桃色のアリス ~暗黒の魔女とアリスの想い~

 かすれていてはっきりとは読み取れない。ただ、誰かに宛てたもののようだった。
「どうした? アリス」
「あ、何でもないよ」
 帽子屋なら知っているかもしれない。でも、刻まれた文字が、何を意味しているのかは何となく分かった気がしたから。
 帽子屋が本棚の前で手招きをしているので模型を元の位置に戻して、帽子屋に駆け寄る。
 模型に刻まれた文字は、きっと――
『黒ウサギへ』
 まだ会った事のない白ウサギが、瞳の奥で黒ウサギと同じように優しく微笑んだ気がした。
 この部屋には他の部屋にはない本棚がある。本棚には本がぎっしり詰まっていた。帽子屋が手に持っている厚い本の表紙を見る。表紙には『アルバム』と書かれていた。
「アルバム? もしかして白ウサギと黒ウサギの?」
 帽子屋は静かに頷く。このアルバムに会ったことのない白ウサギがいる。
 なんとも言えない緊張感。いつもより心臓の鼓動が速くなる。
「チェシャ猫、お前も見るだろ?」
「当たり前だよ」
 帽子屋はアルバムを持ってベッドへと向かう。
 私の知らない白ウサギ。黒ウサギの事もまだよく知らないけど、白ウサギの事はもっと知らない。
「アリス、チェシャ猫、ベッドに座ってくれ」
 言われた通りベッドに座り、二人で帽子屋の両端に座る。帽子屋がアルバムを開いた。
「最初のページは黒ウサギからだな。これは九年前の写真」
 帽子屋が指した写真には、幼い黒ウサギが写っていた。
「まだ幼いね」
「まぁ九年前の写真だからな。この時はまだ可愛げのある奴だったのだが。今じゃ生意気に家出中だ」
 帽子屋が苦笑いしながら帽子を被り直す。昨日とは違うリボンのついたシルクハット。
「黒ウサギが初めて屋敷に来たのは九年前の冬。雪の降っていた時期だった」
 九年前の冬。
 まだ帽子屋も幼い頃の話を、帽子屋は語る。 
『君は誰? どうしてそんなボロボロの服を着ているの?』
 深夜の三時。突然屋敷のインターホンのチャイムが鳴った。玄関の扉を開けてみると、門の向こうで自分と同じくらいの幼い少年が立っている。ボロボロの服。ボロボロのマフラー。ボロボロのブーツ。こんな寒い中、しかもこんな夜中に一人で立っているとは何事だろう、と俺は思った。
『ねぇ、君は誰?』
 雪の降るなかを歩き、門に近づいた。吐く息が白く、真っ白な雪がしんしんと降っていた。俺は門の柵の前で立ち止まった。少年との距離は近い。
『帽子、買いにきたの?』
 問うと、少年は首を降った。よく見ると頭にウサギ耳が生えている。黒い、ウサギ耳。
 そして、首にかけてあったのは金の懐中時計。
『ねぇ、君は、もしかして黒ウサギ?』
 黒い髪で隠れていた瞳と目があった。影を秘めた瞳。
『……お前が……ぼうしや?』
 黒ウサギだ、とすぐに分かった。
『黒ウサギが、なんで今ここに?』
 こんな、ボロボロになって。なぜ? 
時がくるまで白ウサギも黒ウサギも姿は現さないはず。疑問だった。
『俺を育ててくれた人が死んだ。家を、追い出されてもう……』
 黒ウサギが口をつぐんだ。そしてそのまま顔を反らす。 
『中に、入って』
 どうしてか、自分でも無意識に言葉を発していた。
『いい、のか?』
 放っておけない。幼心にそう思ったのだろう。純粋に、自分ならこんな雪の降る、凍えそうな冬の夜 に放り出されていたくなかった。そしてきっと心の奥で、その先の言葉を恐れていた。
 幼い子供の世界は、帰る家と両親が全てだ。帰る場所がない、一人というのは、俺だって怖かった。