度だけ足を止めて、息を整える。――姿勢を正す、みたいに。
教室の扉を引くと、いつもの昼の音が戻ってきた。
椅子を引く音。笑い声。机を叩く音。
私はそれらの間をすり抜けて、自分の席へ戻った。
担任が出席簿を閉じる音がして、教室の空気が"日常"に戻る。
「じゃあ、保健係。誰か、やってくれる人いる?」
担任の声が、四月の教室に落ちた。
高校二年生の教室。まだ新しい机の匂いがして、黒板消しの粉が光の中にふわっと浮かぶ。窓の外は、春の風でグラウンドの砂が少し舞っていた。
誰かが周りを見回す。誰かが笑って肩をすくめる。
その"間"に――私の手は、勝手に上がった。
「はい、結城」
担任が迷いなく指す。
私は座ったまま、反射みたいに笑ってうなずく。
「はい。やります」
声が明るすぎて、自分でも少しだけ浮いたのが分かった。
でも教室の空気は、その浮きをすぐに飲み込んでくれる。
ほっとする。
息がしやすくなる。
誰かが"困らない"だけで、私はこんなに安心できる。
私の「はい」は、弾むようで、薄い紙みたいだった。
貼り付ければ、角が立たない。
丸くなれば、ぶつからない。
ぶつからなければ、嫌われない。
"いい子"でいるのは上手い。
でも、"自分"でいるのは、たぶん下手。
◇
昼休み。
「で、連休どこ行く? ゴールデンウィークだよ?」
周りの席でも、同じ話題が弾けている。
旅行。遊園地。部活。バイト。お泊まり。
予定、という言葉が、教室中で跳ね回る。
「美春は? なにするの」
れいなの問いが、いちばん近いところで跳ねた。
答えが、ない。
予定がない、とは言いたくない。
言ったら空気が少し尖る気がして、尖った空気が怖い。
誰も責めないのに、私だけが勝手に怖がる。
私は曖昧に笑った。
「んー……ちょっと、いろいろ?」
「なにそれ。ふわっとしすぎ」
れいなが笑う。
笑いは優しいのに、胸の奥がひゅっと縮む。
ふわっと。
それは褒め言葉みたいに聞こえるのに、私には"決めてない"の別名に聞こえる。
「美春って、どこでも生きてけそうだよね」
「そうかな」
「うん。……でもさ」
れいながパンをかじって、少しだけ首を傾ける。
「美春って、優しいけどさ。たまに、どこ見てるのか分かんない時ある。……一緒にいるのに、ふっと遠くなる感じ」
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
――わからなくていい。
わかってもらわなくていい。
角を出さなければ、安全だから。
教室の後ろで、秋穂が静かに立ち上がり、机の横に置いていた本を一冊だけ抱え直した。
誰にも声をかけず、鞄を持って、教室を出ていく。
ドアが開く音。
廊下に出る音。
そして閉まる音。
その三つが、ざわめきの中で妙にくっきり聞こえた。
私は一瞬だけ、秋穂の背中を追いかけたくなる。
でも追わない。
追う理由がない。
追ったら、私の心が見えてしまう気がする。
――私は、ずるい。
予定がないのに、あるふりをする。
行きたい場所があるのに、言えない。
胸の奥で、小さく擦れる音がした。
◇
その夜、私は自分の部屋で、制服を脱いだあともしばらく動けなかった。
今日の自分が、引っかかっていた。
何かを見て、何かを思って、でも結局、何もしない。
――決められない。
別に、重大なことじゃない。
進路とか、告白とか、そういう"人生"じゃない。
ただ、放課後に寄り道する店ひとつ。
それすら、私はいつも"誰かに合わせて"決めている。
私はベッドに座って、膝の上に今日借りたばかりの本を置く。
『フランス菓子の歴史』
今日、図書室でなんとなく手に取った本。表紙は古めかしくて、ページは少し黄ばんでいる。
なんで、こんな本を借りたんだろう。
理由を探しても、見つからない。
ただ――秋穂の机の上にあった本の、英字の文字が頭に残っていた。
PATISSERIE。製菓。
私は、お菓子作りに興味なんてなかった。
食べるのは好きだけど、作る側には立ったことがない。
レシピを見ても、分量を測るのが面倒で、途中で投げ出してしまう。
なのに、この本を開いている。
最初のページには、フランスの古い街並みの写真。
石畳の道、小さな店、ショーウィンドウに並ぶ色とりどりのケーキ。
文章は難しくて、読むのに時間がかかる。
でも、なぜか目が止まる。
"味を記憶する"みたいなことが書いてあった。温度とか、焼き色とか。
今日、図書室で見た秋穂の姿が、頭に浮かぶ。
ノートに何かを書き留める手。
迷いのないペンの動き。
窓の外を一度だけ見て、また本に戻る仕草。
――知りたい。
その思いが、急に強くなる。
秋穂のことを、もっと知りたい。
彼女が何を考えて、何を目指して、何に夢中になっているのか。
でも、どうやって?
