桃色のアリス ~暗黒の魔女とアリスの想い~

 チェシャ猫を傘の中に呼ぶと、おずおずと入ってきたチェシャ猫を幼い私が抱き締める。チェシャ猫のしっぽがぴんと立ち上がり、チェシャ猫は驚きのまま私の肩を掴んで距離をとった。
「き、み」
「ぎゅっとすると暖かいよ?」
「僕、びしょびしょだから君も濡れちゃうよ。それにダメだよ、僕は呪われた猫なんだ」
「呪われた猫? なぁに、それ」
「それは」
 再び黙りこんでしまったチェシャ猫を、雨から守る。瞳は不安で揺れていた。
『僕は世界の崩壊を知らせる者だよ。だからそんな僕がいたら人々は嫌悪する。世界の崩壊が来たんじゃないか、ってね。だからチェシャ猫の僕が存在して嫌われるのは当然の事なんだ』
 迷いの森でフードを被る理由を聞いた時に教えてくれたこと。言えるはずなかったんだ。フードを被らなきゃいけない程に行き先行き先で嫌悪されて、不信が募らないはずがない。拒まれるかもって、思うのは当然だ。
「じゃあ、手を繋ぐのならいい? 手を繋ぐとね、安心するの。怖いことも悲しいことも、なくなりはしないけれど。私は味方だよ、側にいるよって言われている気がするの。涙が出た時はね、手を繋いでもらえるとちょっとおさまるよ」
 今度は刺激しないように、幼い私はそっとチェシャ猫の手に触れる。チェシャ猫はまだ戸惑っているのか、指を一瞬だけ丸め、開く。きっと誰かを受け入れるのも、手を繋ぐのも、手探りで、不安だったのかもしれない。
 指と指がそっと触れ合って離れて。そして二度目は、指が絡まり手と手が繋がる。
「どう? 怖いのと寒いの、ちょっとなくなった?」
「う、ん」
 絞り出された声はまだ無理をしていて。
「大丈夫だよ、大丈夫。アリスが側にいるよ。怖いことはないよ」
「君が、側に」
 チェシャ猫は視線を落として、繋がれた手を見た。強張っていた身体が、少しだけ解れていくようで。ほんの少しだけ、小さなチェシャは微笑んだ。
 これが、私とチェシャ猫の出会い。チェシャ猫に会うまで忘れていた、大切な思い出。無知だった私をこうして俯瞰してみると、恥ずかしい。穴があったら飛び込んでしまいたい。
 迷いの森で、チェシャ猫のフードが破れ、尻尾がマントの間から出ていた時。正体を隠せていないことに対して『そっか。じゃあ意味なかったね』と笑ったそのチェシャ猫は、笑顔の裏でどんな気持ちでいたんだろう。
『私、チェシャ猫はフード被ってない方が好きだなって』
 チェシャ猫だって、きっと好きでフードを被っていたわけじゃない。姿を晒せば、いつまた拒まれるか分からないのに。不安がなかったわけじゃないのに。
『アリスがそう言うならもうフードは被らないよ』
 チェシャ猫は最初から、本当に私の為に行動してくれていた。
 チカチカ、と手元の懐中時計が淡い光を放つと、光は大きくなって周囲を真っ白に包んだ。光に耐えきれずに閉じた目を開けると、一面の薔薇が視界に広がる。
「ここは、お城の庭?」
 薔薇は甘い香りを漂わせ、鼻を擽る。トランプ兵によって整えられた薔薇の庭は、葉一つ乱すのも躊躇われるほど、足を踏み入れがたい均衡がある。幼い頃は、ちっともそんなこと思わなかったのに。
『アリス』
『チェシャ猫、どうしたの? 怪我したの? どうして、そんな悲しそうな顔しているの?』
 天気も良くて、風も暖かい。それだけで笑顔になれるのに、小さなチェシャ猫はやっぱり悲しそうな顔をしている。これは、いつしか夢として見た記憶だ。幼い、私とチェシャ猫。これは昔の記憶。
『悲しいことがあったの? チェシャ猫が悲しいと、私も悲しいよ』