桃色のアリス ~暗黒の魔女とアリスの想い~

1 迷いの森

 チェシャ猫の後ろに続いて、森の奥へと進む。木々に空が遮られているだけでも薄暗いのに、別の何かが一層森を暗くさせていた。僅かな太陽の光を吸って怪しく光っている、木々に巻き付いた蔦や木の実のせいか、それとも森に張り付いている雰囲気なのか。何かの正体がわからないまま、躓きそうな小石や木の根を避けながら進む。奥に奥に進んで行くたび、森から出られないんじゃないかと不安が増す。
 気のせいか、動物も人の気配もないのに、話し声がした気がした。
「気をつけて、アリス」
「え?」
 チェシャ猫が森の奥を睨む。神経を尖らせ、警戒心を露にしたチェシャ猫は、何かを刺激しないようにゆっくりと動く。じわりと肌に広がった嫌な予感に、不安が沸き上がった。
「チェシャ猫……?」 
 どこからか奇妙な気配を感じて、背筋が凍った。感じた事のない嫌な気配。恐怖と不安が入り交じったような、そんな気配。
「な、何が起こっているの?」 
「僕の後ろに隠れていて。傍を離れてはいけないよ」
 チェシャ猫の背中越しに、暗がりを見る。木の影から複数の黒い塊が現れた。恐怖が歪に曲がった、動物達の成れの果てみたいな塊。大小様々で、中には鹿や猪の原型に近いものもいる。影に飲み込まれてしまったような、暗黒を身に纏う、真っ赤な目。それらが浮かび上がる異様な光景に、思わずチェシャ猫の服を握りしめた。
「魔物が出始めたのは崩壊の影響だね。大丈夫。守るから」
『……ピンク色のアリスだ……』
『アリス……アリス……ピンク色のアリス……』
 黒い塊が、血走った目で私を捉える。まるで私達を食べようとしているみたいで、恐怖で体が震える。その恐怖につられる様に、黒い塊がユラユラと近づいて、沼底から異物を吐き出すような声を発した。
『アリス……アリス……魔物の僕らは怖いのかい?』 
「魔物……?」
『僕らは呪いに身を委ねた森の住人……』
『アリスがくるのを待っていた……』
 沢山の赤い目が私を見ている。
 怖い。
 目の前ばかりに気を取られて気がつかなかったけれど、いつの間にか魔物に囲まれている。その数は計り知れず、どこもかしこも魔物が森を覆っているようにさえ思えた。
『アリス、僕らと一緒に……』
 一匹の魔物が体をゆらめかせ、次の瞬間には地を離れていた。チェシャ猫が動き、猫の長い爪が瞬時に魔物を切り裂く。それを合図に、魔物が一斉に飛びかかってきた。魔物の動きに反応したチェシャ猫が、私の盾になる。
 危ない、そう思ったのも束の間で、チェシャ猫が高くジャンプする。それを見た魔物達は口々に叫び出した。
『食べたい、食べたい――』
『アリスが食べたい――』 
 その激しい雄叫びに、ゾワリと鳥肌がたった。チェシャ猫は次々と魔物を切り裂いていき、周囲の魔物が一掃される。切り裂かれた魔物たちは霧になって消えていった。体の力が緩んだ瞬間、別の魔物が、私の方に向かってくる。
 咄嗟のことに叫び声も出すことが出来なくて、もうダメかと覚悟した。だけど衝撃はくることがなく、気づけばチェシャ猫が素早く私の前に回ってきている。魔物の長い爪がチェシャ猫のフードを切り裂くのが見えた。 
「チェシャ猫っ!」
 破けたフードの切れ端が空中を舞う。私を襲ってきた魔物を、チェシャ猫は瞬く間のうちに切り裂いた。フードが破け、見えたのは揺れる赤い髪。無造作なままの赤髪は、血の色のようでも太陽の色でもない、鮮やかな赤色。魅入っていると、こちらを振り向いたチェシャ猫と目が合った。
 茶色い、瞳……
 時の経過が、遅く感じた。チェシャ猫の透き通るような瞳に吸い込まれそうになる。
 初めて見る、チェシャ猫の顔。整った顔立ちのチェシャ猫がこちらを向き終えると、チェシャ猫は唇を開いた。
 小さく、名前を呼ばれた気がした。 
 瞬間、残った魔物達がチェシャ猫の背に飛びかかる。
「チェシャ猫っ! 後ろ!」
 チェシャ猫の背中が、魔物によって切り裂かれる。
「やめて!」
 咄嗟に叫び、近くにいる魔物に体当たりをしたけど、あっさりとはね返された。 
「きゃ!」
「アリス!」
 ドシン、とお尻に衝撃が走る。チェシャ猫は素早く動き、近くにいた魔物を吹き飛ばす。吹き飛ばしたと同時、魔物をどんどん切り裂いていく。気が付いた時には、沢山の魔物達の姿は消えていた。
「チェシャ猫、怪我は!」
 直ぐにチェシャ猫に駆け寄り、傷を見る。沢山の魔物を相手にしたのなら、怪我をしているはず。
「私を庇った時、怪我したよね、背中は? 早く怪我の手当てをしなきゃ」
 怪我を見ようと手を伸ばすと、腕を捕まれる。私の腕はチェシャ猫の大きな手にすっぽりと包まれていた。
 チェシャ猫を見ると、こちらをじっと見つめている。 
「無茶をしたね。僕は平気だから。怪我はないかい?」
「チェシャ猫が守ってくれたから大丈夫だよ」
 私の答えに、チェシャ猫はすっと目を細めた。優しい瞳で見つめられて、ドキッとする。
「チェシャ猫、背中見せて?」
 私の言葉に安心した表情を見せたチェシャ猫の顔を横目に、後ろへと回る。そんな表情されたら、私はどんな顔をすればいいんだろう。そんな事を思いながら背中を見ると、幸いフードが破けているだけだった。
「良かった。血は出ていない」 
 ふとチェシャ猫の頭を見ると、赤い髪に黒い猫耳。 
「その、チェシャ猫、フード、破けっちゃったね」
「うん。破れたね」
 ずっと被っていたって事は何か理由があるんだろうし、何だか申し訳なくなって心苦しくなる。
「いいんだよ。元々このマントは猫だとバレないように着ていたものだから。此処には人がいないから問題ないよ」
「猫だと何がいけないの?」 
 不思議に思って聞くと、チェシャ猫が困ったような顔をした。