桃色のアリス ~暗黒の魔女とアリスの想い~

2 暗黒の影

 落ちていくにしては妙な浮遊感を感じながら、下へ下へと落下を続ける。そして意識もゆっくりと、しかし確実に夢の中へと堕ちていく。
 ――あぁ、またあの夢を見るのかな。
 時計が見せる十三代目アリスの記憶。悲しい悲しい記憶。
 意識が夢の中にいるのか、現実にいるのか判別がつかなくなってきた中、不意に映像が走馬灯のように駆け巡った。断片的な映像で、途切れ途切れ流れていく。
 見覚えのある部屋の隅で座る、ウサギ耳を生やした少年。ニンジンみたいな髪色は、艶を失って疲れが見えた。身体には鎖が繋がれていて、腕には沢山の噛み跡。やせ細った傷だらけの身体を暴れさせ、少年は大きな鎌で鎖を破壊し、窓ガラスを粉砕する。
 飛び散った窓硝子の破片が床に落ちると同時、燕尾服の男性が膝をつく。振り絞られた願いに少年が振り返ることはなく、星が陰った暗闇の夜に、細い身体は吸い込まれるように消えていく。
 青い髪から垣間見えた狂気の表情。感情を一切隠すことなく、喜びも悲しみも出したその口元には、見覚えがあった。腹から吐き出された、悲しみを狂喜に変えた笑い声は心をひどく痛ませた。
 ――これは、何?
 あれは、帽子屋だ。帽子屋の館にいるとなれば、狂ったように笑うウサギは――
 情報を得ようと断片的な映像を探ろうと手を伸ばした矢先、映像は途切れる。
「見ちゃ駄目だよ、アリス」
 幼いようだけれど、しっかりした意思を持った声に周囲を見渡す。けれど姿はどこにもなく、あるのは星の世界。夢の記憶が詰まった星が、深い紺色の世界にふわりふわりと浮かんでいる。触れようと星に手を伸ばすと、まるで残像のように通り抜けてしまった。行き場を失った手が空を掴む。
「夢魔? どこ?」
 星屑をちりばめ夢魔が姿を現す。また会えたのが嬉しくて頬を緩めると、夢魔は照れくさそうに顔を赤らめた。
「良かった。また会えたね」
「夢で会えるって言ったじゃん」
 拗ねたように口を尖らせる夢魔だけど、近寄ると今度は夢魔から身を寄せてきた。
「ねぇ、夢魔は私が見た夢を見たんでしょ? 今の夢は何? あれは夢なの?」
 断片的に流れた映像はやけにリアルで、夢とは思えない。
「あれは夢じゃないよ。帽子屋の館の記憶の欠片。帽子屋がいたのは見えたでしょ?」
「うん」
「穴に入った時に紛れ込んだんだろうね。何故だかは分からないけど」
「帽子屋は、三月ウサギを失ったんだね」
 夢魔は苦い顔をすると、何も言わなかった。
 魔女の呪いに抗えないことを誰よりも知り、囚われている夢魔だから、帽子屋の悲しみも、三月ウサギの苦しみもきっと分かっている。それは白ウサギも黒ウサギも、チェシャ猫も、皆一緒のはずだ。
 ――やっぱり私は、呪いを解きたい。こんな表情を皆にしてほしくない。悲しみの連鎖を断ち切って、皆で笑い合いたい。
「私ね、呪いを解くって決めたの」
 今度はすんなりと言葉になった。
「え?」
 私の突然の告白に夢魔は藍色の目を大きく見開く。
「驚くのも無理ないよね。私、白ウサギに会って色々な事を知って、感じて。ずっと曖昧だった願いに気付く事が出来たの。黒ウサギも白ウサギも消えてほしくない。皆に笑っていてほしい。それがどんなに難しい事だとしても、私は諦めない。さっきね、人が狂気に染まるのを見たの。たった歩くだけでも奇妙で異質で、心は恐怖を叫んでいた。人が狂うとこんな風になってしまうんだって、苦しさも感じない姿が怖かった」
 怖かった。正直、逃げ出してしまいたかった。それに、私が鏡を探すことによって、この人達を狂ったままにしてしまう事実が目の前に突きつけられて、今考えても目眩がしそうだった。けれど、このまま根本の呪いを解かないでいたら、百年後も呪いは繰り返し世界を壊し、人を狂気へ堕としていく。あの光景がまた再現されて、次のチェシャ猫も同じように世界の災厄を背負って生きていかなければならない。
 そんなのは嫌だ。こんなこと、繰り返しちゃいけない。
「狂気を払う為にも、鏡を見つけて、この世界に私達にかかっている呪いを解く。私の力だけじゃ、きっと難しいけれど、」
 夢魔は一度何か言おうと顔を上げたけれど、迷いがあったようで開いた口を閉じる。けれど決心したようで、直ぐに顔を上げた。
「アリスが決めたなら、僕は何も言わない。けど、これだけは言わせてよ。僕はアリスの味方だよ。呪いを解くって、僕をこの夜から出してくれるって言ってくれたアリスの味方だよ。僕の望みに僕が何もしないなんて、アリスだけに任せるなんてしたくない。僕も力になりたい。だから僕は僕に出来ることをする。夢で迷った時は僕が迎えに行くから」
 夢魔は言い切ると、恥ずかしくなったようでそっぽを向いた。