雨の日に出会い、ほんの少しの時間だけど一緒に過ごした男の子がいた。まだリズとも出会っていない、街を探検していた頃。私の視界に、その男の子は瀕死の状態でうずくまっていた。雨が降っているのに傘も持たずびしょ濡れで、傘に入れてあげると倒れ込んでしまった。ジャックさんに頼んで部屋に入れてあげて、看病したのだった。どうして今まで忘れてしまっていたのだろう。
『ねぇ、遊ぼうよ――』
星が見せた夢の中。幼い私に手をひかれていた、男の子の名前を私は確かに呼んでいた。けれど、記憶に靄がかかっていて思い出せない。
懐かしさを感じたのは、チェシャ猫と会っていたからなの?
もしチェシャ猫なら、チェシャ猫はどうして教えてくれないのだろう。 教えたくない理由があるから?
それともただ単に覚えていないの?
「チェシャ猫。一つ聞いてもいい?」
「ん? なんだい?」
「私とチェシャ猫、幼い頃に会った事はある?」
伏せていた目線を上げ、チェシャ猫の顔を見ると、ぽかん、と不意をつかれたような表情がそこにあった。けれどすぐにいつもの笑みへと戻る。
「ないよ。でも」
「でも?」
「会った事はあるかもね」
「え? どっち? ないけれど会ったかもって事?」
「ないけどあったよ。あったけどないよ」
「ないけどあった? あったけどない? つまり、チェシャ猫は覚えてないの?」
頭がこんがらがってきた。つまり、会ったことはあるかもしれないけど、覚えてない。そういうことなのだろうか。最も、はぐらかされている気がしないでもない。
思い返せば、住んでいる場所を聞いたときも曖昧な答えをされたし、チェシャ猫の答えは的を射ない答えばかり。何を考えているのかもさっぱり分からない。魚やネズミを前にした時はとても分かりやすかったのだけど。どこから来たのかも、何を考えているのかも、チェシャ猫は分からない事だらけだ。知って、いきたいのに。
「思い出したとしても、忘れておしまい」
「忘れて、お終い?」
知ろうとすればする程深見に嵌まってく。
「忘れてお終いなんて、そんな事悲しすぎるよ」
ズキリと傷んだ胸に、切なく甘い感情が記憶と共に掠めた気がした。
切ないあの記憶の中に忘れたのは何?
雨の雫が奏でる音楽が、耳を通り過ぎては消えていく。
もう一度問おうとすると、嫌な空気を吸い込んで体が動かなくなる。ピリピリと肌を無造作に撫でる空気。紛れもない、迷いの森で襲いかかってきた暗黒の気配。けれど魔物とは違う、微かな狂気の波長。帽子屋の気狂いに似たようなこの狂気は、幾つか散らばって動いて近づいている。
「微かだけど殺気を感じるね。急いで帽子屋の館へ戻ろうか」
「うん」
チェシャ猫も警戒心を強め、歩く速度を速めた。ここは危険だと頭の中で警報が鳴る。
「まさか、白ウサギ達に何かあったんじゃないよね。これが魔物達なら、白ウサギ達は」
帽子屋が狂った時の事を思い出し、鳥肌が立つ。誰かに寄せる想いや恨みや恐怖が、透明な蔦となって身体に巻きついてくるようだった。植物が育つようにゆっくりと、じんわりと根を張っていく。
「彼等は強いよ。信じて走れるかい? 僕らが狙われているみたいだよ、掴まって!」
チェシャ猫の言葉を回らない頭で整理しながら、速まる足に集中させる。足が縺れて転んでしまいそうだ。
落ち着かなきゃ。パニックになっていたんじゃ、白ウサギへの決意が嘘になってしまう。
「チェシャ猫、少しだけ速度落として」
走る事への集中が減り、躓いてしまう。けれど倒れることはなく、チェシャ猫の腕が支えてくれた。
『ねぇ、遊ぼうよ――』
星が見せた夢の中。幼い私に手をひかれていた、男の子の名前を私は確かに呼んでいた。けれど、記憶に靄がかかっていて思い出せない。
懐かしさを感じたのは、チェシャ猫と会っていたからなの?
もしチェシャ猫なら、チェシャ猫はどうして教えてくれないのだろう。 教えたくない理由があるから?
それともただ単に覚えていないの?
「チェシャ猫。一つ聞いてもいい?」
「ん? なんだい?」
「私とチェシャ猫、幼い頃に会った事はある?」
伏せていた目線を上げ、チェシャ猫の顔を見ると、ぽかん、と不意をつかれたような表情がそこにあった。けれどすぐにいつもの笑みへと戻る。
「ないよ。でも」
「でも?」
「会った事はあるかもね」
「え? どっち? ないけれど会ったかもって事?」
「ないけどあったよ。あったけどないよ」
「ないけどあった? あったけどない? つまり、チェシャ猫は覚えてないの?」
頭がこんがらがってきた。つまり、会ったことはあるかもしれないけど、覚えてない。そういうことなのだろうか。最も、はぐらかされている気がしないでもない。
思い返せば、住んでいる場所を聞いたときも曖昧な答えをされたし、チェシャ猫の答えは的を射ない答えばかり。何を考えているのかもさっぱり分からない。魚やネズミを前にした時はとても分かりやすかったのだけど。どこから来たのかも、何を考えているのかも、チェシャ猫は分からない事だらけだ。知って、いきたいのに。
「思い出したとしても、忘れておしまい」
「忘れて、お終い?」
知ろうとすればする程深見に嵌まってく。
「忘れてお終いなんて、そんな事悲しすぎるよ」
ズキリと傷んだ胸に、切なく甘い感情が記憶と共に掠めた気がした。
切ないあの記憶の中に忘れたのは何?
雨の雫が奏でる音楽が、耳を通り過ぎては消えていく。
もう一度問おうとすると、嫌な空気を吸い込んで体が動かなくなる。ピリピリと肌を無造作に撫でる空気。紛れもない、迷いの森で襲いかかってきた暗黒の気配。けれど魔物とは違う、微かな狂気の波長。帽子屋の気狂いに似たようなこの狂気は、幾つか散らばって動いて近づいている。
「微かだけど殺気を感じるね。急いで帽子屋の館へ戻ろうか」
「うん」
チェシャ猫も警戒心を強め、歩く速度を速めた。ここは危険だと頭の中で警報が鳴る。
「まさか、白ウサギ達に何かあったんじゃないよね。これが魔物達なら、白ウサギ達は」
帽子屋が狂った時の事を思い出し、鳥肌が立つ。誰かに寄せる想いや恨みや恐怖が、透明な蔦となって身体に巻きついてくるようだった。植物が育つようにゆっくりと、じんわりと根を張っていく。
「彼等は強いよ。信じて走れるかい? 僕らが狙われているみたいだよ、掴まって!」
チェシャ猫の言葉を回らない頭で整理しながら、速まる足に集中させる。足が縺れて転んでしまいそうだ。
落ち着かなきゃ。パニックになっていたんじゃ、白ウサギへの決意が嘘になってしまう。
「チェシャ猫、少しだけ速度落として」
走る事への集中が減り、躓いてしまう。けれど倒れることはなく、チェシャ猫の腕が支えてくれた。

