チェシャ猫の記憶の中に、アネモネは今もあるのかな。
少しだけ怖い。チェシャ猫に何度も会いたいと思ったはずなのに。もしチェシャ猫が私を忘れてしまっていたら。もし、アネモネの花が最初から別れの意味だったのなら。
どうして何も言ってくれなかったの?
どうして、幼い頃に会っていたのに誤魔化したりしたの?
チェシャ猫が私にくれた言葉も温もりも、嘘だとは思わない。偽りのない、チェシャ猫の心が手のひらに、言葉にあった。けれど。
いつの間にかアーチの前にたどり着いている。感情の海に溺れそうになったけれど、空気をお腹一杯に吸い込んで、顔をあげる。アーチの向こう側に、猫の背中が見えて、弾けるようにアーチへ飛び込んだ。はずなのに。
アーチの中はトンネルのように永遠と続いていて、アネモネの花畑どころか、出口の向こう側さえ見えない。出口らしい光は見えているけれど、歩いてみても出口が近付く様子がない。
「どうなっているの?」
ふ、とエプロンドレスのポケットに重みを感じて手を入れると、あるはずのない懐中時計が出てくる。
「どうしてここに? ここは不思議の国じゃないのに」
白ウサギのことを、黒ウサギのことを想って何度も握りしめた懐中時計。触り慣れた手触りが、安心させてくれるような、不安を思い出すような。
地面が濡れた匂いに顔をあげると、アーチのトンネルは消えている。目の前にあるのは、不思議の国の城下町。しとしとと降ってきた雨は、私を濡らさない。でも、心なしか肌が冷えて、屋根を叩く雨の音に寂しささえ感じる。まるで迷子になってしまったみたい。
「どうして僕は一人なの」
足元から聞こえた幼子の声に振り向くと、そこには見覚えのある少年が膝を抱えて座っていた。雨に濡れているのに傘もささず、雨宿りすることもせずにいるその子は。
「チェシャ猫!」
「僕が世界を壊すわけじゃないのに。どうして」
瞳いっぱいに涙を溜めて、額を膝に押しあてた。名前を呼んでも、小さなチェシャ猫は気付いてくれない。
どうして幼い姿になっているのか、どうして私の声が聞こえないのか。もどかしくてチェシャ猫に触れようとする私の前に、傘が差し出される。そして、理解した。
「ねぇ、こんな所で座っていたら風邪ひいちゃうよ?」
傘を差し出した女の子は、不思議そうに質問を投げ掛ける。桃色の髪をツインテールにした、まだ世界の崩壊も、使命のことも知らなかった私が横にいる。
顔をあげたチェシャ猫は、怯えたような顔をして、か細く声をだした。
「ぼく、ぼくは」
「ん? なあに?」
小さな声は雨の音で掻き消され、呟きは続きを失う。
「お家どこ? 雨がね、すごいから、アリスね、送ってあげる!」
チェシャ猫は、視線を下げた。黙ってしまったチェシャ猫を心配した幼い私が、チェシャ猫を覗きこむ。
「家は、ないよ」
「じゃあアリスのお家行こう! お城ね、お部屋広いんだ!」
「でも、怒られたりしない? 怒鳴られたり」
「平気! アリスがいるから!」
自信満々な幼い私を前に、チェシャ猫がポカンと口と目を大きく見開いた。雨の雫が真っ赤な髪を伝いながら落ちていく。幼い私はその赤い髪に魅入られて、チェシャ猫がくしゃみをするまで呆けていた。慌てて何か羽織るものがないか見渡すけれど、 路地には布一つ見当たらない。ポケットに手を入れるけれど、キャンディが出てきただけだった。
「ごめんね、寒いよね。温かいの欲しいよね。温かいの、温かいの、温かいの、うーん」
「大丈夫だよ。猫は体温が高いから」
「そっか! 体温!」
少しだけ怖い。チェシャ猫に何度も会いたいと思ったはずなのに。もしチェシャ猫が私を忘れてしまっていたら。もし、アネモネの花が最初から別れの意味だったのなら。
どうして何も言ってくれなかったの?
どうして、幼い頃に会っていたのに誤魔化したりしたの?
チェシャ猫が私にくれた言葉も温もりも、嘘だとは思わない。偽りのない、チェシャ猫の心が手のひらに、言葉にあった。けれど。
いつの間にかアーチの前にたどり着いている。感情の海に溺れそうになったけれど、空気をお腹一杯に吸い込んで、顔をあげる。アーチの向こう側に、猫の背中が見えて、弾けるようにアーチへ飛び込んだ。はずなのに。
アーチの中はトンネルのように永遠と続いていて、アネモネの花畑どころか、出口の向こう側さえ見えない。出口らしい光は見えているけれど、歩いてみても出口が近付く様子がない。
「どうなっているの?」
ふ、とエプロンドレスのポケットに重みを感じて手を入れると、あるはずのない懐中時計が出てくる。
「どうしてここに? ここは不思議の国じゃないのに」
白ウサギのことを、黒ウサギのことを想って何度も握りしめた懐中時計。触り慣れた手触りが、安心させてくれるような、不安を思い出すような。
地面が濡れた匂いに顔をあげると、アーチのトンネルは消えている。目の前にあるのは、不思議の国の城下町。しとしとと降ってきた雨は、私を濡らさない。でも、心なしか肌が冷えて、屋根を叩く雨の音に寂しささえ感じる。まるで迷子になってしまったみたい。
「どうして僕は一人なの」
足元から聞こえた幼子の声に振り向くと、そこには見覚えのある少年が膝を抱えて座っていた。雨に濡れているのに傘もささず、雨宿りすることもせずにいるその子は。
「チェシャ猫!」
「僕が世界を壊すわけじゃないのに。どうして」
瞳いっぱいに涙を溜めて、額を膝に押しあてた。名前を呼んでも、小さなチェシャ猫は気付いてくれない。
どうして幼い姿になっているのか、どうして私の声が聞こえないのか。もどかしくてチェシャ猫に触れようとする私の前に、傘が差し出される。そして、理解した。
「ねぇ、こんな所で座っていたら風邪ひいちゃうよ?」
傘を差し出した女の子は、不思議そうに質問を投げ掛ける。桃色の髪をツインテールにした、まだ世界の崩壊も、使命のことも知らなかった私が横にいる。
顔をあげたチェシャ猫は、怯えたような顔をして、か細く声をだした。
「ぼく、ぼくは」
「ん? なあに?」
小さな声は雨の音で掻き消され、呟きは続きを失う。
「お家どこ? 雨がね、すごいから、アリスね、送ってあげる!」
チェシャ猫は、視線を下げた。黙ってしまったチェシャ猫を心配した幼い私が、チェシャ猫を覗きこむ。
「家は、ないよ」
「じゃあアリスのお家行こう! お城ね、お部屋広いんだ!」
「でも、怒られたりしない? 怒鳴られたり」
「平気! アリスがいるから!」
自信満々な幼い私を前に、チェシャ猫がポカンと口と目を大きく見開いた。雨の雫が真っ赤な髪を伝いながら落ちていく。幼い私はその赤い髪に魅入られて、チェシャ猫がくしゃみをするまで呆けていた。慌てて何か羽織るものがないか見渡すけれど、 路地には布一つ見当たらない。ポケットに手を入れるけれど、キャンディが出てきただけだった。
「ごめんね、寒いよね。温かいの欲しいよね。温かいの、温かいの、温かいの、うーん」
「大丈夫だよ。猫は体温が高いから」
「そっか! 体温!」