本を閉じる。
でも、ページの匂いが鼻に残る。
古い紙と、インクと、少しだけ甘い匂い。
窓の外、春の夜の空気が冷たい。
でも、胸の奥は少しだけ温かかった。
秋穂のことを考えている自分に、気づいてしまったから。
付箋だらけの英語の本。
ペン先。
声を出さない笑い方。
(私は、何を知りたいんだろう)
秋穂のことを、もっと。
……いや、"知りたい"って言うと、まるで最初から仲良しみたいで図々しい。
ただ、確かめたい。
昼のあの横顔が、私の勘違いじゃないってこと。
あの人が、遠いガラスの向こうの人じゃなくて――同じ街で、同じ時間を生きてるってこと。
スマホを開いて、検索窓に指を置く。
「喫茶店」――そこで止まる。
別に、喫茶店じゃなくてもいい。ファミレスでも、どこでも。
でも、今日は"選ぶ"って決めたかった。
もう一度、指を動かす。
「喫茶店 静か」
「喫茶店 落ち着く」
「喫茶店 焼き菓子」
候補が並ぶ。
知らない名前が、いくつもある。
私はその中から、ひとつだけ選んだ。
――明日、そこへ行く。
自分で決めた場所へ、自分の足で行く。
それだけのことが、今の私には大きい。
そして私は、まだ知らない店の扉を開ける。
そこに何があるかは分からない。
でも、分からないままでも――私は、行くと決めた。
行く理由は、練習。
自分で決めて、自分で行く練習。
誰かに会うためじゃない。
何かが起きるためでもない。
ただ、私が私の足で、場所を選ぶ。
スマホを閉じると、部屋が少しだけ静かになる。
静かになって、心臓の音が目立つ。
……緊張してる。
店を選んだだけで。
――大丈夫。
決めたのは、私だ。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな芯ができた。
頼りないけど、確かにそこにある。
◇
ゴールデンウィーク初日。
朝の部屋は静かだった。
母は出かけていて、家の中に私だけがいる。冷蔵庫のモーター音が、やけに大きい。
私はベッドに座ってスマホを眺める。
SNSには「旅行!」「朝からカフェ!」みたいな写真が流れてくる。
いいな、と思う。
でも、私にはそういう華やかな予定はない。
――でも、今日は違う。
れいなに「ふわっとしてる」と言われて、私は"決められない自分"にまた気づいてしまった。
でも、今日は――自分で決めた場所がある。
私は立ち上がって、鏡の前で髪を整えた。
制服じゃない服を選ぶだけで少し迷う。
けれど今日は、迷ってもいい。迷った末に、決めればいい。
鞄に、『フランス菓子の歴史』を入れた。
喫茶店で読もう。そうしたら――少しだけ、秋穂の世界に近づける気がする。
玄関で靴を履くとき、心臓が少し速くなる。
"自分で決めて出かける"ことが、こんなに緊張するなんて知らなかった。
自分で決めたのに、怖くて逃げ出したくなる。
でも、もう、決めた。これは、決める練習。
ドアを開ける。
外の光が眩しい。
春の風が頬を撫でる。
私は一歩、外へ出た。
――その店で、私は彼女に出会った。
