桃色のアリス ~暗黒の魔女とアリスの想い~

 アーチをくぐった。眩しい光が目を焼くようで、腕で光を遮る。暖かい太陽の光だ。足を止めて慣れない目を瞬かせていると、足を何かが擽った。草花、鮮烈な赤。ぼんやりと見えてくる。これは、花だ。 走って荒い息を沈めようと深呼吸すると、身体の中に花の香りが入ってくる。
 赤い花。私チェシャ猫からもらった
「アネモネの花」
「アリス?」
 求めていた声に反射的に顔をあげる。世界全てがアネモネで覆われているくらいの花畑が、青空の下に広がっている。その下にポツンと、猫が座っていた。しっぽについた鈴が、チリンと鳴ると風が吹いて、アネモネの花びらと一緒に桃色の髪を拐おうとする。髪が視界を遮るのを押さえると、猫がいた場所にはチェシャ猫が立っていた。
「チェシャ猫!」
 一歩、二歩、歩いてから駆ける。呆然としていたチェシャ猫の胸に飛び込んだ。
「アリ、ス? どうしてここに? ゆ、め、かい? これは夢かい?」
「夢じゃないよ、夢なんかじゃ嫌だよ。会いたかったよチェシャ猫。私、迎えに来たんだよ」
「本当に、本当にアリスかい?」
「そうだよ、アリスだよ。一緒に旅したアリスだよ、チェシャ猫。……チェシャ猫」
 あぁ、もうだめだ。我慢なんて出来ないよ。
「チェシャ猫、黙って行っちゃやだよ。ううん、どこにも行っちゃ嫌だよ」
 せっかく見ることが出来たチェシャ猫の顔がぼやけていく。瞬きを何度繰り返しても、涙はとまらない。あぁ、なんて胸が苦しいの。胸の辺りに言葉が渦巻いていて、吐き出さなければ胸がはち切れそう。海の底にいるみたいに、息だってままならない。想いの雫がこんなにも流れていても、切ない想いがわき上がってくる。
「嫌だよ。お別れなんて嫌だよ。私、もっともっと一緒にいたい。ずっとずっと一緒にいたかった。一緒にいたい! 旅が終わって、これから先も、ずっとずっと傍で笑っていてほしい!」
 チェシャ猫がいなくなって、真っ暗な夢の中に身を投じた方がマシと思うくらい挫けそうだった。これが甘えだとしても、我が儘だとしても。
「アリス、僕は」
 苦しげに絞り出された声に、今度は胸が引き裂かれそうになる。嫌。聞きたくない。でも、貴方の気持ちを聞きたい。
「君の側にいてはいけないんだ。僕はアリスの案内人。崩壊の始まりを知らせる猫。呪いがなくたって、僕は姿を消していたよ。呪われた猫がいたら、また世界の崩壊がきたんじゃないかって皆に思わせてしまう」
「そんなことないよ!」
「実際旅の中で僕は罵られたし、君も嫌われているのはみたはずだよ。人の心は簡単に変わらない。恐怖なら特に忘れられないよ。僕のことで、君が少しでも傷付くのは嫌なんだよ」
 今度は悲しくて涙がとまらない。帽子屋の館へと戻る途中、狂気に取りつかれた街の人達はチェシャ猫を「不幸の猫」と呼んだ。それに、チェシャ猫を排除までしようとした。あの時のことを思い出すと、指先が冷えていく。
「君が、不幸の猫じゃないって否定してくれて、僕を誰よりも必要してくれるって言ってくれて嬉しかった」
『チェシャ猫は誰も必要としてないモノなんじゃない! 私が、誰よりもチェシャ猫を必要としてるもん!』
 あの時の言葉は、私も覚えている。今だって、チェシャ猫のことを必要としている。案内人ではなく、ただただ、傍にいてほしい人として。