一瞬目を離してしまったからか、鏡から女の子は消えてしまった。チェシャ猫は不思議そうに鏡を覗きこんで、叩いてもみたけれど、何も起こらない。
「アリスしか映ってないよ。それに、鏡の中には入れないみたいだ」
鳥肌がたった腕をさする。幻覚だったのだろうか。何だか、自分が自分でなくなるようで、怖い。
「そろそろまた時間がとぶよ。手を離さないで」
「うん」
怖さを包むように、チェシャ猫が手を握ってくれる。とたんに時間が早送りになって、景色が変わっていく。体の中を掻き回されるような浮遊感に耐えながら考えた。
女王様は、鏡に向かって叫んでいた。誰かと会話するみたいに。鏡の中と言えば夢魔だけれど、この時代の夢魔と話していたのだろうか。それとも。
『チェシャ猫、チェシャ猫、どこ!』
甲高い叫びが聞こえて、体が引っ張られる。
時間の渦から無理矢理引っ張られるようで、目眩が起きないように、気休めだとしても私は瞬きを繰り返した。
――探しても探しても見当たらない。あの時から彼の姿は消えてしまった。ニヤニヤ笑って、からかったと思えば寂しい顔をして。最後に私の目を塞ぐといつものように消えていた。神出鬼没の、煙のような捉えのない猫。
少女が走っている。黄色のエプロンドレス。少女は泣いていた。
――髪が頬にへばりついて鬱陶しい。エプロンドレスが膝に触れる度、言い様のない焦燥感が込み上げて、余計に胸が苦い。喉だって、痛い。走りすぎて、息を吸えば吸うほど喉が擦りきれて、走るのを止めたくなる。でも止められない。だって彼が、チェシャ猫が見つからないから。
『ニヤニヤ笑って、前のように現れてよ! 消えないでよ!』
少女は叫んだからか、足からガクンと力が抜け、勢いがおちる。それでも、歩みを止めない。
足元を見ると、崩れかけていた土が吸い付くように溶け込んで、地面は元通りになっていく。見上げれば暗黒の色に覆われていた空は、失われていた色を取り戻していく。吸い込んだ空気は、元の綺麗で美味しい空気だった。
復元していく、壊れた世界。
――私を、苦しめていた役割ももうない。だってそれは、ウサギを消したことで終わったのだから。私だけが解放された。私だけが、役割を終えた。他の皆はまだ呪いに縛られたままなのに。私だけ。アリスだけが。
『チェシャ猫、どこに、行ったのよ。嘘つき、チェシャ猫の嘘つき』
呪いから解放されていない貴方はどこに消えたの?
『こんな結末なら、世界が壊れた方がマシだった!』
体が転がり落ちる。地面に叩きつけられる衝撃を和らげたのはチェシャ猫で、私を抱え込んで受け身をとったみたいだ。
「大丈夫かい? アリス!」
「うん、平気」
チェシャ猫がいなかったらと思うとゾッとした。私だけで地面に叩きつけられていたら、骨を折っているか、打ち所が悪くて死んでいたかもしれない。
それより、今の記憶は何?
叫びが聞こえた。何代目かのアリスが走っていて、チェシャ猫を探していた。
消えてしまったって、どういうこと?
「チェシャ猫、今の記憶、見た? チェシャ猫も、消えてしまうの?」
言葉にしてから、しまったと思った。チェシャ猫が固まってしまった。
「誰の記憶を見たんだい? 僕は、何も見ていないよ」
幼少の頃。忘れていた記憶がふっと蘇る。色褪せた記憶は瞼の裏で止まった景色として浮かび上がった。そして、チェシャ猫との別れを思い出させた。
『チェシャ猫、行っちゃいやだよ』
「アリスしか映ってないよ。それに、鏡の中には入れないみたいだ」
鳥肌がたった腕をさする。幻覚だったのだろうか。何だか、自分が自分でなくなるようで、怖い。
「そろそろまた時間がとぶよ。手を離さないで」
「うん」
怖さを包むように、チェシャ猫が手を握ってくれる。とたんに時間が早送りになって、景色が変わっていく。体の中を掻き回されるような浮遊感に耐えながら考えた。
女王様は、鏡に向かって叫んでいた。誰かと会話するみたいに。鏡の中と言えば夢魔だけれど、この時代の夢魔と話していたのだろうか。それとも。
『チェシャ猫、チェシャ猫、どこ!』
甲高い叫びが聞こえて、体が引っ張られる。
時間の渦から無理矢理引っ張られるようで、目眩が起きないように、気休めだとしても私は瞬きを繰り返した。
――探しても探しても見当たらない。あの時から彼の姿は消えてしまった。ニヤニヤ笑って、からかったと思えば寂しい顔をして。最後に私の目を塞ぐといつものように消えていた。神出鬼没の、煙のような捉えのない猫。
少女が走っている。黄色のエプロンドレス。少女は泣いていた。
――髪が頬にへばりついて鬱陶しい。エプロンドレスが膝に触れる度、言い様のない焦燥感が込み上げて、余計に胸が苦い。喉だって、痛い。走りすぎて、息を吸えば吸うほど喉が擦りきれて、走るのを止めたくなる。でも止められない。だって彼が、チェシャ猫が見つからないから。
『ニヤニヤ笑って、前のように現れてよ! 消えないでよ!』
少女は叫んだからか、足からガクンと力が抜け、勢いがおちる。それでも、歩みを止めない。
足元を見ると、崩れかけていた土が吸い付くように溶け込んで、地面は元通りになっていく。見上げれば暗黒の色に覆われていた空は、失われていた色を取り戻していく。吸い込んだ空気は、元の綺麗で美味しい空気だった。
復元していく、壊れた世界。
――私を、苦しめていた役割ももうない。だってそれは、ウサギを消したことで終わったのだから。私だけが解放された。私だけが、役割を終えた。他の皆はまだ呪いに縛られたままなのに。私だけ。アリスだけが。
『チェシャ猫、どこに、行ったのよ。嘘つき、チェシャ猫の嘘つき』
呪いから解放されていない貴方はどこに消えたの?
『こんな結末なら、世界が壊れた方がマシだった!』
体が転がり落ちる。地面に叩きつけられる衝撃を和らげたのはチェシャ猫で、私を抱え込んで受け身をとったみたいだ。
「大丈夫かい? アリス!」
「うん、平気」
チェシャ猫がいなかったらと思うとゾッとした。私だけで地面に叩きつけられていたら、骨を折っているか、打ち所が悪くて死んでいたかもしれない。
それより、今の記憶は何?
叫びが聞こえた。何代目かのアリスが走っていて、チェシャ猫を探していた。
消えてしまったって、どういうこと?
「チェシャ猫、今の記憶、見た? チェシャ猫も、消えてしまうの?」
言葉にしてから、しまったと思った。チェシャ猫が固まってしまった。
「誰の記憶を見たんだい? 僕は、何も見ていないよ」
幼少の頃。忘れていた記憶がふっと蘇る。色褪せた記憶は瞼の裏で止まった景色として浮かび上がった。そして、チェシャ猫との別れを思い出させた。
『チェシャ猫、行っちゃいやだよ』

