桃色のアリス ~暗黒の魔女とアリスの想い~

「おかしいね。だんだん気配の追ってくるスピードが速くなっている。それに」
 妙な違和感に走るのを止め立ち尽くす。
「気配が、増えている」
 チェシャ猫の言葉通り、気配は増えて禍々しい雰囲気が漂っている。街はどんどんと狂気を増していく。黒い霧が、街中を覆い尽くすようだった。ひんやりと喉を冷やす冷気と、酸素が奪われていくような錯覚。逃げ場などないと悟ってしまう。
「いいかい? 絶対僕から離れないでね」
 チェシャ猫に引き寄せられ、慎重に足を踏み出した。
 周りを見渡せば、一見変わらない街並み。けれど行き交う人達の微かな変化が怖かった。何かに怯えるように身体を縮こませながら、注がれる紅茶。踊っていながらも、踊ることの楽しさを忘れたような能面の表情。心は怯えている。けれど笑っている。視線は私たちに集中していた。
「そこのお嬢ちゃん、ちょっといいかい?」
「え?」
 小さなお婆さんが、私の腕を掴んでいた。ガタガタと震えながら掴む手は、この人の異常さを伝えている。
「あ、あの」
 口はニヤリと笑っているのに、目が笑ってない。次第に震えは掴む手だけでなく、全身がガタガタと震え出す。奇妙で恐ろしい。
「連れている猫はチェシャ猫かぁい? お嬢ちゃんは」
 時間が止まったかのように静寂が訪れ、辺りの空気が変わる。
「ア リ ス ?」
 お婆さんが首を傾けてケタケタと笑う。それが合図だった。路地から、お店の中から。近くにいた人さえも、狂気を纏いぞろぞろと私たちを囲む。
 私はすぐにチェシャ猫の背中に隠された。普通じゃない様子に、チェシャ猫が神経を尖らせる。尻尾は毛を逆立てていた。
 人々の姿はまるで、人形が劇の上で歩くようだった。天から糸が引いていて、操られているようにユラユラと身体が揺れる。その全員の様子が奇妙で異質。覚束無い歩き方に、顔に張り付く恐怖に狂った笑い。緊張の糸が振り切れて、壊れてしまった心。
「これは、流石に通してもらえそうにないね」
 チェシャ猫の横顔を見れば、冷や汗をかいているのが分かる。
 向けられる殺気。チェシャ猫の言う通り、前も後ろも私達を囲む人だらけで通れそうにない。チェシャ猫が構えを取り、チラリと見えた長い爪がこの先の展開を物語っていた。
「街の人達を傷つけたら駄目だよ!」
「大丈夫。殺したりしないよ」
 相手は一般の人々。街の人達を傷つけるわけにはいかない。チェシャ猫の言葉に少しほっとしたけど、安心出来る状況ではない。
「皆、私たちは」
 世界を救うために此処にいる。そんな言葉が出かかって、言葉を飲み込む。
 私が決めたことは、此処にいる人達を恐怖に、狂気に晒してしまっているのかもしれない。私がウサギの呪いを解くために鏡を探す間も、世界を壊す狂気は止まらない。
 私は真逆のことを、しようとしている?
「チェシャ猫、不幸を呼ぶ猫」
 一人が喋り出したかと思うと、他の人も呪文を唱えるようにブツブツと何かを呟き始める。
「災いを招く猫」
「世界の崩壊は、お前のせいだ」
「何を言っているの。チェシャ猫が不幸を招くはずないよ! それに、世界の崩壊は魔女の呪いのせいだよ!」
「チェシャ猫は世界の崩壊を知らせている。不幸を運んでいる」
「違うよ! そんな事ない!」
 チェシャ猫は世界の崩壊の始まりの知らせをするけれど、それは役目であってチェシャ猫のせいじゃない。
「嫌われ者、必要ない者」
「消えてしまえ。消してしまえ」